十字架上のお言葉(その2):「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」 ウイリアム・L・モーア

ルカによる福音書23章39-43節

【有名人物の最期の言葉】
有名な人物の最期の言葉はその者の性格と価値観をよく表しますから、意味深くて大変面白いです。美術家で科学者でもあり、建築家でもある、天才と呼ばれた、イタリア人レオナルド・ダ・ダヴィンチは亡くなる直前にこのように言いました。「私の作品は物足りなかったので、私は神と人間に対して罪を犯しました。」また、アメリカの大統領グローバ・クリ−ウ゛ランドの死にぎわの言葉は、「私は一生懸命に正しい事をしようとしました。」また、有名な映画プロデューサー、ルイス・マイヤーはこのように言いました。「何もかもない。全ては空しいです。」そして、メキシコの革命家パンチョ・ウ゛ィヤは最期の言葉として補佐官にこのように言ったそうです。「このまま終わってはいけません。私が偉いと皆に知らせてくれ。」共産主義の創始者カール・マルクスは死にかかっていた時、家政婦が、「書き記す為、臨終の言葉をおっしゃって下さい」と言うと、このように返事して亡くなったんだそうです。「速く出て行け。臨終の言葉何かない。そんな事は大事な言葉を言った事のない人の為だ。」

先週から始まりましたが、受難節の際に、私達はイエス・キリストの十字架からの御言葉を学んでいます。その七つの言葉は結局、主イエスの大事な最期の言葉になります。目的と意味と愛に満ちているお話です。実は、その主の最期の言葉は神が御子の十字架の贖いの死を通して、どのようにして、私達人間の最も重要なニーズに答えたかをはっきりと啓示されます。つまり、神は十字架を持って、どのような救いを私達に提供するかを説明して下さいます。

先週私達は十字架上の主イエスの第一の御言葉を学びました。それは、御自分に罪を犯す者、また、御自分の敵の為の赦しの言葉です。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

とおっしゃいました。つまり、十字架の贖いを通してイエス・キリストを救い主として信じる者は誰でも神から罪の赦しを受けられます。自由に主イエスの義を頂き、神の愛された子供のように受け入れています。その赦しの言葉が十字架上の第一の御言葉です。

【十字架上の第二のみ言葉:「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」】
今日の第二の御言葉は永遠の救いの御言葉です。主イエスは

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と側の十字架に掛けられていた犯罪人の一人に約束して下さいました。

イエス・キリストは二人の犯罪人と共に死刑されました。マルコによる福音書に記されていますが、彼らは強盗でした。つまり、彼らの罪はただ万引きではなくて、暴力を用いて人から財産を奪いました。恐らくその二人の強盗は「善いサマリア人」と言うイエスの譬え話に出た追剥ぎのようでした。多分犯罪を起こした時、犠牲者に重傷を負わせたり、殺したりしてしまいました。とにかく、その二人の犯罪者が当局によって捕えられ、主イエスと共に十字架に掛けられました。

主イエスはその二人と共に処刑されたのはただ偶然ではなかったと思います。当局はわざわざイエスを普通の犯罪者の間で罰を受けさせました。その事によって、イエスも強盗のような罪人であると皆に見せたかったのです。共に同じ罰を受けたから、同じような悪者である印象を人々に与えたかったでしょう。また、主をその卑しい悪党と一緒に罰する事によってイエスに恥をかかせようとしました。当局は自分の計算をして主を強盗と共に死刑しましたが、実際にそれは旧約聖書の預言の成就でした。イザヤ書53章12節に救い主について、

「罪人の一人に数えられた」

と言う預言が記されています。実に、御自分の御子をその二人の間で十字架の死を受けさせるのは神の御計画であって、神の御旨でもありました。その事によって御自分が提供なさる永遠の救いをはっきりと現したかったのです。

【イエスと共に十字架に架けられた二人の犯罪者】
さて、その二人の犯罪者を一人ずつ見てみましょう。今日の御言葉の39節にこの事が記されています。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシア(すなわち、救い主)ではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」

彼は自分の罪の故に十字架の拷問を受けても、その罪を悔い改めず、罪の全くないイエスをわざわざあざけて馬鹿にしようとしました。恥知らずな彼はイエスの憐れみ深い言葉、

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」

と聞きました。イエスは自分のような犯罪人ではないとよく知りながらでも、主の善を認めず、イエスに侮辱しか言えませんでした。その強盗はすぐ側にいらっしゃる神の御子から罪の赦しを受ける立ち場ですけれども、その赦しを拒否して、清い者に呪いを言いながら、その日地獄へ落ちてしまいました。彼は大事な選択をしたと思います。そして、その選択は永遠に彼に影響してしまいました。

【悔い改めた強盗】
今度、もう一人の強盗を見てみましょう。彼は悔い改めない犯罪人をこのようにたしなめました。40節から彼の言葉が記されています。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。」

彼は主イエスの清さと義を認めると同時に、自分の罪深さが分りました。実際、自分をイエスと比較すると、自分の酷い罪が悟らされ、正しい報いを受けていると分って来ました。だからこそ、彼はもう一人の犯罪人をたしなめ、イエスの為に言い開きをしました。確かに彼は酷い罪を犯しました。しかし、もう一人の犯罪人と違って、彼は自分の罪を認めて、そして、心から神を畏れました。永遠の滅びに直面した彼は我に返って希望と信仰が湧き出て来て、

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」

と願いました。そして、主イエスはすぐに答えられました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と約束されました。

【楽園】
この「楽園」と言う単語は元々ペルシアから来ました。その文字通りの意味は、塀に囲まれた王様専用庭園です。大昔、ペルシア帝国の王様は特別に親しい者や敬意を表したい者などを自分の「楽園」に招き、共にその美しいお庭を楽しみました。間違いなく、ここで主イエスは楽園と言われるとき天国の意味がありました。しかも、その犯罪人は天国へ行くだけではなく、神との親しい交わりも楽しむ事が出来ると教えられました。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と主イエスが約束されました。

【この御言葉の三つの大事な真理】
愛する皆さん、この事件とイエス・キリストの十字架からの救いの御言葉は少なくとも三つの大事な真理を現して下さいます。第一に、救いへの道は驚く程簡単です。永遠の救いは難しいし、聖人のみが受けられる賜物だと悪魔は私達を信じさせたいのです。しかし、それは大きな偽りです。犯罪人はただ、

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」

と願ったのです。確かに、その願いには悔い改めと信仰があったのですが、実に、彼はイエスと聖書と神学についての知識は殆どなかったのです。ただきわどいところで、自分の一番大事なニーズがやっと悟らされ、イエス・キリストの憐れみに頼り、救いを求めました。ローマの信徒への手紙10章13節に

「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」

と記された通りです。救いへの道は複雑ではありません。実に簡単です。

この御言葉の第二の真理は、どんなに罪深い人でも神の救いを頂けることです。間違いなく、主イエスと共に十字架に掛けられた犯罪人は本当に悪者でした。彼は多分何回も暴力を用いて人の物を奪い取りました。恐らく悪事を働いた時、人の命も奪ったでしょう。しかし、自分の罪の程度に関係なく神から永遠の救いを頂きました。もし主イエスの救いがその悪党にまで届くならば、必ず私達にも届きます。イエス・キリストの十字架の死はどんな罪でも贖う力があります。悔い改めと信仰の故に神はその強盗を受け入れて下さいましたので、どんなに罪深くて、どんなに足りなくて、どんなに弱くても、神は御子イエスを信じる者を御自分の尊い子供のように赦し、自由に救いと永遠の命を賜ります。

【救いに関する誤解】
ある人は神の救いを誤解して、その恵みを受ける前に、先ず自分の足りない所を直したり、自分の罪をなくしたり、善い人間になってからだと言います。しかし、その時まで待つならば、遅すぎるかも知れません。実は、私達の義に頼ったら、滅びしか期待出来ません。神はありのままで私達を受け入れたいのです。なぜなら、神は私達を見ると、私達の義ではなく、その代り私達の為に死んで下さった主イエスの完全な義を見ます。神はもうすでに救いの道を開きましたから、私達はありのままでその恵みを頂くべきです。

【御言葉の第3の真理】
最後に今日学ぶ主イエスの十字架からの御言葉を通してもう一つの真理が啓示されています。それは私達の救いは全く神様の一方的な賜物のお陰です。その永遠の救いは人間が行う宗教的の儀式も、善行も、努力にも頼っていません。もちろんその事は大事ですけれども、救いの為に絶対に必要なものではありません。今日の強盗の場合はその事をする時間がなかったのですが、主イエスから救いを頂きました。救いは始めから終わりまで神の賜物です。そして、悔い改めと信仰を通してその賜物を自由に受けられます。

もう一つの大事な事を覚えて頂きたいのです。イエスと共に十字架に掛けられた犯罪人二人がいました。一人は悔い改め、信仰を通して救われましたが、もう一人はその救いを拒否して信じませんでした。両方の人には選択の時が来ました。そして、彼らにはその選択は改変出来なかったのです。

私達にも選択の時があります。これからの地上の時間は限られ、もちろん保証されていません。そして、生涯自分が選択しなかったら、結局選択させられます。

「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出して下さい」

と私達も皆、願いたいのです。

【この時計をあげよう】
ある先生は自分が大事にしていた腕時計を生徒に上げたかったのです。先は一番背の高い子供に時計を出して見せてから、「もしこの時計が気に入ったら、上げよう」と言いました。すると、背の高い子は先生が冗談を言っていると思ったので、笑うだけで何も言わなかったです。

先生は今度は次の生徒にも同じように言いました。次の子も、もし手を出して受け取ると人に笑われそうで、黙っていました。

先生は次に一番小さい生徒にも同じように言いました。するとその手はすぐ時計を受け取り、時分のポケットに入れながら、お礼を言いました。先生は、「私の言葉を信じてくれて本当にありがとう。その時計は君の物だから大事にしなさい」と言いました。その時になって始めての二人の子供は、「本当にくれるのだったのね。本当だったら私が貰えばよかったのに」と後悔しました。

神は一番大事なプレゼント、すなわち御子による永遠の救いを私達に提供下さいます。私達は受ける価値がありませんが、代価なしで受け取れば良いのです。
(おわり)

2006年03月19日 | カテゴリー: イザヤ書 , マルコによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

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