隣人を愛する事 ウイリアム・モーア
マタイによる福音書22章34-40節
【ある運転手と暴走族】
あるトラックの運転手が高速道路のサービスエリアで車を止めて、レストランに入りました。大変空腹を覚え、ハンパーグステーキとマッシュポテトとグリンビンズを注文し、口に唾がたまる程その大好きなメニューを楽しみに待っていました。そして、やっとウェートレスが食事を持って来て、運転手さんは美味しそうに食べ始めました。その時です。暴走族の連中がレストランに入って来て、運転手の隣のテーブルに座り込みました。しかし、そのテーブルには皆が座れる余地がないから、番長らしい人が運転手に向かって、「退け!あんたのテーブルを譲れ」と怒鳴りました。そうすると、運転手は、「食事はもうすぐ済むから、ちょっと待って下さい」と言いました。すると、番長らしい人が運転手のコーヒー・カップを自分の手に取って、コーヒーをその食事の上に流してしまいました。そして、「これで食事が済んだぞ。早く帰れ」叫びました。
運転手は何も言わずに立ち上がって、平然とレジの方へ歩いて、暴走族の笑いを後ろにしながら会計を済ませました。事件を見ていたウェートレスは申し訳ない気持ちで外まで運転手に付いて行って見送りました。そしてウェートレスがレストランに戻った時、連中の一人は彼女に言いました。「あの親爺は弱虫だぞ。本当に男らしくないね。」すると彼女はこう返事しました。「男らしくないと言えば、運転も大変下手ですよ。運転手なのに出た時、外で並んでいたあなた達のオートバイ8台をトラックで轢いて帰ってしまったよ。」
【復讐】
私達はこのストーリを聞くと笑いますが、更に何とも言えない満足も感じる事だと思います。なぜなら、あの暴走族の連中は相応(そうおう)の罰を受けたからであります。正義が行われました。私達は傷つけられたら、傷をつけたい気持ちが強いのです。しかし、多くの場合は勇気が出せないから仕返しが出来なくて、我慢するしかありません。ですから、私達は先程のストーリの何倍もの復讐劇を聞いては喜ぶのです。恐らく私達は密かにあの運転手のようになりたいかも知れません。やられたらその倍にして返すのです。
今日は先週より始まったイエス・キリストの愛についての教えを続けたいです。覚えていると思いますが、ある日、ユダヤ教の律法専門家がやって来て、主イエスにこのように尋ねました。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
つまり、「ユダヤ教の沢山の戒めの中でどれに集中すべきですか。」そして、主イエスはその質問にはっきりと答えられました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
先週、パート1「神を愛する事」を学びました。神は大きな愛を持って私達一人一人を計画的に創造して、そして、御自分の独り子イエス・キリストを通して私達を救って下さいました。そのように神が先ず私達を愛して下さいましたので、私達は神を愛する事が出来ます。そして、私達は神の救いを受け入れる事と主御自身の教えに従う事によって主に対する私達の愛を表します。
【隣人を愛すること】
今日はパートIIで「隣人を愛する事」を学びたいと思います。「隣人を自分のように愛しなさい」と主イエスが教えられました。しかし、ここでの「隣人」は誰でしょうか。字引きを引くと文字通りに隣人は 「となり近所に住む人」となります。つまり、関係のある人、あるいは親しい者です。そう言う定義だったら、前のストーリの暴走族の連中は決してトラックの運転手の隣人ではありませんでした。却って彼等は運転手には赤の他人、しかも、正当な理由がないのに侮辱する敵の存在になりました。ですから、そのような人だったら、自分のように愛さなくても良いのでしょう。確かにそのような人は隣人ではありません。
【善きサマリア人】
ある日、律法の専門家がイエスに、「私の隣人とは誰ですか」と尋ねました。そして、その質問に答えるように主は譬え話を語りました。その譬え話は「善いサマリア人」と呼ばれ、良く知られています。多分皆さんもこの譬え話をご存知だと思いますが、もう一度聞いて下さい。
「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、ほうたいをして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行ってかいほうした。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人をかいほうして下さい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10章30--37)
ところで、その時代、宗教上の理由でユダヤ人はサマリア人を見くびって、全ての交際を避けていたのです。ですから、譬え話のサマリア人は骨折って自分の敵の民、また、赤の他人を救って下さいました。ですから、主イエスによりますと、全ての人々も、敵さえも、私達の隣人になり、自分のように愛すべきだと言っています。特に、人助けが必要な者は私達の隣人になります。私達はトラックの運転手の気持ちが良く分りますが、決して彼は愛を持って相手を扱いませんでした。それどころか復讐心に負けて相手を害をしました。
もし「隣人」とは全ての人間同士であるならば、私達はどのようにして愛すべきでしょうか。先週、聖書に於ける愛と言う概念を少し学びました。愛は人に対する暖かい感情よりも、人の為の善い行いになります。その行動はおもに感情から来るのではなく、自分の態度と選択と意思に基づいています。ですから、愛するには、相手に対する良い気持ちが自分から出るまで待たなくても良いのです。その気持ちがなくても、相手に善い事が出来ます。
【自分のように愛しなさい】
そして、どのようにして人を愛すべきですか。相手を
「自分のように愛しなさい」
と主イエスによって教えられています。私達は生まれつき自分自身を愛します。例えば、お腹がすいたら、空腹痛を抑える為、食べます。同様に寒かったら、自分を暖める為に洋服や暖かい物を掛けます。病気で痛みを感じる時、治療を求めます。そして、誰でも出来るだけ自分を危険から守りたいのです。また、人によって評価されたい気持ちもあります。様々な面で私達は自愛を現します。そして、基本的にその事は悪くはありません。神は自愛を持つように私達をお造りになりましたから、その事は良いのです。空腹を感じる事や、自分の身を守る事や、評価されたい気持ちなどはそれ自体決して悪い事ではありません。しかし、私達は自愛する事だけに終わってはいけないと言う事です。
【隣人を自分のように愛しなさい】
「隣人を自分のように愛しなさい」と主イエスに教えられています。つまり、自分が空腹の時、食べたがるように、同様に飢えている隣人に食べさせたい意思が必要です。そして、自分が平和の内に安定して暮したいのならば、隣人もその同じ恵みを貰えるように努めるべきです。そして、自分の健康を守るように、隣人の健康の為にも力を尽くして行うべきです。また、自分の気分を大事にするように、相手の気分も大事にしなければなりません。つまり、主イエスが教えられたように、
「人にしてもらいたいと思う事を、人にもしなさい。」(ルカ6章31)
私達はそれはとても善い教えであると判断すると同時に、ちょっと理想すぎると思う気持ちもあるかもしれません。何故なら、一番近い者と自分を愛してくれる者さえも愛する事が難しいし、失敗する時も沢山あります。いったいどうして他人と敵さえも自分のように愛する事が出来るでしょうか。自己中心的な私達は自愛のみで終わりがちです。自分と自分の家族を食べさせる事、自分を守る事、と自分の仕事をする事で精一杯ですから、隣人の幸福の為に努めるのは無理ではないかと思い込んでも可笑しくはありません。
【隣人を愛する事は如何にして可能か】
しかし、神は決して不可能な事を私達に要求しません。もし
「隣人を自分のように愛しなさい」
と言う戒めが無理だったら、決して私達に教えたはずはありません。実は、愛である神は私達の愛を助けて下さいます。隣人を愛するように力や忍耐や自制や謙遜などを賜って下さいます。そして、御自分の御子イエス・キリストの模範も示して下さいました。私達が罪の故に神の敵であったとき、私達の救いの為に主イエスは自ら進んで御自分の命を捨てて下さいました。主は先ず救いと永遠の命に値しない私達一人一人を徹底的に愛しましたから、私達は神の助けによって隣人を愛する事が出来ます。
【あるクリスチャン農家】
ある中国人の農家が田んぼを持っていました。そして、稲を灌漑する為、毎日バケツで用水路から水を運んで田んぼに入れました。しかし、毎日稲に水を注ぐと、下の田んぼの持ち主がやって来て、田んぼの間の板を外し、苦労して汲んだ水を自分の田んぼに流し取ってしまいました。腹が立ちましたが、相手は村長ですから、彼は何も出来ないと思いました。農家はキリスト者ですから、神に祈りました。「神様、この状態が続けたら、稲が枯れてしまい、収穫が出来なくなります。そうなると、家族は食べ物がなくて困ります。どうしたら良いでしょうか。導いて下さい。」そして、神は答えて、知恵を与えて下さいました。彼は次の日、朝早く、田んぼへ行って、先ず村長の田んぼを灌漑しました。それから、次に自分の田んぼに水を注ぎました。村長はそれを見て驚きました。そして、その驚きは恥に変わりました。彼は泥棒のような行為をしたのに、相手は何も文句を言わず、そして自ら進んで村長の田んぼを灌漑しました。その愛の業を経験した村長は相手に謝って、やがて彼等は友人になりました。
「隣人を自分のように愛しなさい」
と主は私達一人一人に教えて下さいます。どうか、主に頼り、毎日の生活で私達の周りの者を心から愛する事が出来るように祈りましょう。(おわり)
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