人を裁くな ウイリアム・モーア
マタイ7章1一6
【皮肉屋の理髪店主】
次のストーリは本当か、どうかは分りませんけれども、ある男の人が理髪店へ行って、主人に髪を切ってくれるように頼みました。理髪店の主人は非常に頑固で何でも批判的な態度を取る習慣がありました。どんな話題であっても、彼の話はいつも悪口と酷評で終わてしまいました。「政治家は皆賄賂を取る奴ら」とか「今の若い人は怠け者ばっかりだ」のような発言で有名になりました。
散髪する間、いつものように男の人と主人の会話が盛り上がり、男の人は「出張でもうすぐイタリアのローマへ行くつもりなんだよ」と言いました。床屋さんは「どんな航空会社を使って、何と言うホテルで泊るのかい」とすぐ聞きました。そして、男の人が答えると床屋さんは、「あの航空会社は危ないよ。去年恐ろしい事故があったの覚えてるだろう。」そして、「特にそのホテルは酷い。サービスが最低だと聞いてる。ローマへ行かない方が良いじゃないか」と強く押し付けました。
「大事な仕事があるので、ローマへ行かなければなりません。そして、仕事が済んでからローマ法王に拝謁を賜りますから、是非行こうと思います」と男の人が返事しました。しかし、「ローマ法王は一番堕落した神父なのに、どうして会いたいのかい」と床屋さんが言い返しました。
数週間後、男の人はローマから帰って来て、理髪店へまた行きました。「ローマの旅はどうだったかい。多分大変だっただろう」と言う挨拶で主人が男の人を迎えました。「いいえ、素晴らしい出張になりました。航空会社もホテルも大満足しました」と答えました。「法王に会ったかい。がっかりしたでしょう」と主人が言うと男の人はこのように答えました。「もちろん会いましたよ。実は、法王の前にひざまずいて法王の指輪にせっぷんする事が許されました。大変な光栄でした」と男の人が言いました。
「教えて。その時、法王は何を言ったかい」と床屋さんが聞きますと、男の人はこのように言いました。「実は、ひざまずくと、法王は御自分の手を私の頭に置いて下さって、このようにお尋ねになりました。『我が子よ、この下手くそな散髪はいったいどこでされたのか』とお聞きになりました。」
【人を裁くな】
イエス・キリストはこのように教えられました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにする為である。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1)
【律法学者達とファリサイ派の人々】
主イエス御自身が当時の社会を見られたとき、問題が一つ明かになりました。それは特に律法学者達とファリサイ派の人々は自分たちを自ら任じる裁き人としていました。彼等は社会を見て、自分が決めた標準に達する事が出来ない人を厳しく裁きました。そして、その人々に「罪人」と言う名を付けました。もちろん自分達は決してその罪人の中にある者ではないと信じ込んでいました。結局、自分達がイスラエルの正しい裁き人と思い込みましたから、当然自分達が「義人」であると確信しました。もし自分達が罪を犯すのなら、その罪はあんまり大したものではないので、気にしなくても良いと思いました。そして、自分達が誰よりも「神の誇り」であると信じました。
自ら決めた裁き人、義人ですが、律法学者達とファリサイ派の人々は仕事がありました。それは「罪人」を探し出し、そして、その罪人を罰する事です。実は、その事によって自分達が神様に仕えていると信じました。自分達が「神の剣」と思い上がって、罪人を裁き、苦しめました。
彼等は結局自分達が犯した罪を隠して、あるいは自分の罪を実際より小さく見積って、他人の罪と過ちを注視しました。他の人と同じように人間と神に対して罪を犯しているのに、自分達が「正しい」と言う独善的な態度を取っていました。
【裁かれないために】
このような背景的事情から主イエスは「人を裁くな」と教えられました。それは単に人を裁く事がいけない事だからですか。あるいは、裁くと、罪を犯すことになるからですか。実は、主イエスによりますと、人を裁くなという理由は「あなたがたも裁かれないようにする為である。」つまり、裁く事と裁きを受ける事が繋がっています。イエスは更にこのように宣言しました。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」人間と人間のレベルだったら、それはもちろん事実その通りです。相手を厳しく裁き、非難しますと、いつかその事が自分に戻って来ます。つまり、相手によって裁かれる日が来ます。人間の心にある復讐の根は深いものです。傷つけられたら、傷をつけたい気持ちが強いです。ですから、自分が人を裁くと、人によって裁かれる可能性が高いのです。それは誰でも知っているはずの常識です。しかし、ここで主イエスはただ単に常識を教えるつもりではなかったと思います。実は、主イエスによりますと、私達が周りの者を厳しく裁くなら、そのような裁きを神から受けると予想した方がよいとおっしゃっています。つまり、神によって私達の「裁く裁きで裁かれ」てしまいます。私達の「量る秤で量り与えられます。」
【主の十字架の贖いにより罪が許された】
罪深い私達は神から憐れみを豊に頂きました。主イエスの十字架の贖いのお陰で私達の全ての罪が赦され、神に愛された子供として受け入れて下さいました。罪の支払う報酬は永遠の死なのに、神は御自分の独り子を犠牲にして、私達を救って下さいました。その大きな憐れみと御配慮を頂いた私達は、同じような憐れみと配慮を持って、隣人を扱うべきです。
この大事な事を教える為にイエスは譬え話を語って下さいました。同じマタイによる福音書に記されています。18章23以下の所を見て下さい。
この譬話の背景は今日のテキストの背景とはちょっと違いますが、同じような原則が適用されています。神によって赦されているので、私達は隣人を赦すべきです。同様に、神によって大らかに裁かれた私達は人を大らかに裁くべきです。そうしないと、私達は自分に対する神の比べられない程の愛と御配慮が分っていない、あるいは経験されていないと主が教えられています。私達に対する神の同じような恵みを隣人に現さなければならないと言う事なのです。さもないと、神の憐れみの代わりに、神の正しい裁きを受ける恐れがあります。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来達に貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン(約一兆円)借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済出来なかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待って下さい。きっと全部を返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百テナリオン(約100万円)の借金をしている仲間に出合うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間達は、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と主イエスが言われました。
【自分の目の中の丸太】
続いて、主イエスは面白いイメージを用いて私達人間の弱さを教えて下さいます。今日の個所の3節を見て下さい。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。」
全人類は少なくとも一つの共通点があります。それは人をより厳しく裁きますが、自分自身を裁くときは、その裁きは非常に軽いです。つまり、自分よりも人に対する標準と期待が遥かに高い訳です。イエスが言われたように、私達は兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太になかなか気づかないのです。
車を運転する時、私は色々な、とんでもない事を見る事が出来ます。信号を無視する車。速度違反の車。非常に不注意な運転する車。大変失礼な運転の車。高速道路の車線の真ん中に車を止めて地図を覗いている事も見た事があります。そして、そのとんでもない事を目撃すると、色んな言葉が私の口から出てしまいます。ここではその言葉を繰り返すことをしませんが、その言葉は褒める言葉ではありません。しかし、よく考えて見ますと、実は私もたまにその同じような違反をうっかりしてしまいます。そして、正直言えば、知りながらでもする事もあります。けれども、その場合、自分自身を裁きますか。他人を責めた同じ言葉で私は自分を責めるのでしょうか。とんでもありません。もしした事に気づいたら、自分の行動をすぐ正当化します。「訳があるから大丈夫だ」、「しかたがない」とか自分に言い聞かせます。つまり、自分自身の行動を量るには別の標準があります。そして、その標準はあんまり高くはありません。
主イエスは私達にこのように指示します。
「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除く事が出来る。」
すなわち、人の過ちや弱さを直すように、先ず自分の過ちを心から認め、その過ちを直す必要があります。そうしないと、私達からの裁きは偽善的なものになります。
【蛇のように賢く、鳩のように素直に】
主イエスは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにする為である」と教えて下さいました。では、私達は全ての事を許さなければなりませんか。人がどんな悪に陥っても、それを見過ごす事によって、私達は神の裁きを避けられる訳ですか。決してそうではありません。主イエスは人を裁きました。例えば、今日のテキストに律法学者達とファリサイ派の人々を「偽善者」と呼ばれたのです。「悔い改めよ」とはっきりと要求しました。「うわべだけで裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」と主が教えられました。さらに、今日の個所の最後の所にこのように言われました。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
ある面で私達は人を見分ける必要があります。ただ、その見分けが独善的、また破壊的なものになってはいけません。ある人の心は神の福音を閉じています。また、ある人はキリスト者に対抗します。私達は決してその事を忘れてはならないし、注意しなければなりません。
「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10章16)
と主が更に教えられました。ですから、偽善者のように人を独善的に裁く事はしてはいけないけれども、眼識(がんしき)が必要です。また罪と戦わなければなりません。特に自分の中にある罪と戦う必要があります。そして、自分の目から丸太を取り除くと、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除く事が出来ます。
(おわり)
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