ひとりのみどりご ウイリアム・モーア
イザヤ書9章1-6
【巷のクリスマス】
歳月は本当に速いですね。私だけがそう思うのでしょうか。もうすぐクリスマスをまた迎えます。もう二週間前から神戸の町はクリスマス・ツリーが飾られているのです。あちこちではクリスマス・パーテイーが計画され、人々のスケジュールは12月はもう一杯だそうです。また多くの人はクリスマスの買い物で忙しいです。昨日、アメリカのニュースで、クリスマス・セールの為に人々は遠い所から朝早くショピングに来て並んでいました。そして、セールの商品の量が限られているから、その物を勝ち取る為、客さんが殴り合う映像が流れていました。
【アドベント(来臨)】
一般社会よりちょっと遅れていますが、実は、キリスト教会のクリスマスの準備は今日から始まります。今日はアドベント(来臨)、すなわち待降節(又は来臨節)の始まりです。待降節はイエス・キリストの誕生日の前の四番目の主の日から始まり、クリスマス・イブに終わります。大昔からキリスト教会は、特にアドベントの間に主イエスの御降誕の意味を新に覚え、クリスマスを祝う準備をしました。そして、同時に、将来、主が再びいらっしゃる主の再臨を心から待ち望んで来ました。
【アドベント・リース】
待降節を祝う為に毎年の事ですが、津村姉妹が今年もまた私達の為にアドベント・リースを準備して下さいました。長い伝統ですから、リースはシンボルとして色々な深い意味が生じましたが、簡単に説明します。始めに、リースの円形によって、父なる神の素晴しさを覚えさせられます。リースと同じように神は始めもなければ終わりもありません。つまり、永遠の神です。また、神の愛と憐れみは限りがないと言う意味もあります。そして、リースにある緑色は大事な徴(しるし)になります。常緑の葉っぱはイエス・キリストが賜る新しい生まれと永遠の命を示します。さらに、ろうそくは神の光、イエス・キリストのシンボルです。世の光である主イエスの御降誕は、神、御自身がこの世にいらしゃって、救いと愛の光を私達に照らして下さいました。
今日の聖書の朗読に書いたように、主の御降誕の際
「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9:1)
アドベントの毎週、主の日に、外側の赤いろうそくを一本ずつ灯す事によって、イエス・キリストの御降誕を待ち望んでいると言う意味なのです。そして、真ん中のろうそくは「キリストのろうそく」と言われています。私達はクリスマスの日、来月の25日に、そのろうそくを灯します。神の光であるイエス・キリストはクリスマスの中心であり、主イエスのいないクリスマスは全く意味のない空しい事になってしまうと言う徴(しるし)なのです。
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命を選びましょう ウイリアム・モーア
マタイ7章13-29
【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。
イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。
「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)
【二つの門、二つの道】
山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。
今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
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2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書
求めなさい ウイリアム・モーア
マタイ7章7-12
【祈りの大小】
皆さん、今朝、一つの質問を致したいのです。それは、祈る時、神にどのような祈りを捧げますか。つまり、自分のための願いは大きいですか。それとも小さいですか。この質問をするには理由があります。それは、何よりも祈りは神に対する私達の態度と概念の現れなのです。ですから、私達は自分の祈りを調べてみたら、実際にどのような神を私達が信じているかが分ります。
【子供が親に願う事】
子供が親に願う事と、神に祈るのはある面で非常に似ているところがあると思います。実は、アメリカで勉強している次男のポールは今、車を欲しがっています。ロサンジェルスは広くて、また、公共輸送は不便ですから、車があったら活動が随分楽になると考えられます。ですから、ポールは家に電話する時、車の課題がよくでます。この間、彼は、「$2、000があったら車を手に入れられる」と言いました。そして、車を買ってくれたら、アルバイトを探す事が出来るし、その報酬で自動車保険にも入れると更に言ってきました。つまり、ポールは親の予算を考えながら、願っています。間違いなく、もし金持ちの親であったら、ポールは新車の高級スポーツカーを願った事でしょう。しかし、彼は家族の状態が分るから、言われなくてもそれは不可能だとよく知っています。
同じように、私達は神の力が限られていると思ったら、私達の祈願があんまり大きくはないでしょう。神には不可能だと思った事を願うはずがないからです。また、神は私達の願いを出し惜しむ、気難しいお方だと思っていたら、祈りをあんまりしないかも知れません。その反面、神は全てを造り、全てを所有する愛する天のお父さんだと信じたら、きっとその願いは大きいはずです。
【求めなさい。そうすれば、与えられる】
今日の聖書の朗読はイエス・キリストの山上の説教の続きになります。そして、主はこのように私達に命じています。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)
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2005年11月13日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書
人を裁くな ウイリアム・モーア
マタイ7章1一6
【皮肉屋の理髪店主】
次のストーリは本当か、どうかは分りませんけれども、ある男の人が理髪店へ行って、主人に髪を切ってくれるように頼みました。理髪店の主人は非常に頑固で何でも批判的な態度を取る習慣がありました。どんな話題であっても、彼の話はいつも悪口と酷評で終わてしまいました。「政治家は皆賄賂を取る奴ら」とか「今の若い人は怠け者ばっかりだ」のような発言で有名になりました。
散髪する間、いつものように男の人と主人の会話が盛り上がり、男の人は「出張でもうすぐイタリアのローマへ行くつもりなんだよ」と言いました。床屋さんは「どんな航空会社を使って、何と言うホテルで泊るのかい」とすぐ聞きました。そして、男の人が答えると床屋さんは、「あの航空会社は危ないよ。去年恐ろしい事故があったの覚えてるだろう。」そして、「特にそのホテルは酷い。サービスが最低だと聞いてる。ローマへ行かない方が良いじゃないか」と強く押し付けました。
「大事な仕事があるので、ローマへ行かなければなりません。そして、仕事が済んでからローマ法王に拝謁を賜りますから、是非行こうと思います」と男の人が返事しました。しかし、「ローマ法王は一番堕落した神父なのに、どうして会いたいのかい」と床屋さんが言い返しました。
数週間後、男の人はローマから帰って来て、理髪店へまた行きました。「ローマの旅はどうだったかい。多分大変だっただろう」と言う挨拶で主人が男の人を迎えました。「いいえ、素晴らしい出張になりました。航空会社もホテルも大満足しました」と答えました。「法王に会ったかい。がっかりしたでしょう」と主人が言うと男の人はこのように答えました。「もちろん会いましたよ。実は、法王の前にひざまずいて法王の指輪にせっぷんする事が許されました。大変な光栄でした」と男の人が言いました。
「教えて。その時、法王は何を言ったかい」と床屋さんが聞きますと、男の人はこのように言いました。「実は、ひざまずくと、法王は御自分の手を私の頭に置いて下さって、このようにお尋ねになりました。『我が子よ、この下手くそな散髪はいったいどこでされたのか』とお聞きになりました。」
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