心からの義 ウイリアム・モーア

マタイによる福音書5章17-26

◆律法について

17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

18:はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

19:だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

◆腹を立ててはならない

21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

25:あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

26:はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

腰痛とスポーツクラブ

私はずっと前から腰が弱いので、腰の手入れにかなり気を付けています。そうしないと腰がすぐ痛くなり、ある時はベッドから全然起き上がられない程ひどくなります。

数年前、特に苦しかった時、病院へ行って、腰痛の対策を教えて貰いました。それはおもに腰と腹の筋肉を強くさせる運動と足のストレチング・エクササイズでした。その運動をちゃんとすれば、腰が良くなると言われた私は頑張りました。しかし忙しい時は、忘れてしまいました。そうすると、やはり腰がまた痛くなります。

ですから、運動がもっとちゃんと出来るように近くにあるスポーツ・クラブに通い始めました。実際よく続けて運動しました。そうして腰は良くなりました。

ルール

実は、そのクラブに入ってビックリした事が一つありました。それはルールの事です。つまり、規則が山程ありました。今もあります。例えば、タオル一枚だけを使う事です。二枚を使うと別の料金になります。また、靴を脱ぐ事です。クラブ内のある所は靴を履いても良いけれども、またある所は絶対に土足禁止です。さらに、運動機械を使い終えると、必ずふきんで自分の汗をふき取らなければなりません。クラブのあちこちの所に数え切れない程のルールが壁と床までも書いてあります。冷水器の上に、「うがいするのは遠慮して下さい」と言う標識があります。また、ロッカールームの玄関に「玄関に靴を置いてはならない。ロッカーに入れて下さい」と書いてあります。そして、もちろん浴室に「お風呂に入る前に体を洗って下さい」と言う指導があります。ほとんど何処を見てもルールが貼ってあります。

はっきり言えないことですが、クラブ利用者はルールが沢山あるのは当たりの前の事だと思い、あんまり気にしていないかも知れません。恐らく、決まったルールがあるからこそ、安心が出来るかも知れません。何故かと言えば、全てを規則どおりにするなら、恥ずかしい事がないし、迷惑をかける事もありません。

その多くのルールは常識で、皆が気持ち良くクラブを利用する為だと思いますが、私はそのような規則の多い環境に入ると、ちょっと不安を感じます。と言うのは、出来るだけ全てのルールを守りたい気持ちがありますけれども、思わずルールを破ると、どうなるかと心配してしまいます。

ルール違反

実は、私はこの間、規則違反を犯して、その報いが分りました。それはプールから上がって、浴室に入ろうとした時、シャンプーを忘れたから、取りに行く為、ロッカールームに入りました。しかし、体が濡れたままタオルで歩いたので、床に水が少し落ちました。そうすると、急に掃除のおばさんがモップを持って出て来て「お客さん、お客さん」と叫びながら、私を追い掛けました。そして、皆の前で私は説教を食らってしまいました。私は謝って、もう二度と床を濡らさないと約束しましたので、釈放させて頂きましたが、その時の犯人の気持ちをよく覚えています。そして、数日後、多分私の為にその「濡れたままでロッカールームに入ってはならない」と言うルールが英語で壁に貼られました。

タルムード

主イエス・キリストの当時のイスラエルもルールが山程ありました。ローマ帝国の植民地としてローマの法律に従わなければなりませんでした。その上、自分のイスラエルの法と伝統も守る必要があったのです。更に、イスラエルの宗教に関する掟が多かったです。もちろん「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」などの十戒のような聖書に於ける掟がありましたけれども、その上に宗教学者達が掟の注釈書を沢山作り上げました。そして、その注釈書に書いてある解説に従うことが掟になりました。

その注釈書タルムードと言う集大成は72冊程の巨大な作品になりました。そして、一生を掛けてダルムードを学んだ学者は少なくありませんでした。タルムードの内容はおもに旧約聖書に於ける律法の解釈です。

一つの例として十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」の解釈を見てみましょう。どのように安息日を聖別しますか。自分の働きをしない事です。しかし、働きとは何ですか。それは荷を持つ事です。しかし、荷とは何ですか。学者達によりますと、荷にならない物の定義はこのようになります。


「食べ物の場合、荷にならない物はイチジク一つに等しい物と葡萄酒一杯と牛乳一口と一つの傷に塗る程度の蜂蜜です。」


安息日にその定義以上の物を運ぶと、神の律法を破るから「罪人」と言われてしまいます。また、ダルムードの解説にこんな話があります。


「安息日に乞食が自分の手を人の家に伸ばして、主人の手から物を取ると、働きになるから乞食は罪を犯す事になるが主人は正しいです。しかし、逆に主人が自分の手を伸ばして物を乞食の手に入れると、主人は罪を犯し、乞食は無罪です。」


このような数え切れない程沢山のルールは毎日の生活の最も細かい所まで行き届いて、覚えるどころか、従うのは大変でありました。

律法学者達とファリサイ派の人々

しかし、ユダヤ人の社会の中で律法学者達とファリサイ派と言うグループのメンバーは特に宗教の律法とその解釈を重んじて、何よりもその全てのルールを守ろうとしました。その為に、自分達が周りの一般の人々よりも敬虔な者と信じきて、プライドがとても高かったのです。さらに、全ての掟に徹底的に従いましたので、自分達が神の前に正しい人、すなわち義人だと思い込んで、他の人を「罪人」と呼びました。「私達は骨折って律法を完全に守りますので、神は喜ぶはずです。きっと誰よりも神は我々を愛する」と信じ、自己満足していました。

実は、律法学者達とファリサイ派の人々はイエス・キリストの行動を見て、憤慨しました。何故なら、主イエスはいわゆる「罪人」を村八分にするのではなく、彼等と会って共に食事さえもしました。その事によってイエスは汚れて来たと律法学者達とファリサイ派の人々が思いました。そして、イエスは儀式通りに自分の手を洗う事を忘れた時があったので批判を受けました。更にイエスは安息日に働いたと訴えられました。つまり、安息日に人の病気を治したり、空腹を覚える時、歩きながら穀物の穂をつんで食べました。ですから、主イエスは神の律法を無視する人と呼ばれ、律法学者達とファリサイ派の人々の目から見るとイエスは「罪人」の一人になってしまいました。

このような背景のなかで主イエスは山上の説教でこのように宣言しました。マタイによる福音書5章17の所を見て下さい。

「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。はっきり言っておく。全ての事が実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去る事はない。」

ここで主イエスがおっしゃった「律法や預言者」と言うのは旧約聖書に於ける掟のみです。決して律法学者達とファリサイ派が作り上げた細かい解説とルールではありません。主イエスは神が授けられた掟をとても大事にしましたけれども、人間が付け加えたルールを拒否しました。主イエスは 律法学者達とファリサイ派の人々にこのように言われました。「律法学者達とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。はっか、いのんど、ういきょうの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべき事である。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえもこして除くが、らくだは飲み込んでいる。」(マタイ23章23)

律法の完成者・イエス

おっしゃられた通りに、主イエスがこの世に来られたのは律法を「完成する為であ」ります。しかし、ここでの「完成」とはどう言う意味でしょうか。律法学者達とファリサイ派の人々の宗教はルール中心になってしまいました。つまり、心がどんなに黒くても、ただルールに従って生きたら、大丈夫です、義人です。表面的にルールに従ったら、神の律法の本当の目的とスピリットを無視しても良いのです。言うまでもありませんが、そのような宗教は深みのない表面上の空しいものです。つまり、人の心が変わらなくても少し頑張ったら外面的なルールは十分に守れます。イエス・キリストが説いた信仰はルール中心的なものではありません。心からのものです。キリスト者の動機は愛であります。そして本当の愛は心から出て来ます。神は先ず私達を愛して下さいましたので私達は神と隣人を愛します。主イエスの十字架の贖い死を通して、神は私達に対する御自分の愛を示されました。私達は心からの感謝の動機で神を喜ばせるような生活を歩みたいのです。心にある愛と感謝のゆえに主に従います。

心からの義

今日の個所、5章20節に主イエスは言われました。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者達とファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入る事が出来ない。」

つまり、私達の義が心から来るものでなければなりません。そして、21節から主イエスは心からの義を説明して下さいます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける。』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と主が言われました。

心の罪

マスコミでは殺人事件をよく聞きますが、実は、ほとんどの人には殺人と言う犯罪を犯すのは簡単ではありません。却って、人を殺害するのは難しい事だと思います。しかし、その反面、人に腹を立てる事と人に対する悪口を言う事は簡単であり、誰でもその経験があると思います。

ユダヤ教の律法は殺人を禁じましたけれども、心にある殺人の種、つまり、怒りと憎しみは扱いませんでした。

主イエスは心からの義を説いて、律法を完成されました。ただ殺人を行わないということだけでは十分ではありません。主によりますと、怒りと憎しみと悪口もしてはいけないと言っています。

心の変革

誰でもある程度自分の外面的な行動を監督出来ますが、心の中にある思いと感情と態度をコントロールするのはなかなか難しいです。しかし、神は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥底まで見ます。神からは何事も隠れられません。ですから、何よりも人間は心の変革が必要であります。この変革に関して主イエスはこのように言われました。「はっきり言っておく。人は、新に生まれなければ、神の国を見る事は出来ない。」(ヨハネ3章3)そして、使徒パウロはこのように書きました。「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらは全て神から出る事である。」(コリント二5:17)

実に神のみが私達の心を造り替え、新にして下さいます。主イエス・キリストを救い主と神の御子として信じ頼ると、神は私達の心の変革を始めて、私達は心からの義が分って来ます。どうか、私達一人一人は何よりもそのような心からの義を求めましょう。

2005年10月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙二 , マタイによる福音書 , 新約聖書

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