イエスに聞け ウイリアム・モーア

◆イエスの姿が変わる(マルコによる福音書9章2-8節) 2:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、    

3:服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

4:エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

7:すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

8:弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけ が彼らと一緒におられた。

【新約時代における父なる神の御声】
考えて見ますと、新約聖書に於ける天の父なる神の直接な御言葉は本当に僅かです。実は、新約聖書の証しによりますと、父なる神は二度だけ御自分の口を開いて下さいました。一度は主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けた直後でした。マタイによる福音書に記されていますが、「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた.その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(3:16~17)。これはとても短い宣言ですけれども、父なる神はその僅か16字で最も大事な事を語られました。天地万物の造り主、唯一の全能の神はイエスについてこのようにおっしゃいました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」つまり、「イエス・キリストは私の愛する子、また私の心に適う者ですから、皆が彼に従うべき」と言う大事な御言葉です。

【イエスの変貌】
また、もう一つ直接に語った父なる神の御言葉の箇所は今日の聖書の朗読に記されています。この「イエスの姿が変わる」と言う出来事は聖書に於ける最も劇的な事件の中の一つになります。「主イエスは弟子ペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られた」と書いてあります。その頃、主イエスと弟子達はヘルモン山の近くで伝道をなさっていましたので、多分彼等はその高度2、700メートルの山を登りました。しかし、その目的はただ登山の為ではありませんでした。ルカによる福音書によりますと、祈る為に山を登ったと記されています。山は天国に一番近い所を表象しましたので特にその高峰を登りました。イエスは祈る為によく独りで寂しい所へ行かれたのですが、今度は弟子達の中で、側近グループ3人を連れて行かれました。

イエスはその前に、弟子達にこれから御自分の受ける苦難と贖い死の事を初めて教えたのです。それは彼等にはショッキングなニュースでありましたので、恐らくイエスは祈りながら、御自分の十字架の死の意味と必要性を説明するつもりでした。さらに、祈りを通して弟子達を励まし、これから起こる事の準備もしたかったと思います。

山の上にいる間に今朝の朗読の2節の後半によりますと、「イエスの姿が彼等の目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕もおよばぬ程白くなった。」と記されます。弟子達は主イエスの神の独り子としての栄光をはっきりと見る事が出来ました。この印を通してイエスは人間でありながら、同時に神であった事を弟子達に見せたのです。その瞬間、イエスの人間になる前の永遠の神としての栄光が見られました。

【モーセとエリヤ】
更に、ずっと以前に天に召されたイスラエルの律法者モーセと預言者エリヤがその所へ共に現れて、イエスと語り合っていたと記されています。イエスの姿が変わると弟子達はもちろん驚きましたが、エリヤとモーセを見た時、もっとびっくりしたと思います。その人物二人はイスラエルの歴史の中の最も偉大な人物でした。モーセは律法を神から頂き、また神の助けによって、イスラエルをエジプトの奴隷の家から導き出し、彼等を約束された地カナンまで案内したのです。エリヤはイスラエルの中の偶像礼拝と戦って、神の民の真の宗教を守りました。しかも、エリヤは驚くべき奇跡を行いました。この有名な二人が天から下って、イエスと共に話し合った事を見ると、間違いなく弟子達は強い印象を受けたのです。ルカによる福音書に書にてありますが、その話題は「イエスがエルサレムで遂(と)げようとしておられる最期(さいご)について」(9:31)の事でした。つまり、イエスの今後の贖い死の事を三人で話し合いました。

【ペテロの妄言】
この素晴らしい光景を目撃した弟子達は大変驚きました。意味が完全に悟られなくとも、少なくてもその出来事の珍しさを自覚しました。そうすると「ぺトロが口をはさんで、イエスに言った。『先生、私達がここにいるのは、素晴らしい事です。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたの為、一つはモーセの為、もう一つはエリヤの為です』」と言い出しました。ペテロはその驚くべき事を見て、どう言えばよいのか、分からなかったのに、口を開いてしまって、変な事を言い出しました。恐らくペテロ自身も自分が言った言葉の意味がよく分からなかったけれども、多分仮小屋を建つ事によって、何とかして、その目撃した素晴らし事を記念したかったんでしょう。とにかく、その愚かな提案に対してイエスは何も返事しませんでした。仮小屋どころか、エルサレムの神殿のような大建築物さえも、その素晴らしい出来事を記念するはずがなかったです。主イエスの神の独り子としての栄光を疑いもなく弟子達に現されました。旧約の律法者と預言者はイエスの使命を認め、また、主の贖い死は父なる神の御計画である事をも承認しました。しかし、その劇的出来事のクライマックスはまだでした。 

【神の御臨在の輝き】
7節と8節を見ますとこの御言葉があります。「すると、雲が現れて彼等を覆い、雲の中から声がした。『これは私の愛する子。これに聞け。』弟子達は急いで周りを見回したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが彼等と一緒におられた」と記されています。その雲は父なる神の御臨在の印になりました。神がイスラエルを荒れ野を旅して約束の地まで導かれた時、光る雲で導いて下さいました。また、エルサレムの神殿が完成されると、その雲が神殿の上に降りて来ました。その光る雲は600年の間、現れなかったが、その瞬間山に下って彼等を覆いました。そして、雲の中から声が出て来ました。「これは私の愛する子。これに聞け。」それは新約聖書に於ける父なる神の二度目の直接な御声です。14字程度ですけれども、最も大切な神の宣言です。「これは私の愛する子。これに聞け。」主イエスが洗礼を受けた際、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言われた神の第一の宣言と非常に似ています。両方はとても短いですけれども、もっと意味深くて両方とも私達の顔をイエス・キリストに振り向けて下さいます。父なる神は新約聖書に二度だけお話しになりましたが、そのメセージは何ですか。「これは私の愛する子、私の心に適う者」と「これは私の愛する子。これに聞け。」

【これは私の愛する子。これに聞け】
ペトロはその驚くべき出来事を見て、頭が混乱していて仮小屋の無益な話を言い出した瞬間、父なる神は「これは私の愛する子。これに聞け」とおっしゃいました。つまり、「私の子こそがここにいる。静かにして、彼の言葉に聞け。」そして、神の声を聞いてからモーセとエリヤが見えなくなって、「ただイエスだけが彼等と一緒におられた」と記されています。神の目にはイエス・キリストが一番大事であって、モーセとエリヤより遥かに優れた者であると言う意味なのです。そして、私達にはイエスの御言葉は最重要になるべきです。「これは私の愛する子。これに聞け」と愛する神が私達一人一人に言って下さいます。

神の民として私達の主な使命は主イエスの教えに聞いて、毎日の生活でそれに従う事です。他の全ての事は第二次的になります。イエス・キリストを「主」と呼ぶとは、そう言う意味なのです。イエスが言われました。「『私に向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。』」(マタイ7:21)

【イエスに聞き従う生き方から受ける恵み】
今の世の中には私達が気を取られる事が山程あります。そして、主イエスの御言葉を忘れがちです。主に聞くよりも、仮小屋を建てるような、それ程大事ではない事に集中する傾向があります。キリスト者として私達の焦点はイエス・キリストです。いつも第一に主イエスに聞いて、主イエスに従います。

父なる神は二度だけ新約の時代に御自分の御言葉を伝えられました。そして、全部でその御言葉は30字程と短いです。しかし、実際、私達の神は決して無口なお方ではありません。父なる神は子なる神イエス・キリストを通して沢山の事を語りました。ヨハネによる福音書に記されたように、神の言葉主イエスは「肉となって、私達の間に宿られた.私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。私達は皆、この方の満ちあるれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(ヨハネ1:14)

神の御言葉、主イエスの教えは分かり難い謎のようなものではありません。その教えは新約聖書にはっきりと記されています。第一に私達は主イエスに聞いて御自分の教えに従うべきです。つまり、毎日に「神と隣人を愛しなさい」と言う主イエスの最高の戒めに従うべきです。また、私達は主を模範とするべきです。

あの山の上で父なる神は最も大事な言、「これは私の愛する子。これに聞け」と宣言して下さいました。どうか、私達はいつも第一に主イエスの教えに聞いて、従いましょう。そうすれば、「私達は皆、この方の満ちあるれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受け」るようになります。

2005年07月24日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/28