【あなたはイエス様が見えますか】伊丹教会長老城下忠司
【聖書】ヨハネによる福音書9章1~12,35~41
◆生まれつきの盲人をいやす
1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけ
られた。
2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見え
ないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4:わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5:わたしは、世にいる間、世の光である。」
6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8:近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10:そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と
言うと、
11:彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12:人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」 と言った。
◆ファリサイ派の人々の罪
35:イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36:彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37:イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38:彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39:イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。 こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40:イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41:イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
【あなたはイエス様が見えますか】
皆さんおはようございます.伊丹教会の城下と申します。
今日は初めて、皆さんの前でお話させていただきます.初めてのお方もいらっしゃいますが、よろしくお願いいたします.
読んでいただいたこの物語は、一言で申しますと、イエス様に目を見えるようにして頂いた盲人がイエスさまを信じるようになったというお話です。
【自分を見る】
私たちが自分を見る、自分を良く見るには、どんな方法があるでしょうか。
自分はどんな顔をしているだろうか、と鏡に写してみたりしますが、鏡に映った自分の顔や、姿、形はすぐ忘れてしまいます。それに自分の心や内側にあるものについてはどれ程のことも知っていません。
これは何十年たっても知らないことばかりであるのに驚きます。自分を見る、自分をを知るということのなんと大変なことかを覚えます。
【自分探しの旅】
森本哲郎と言う方がことばへの旅という本を書いていますが、このなかでことばへの旅は読書の旅でもあり、自分探しの旅でもあると言っています.
では、どのようにして自分を探したらよいのでしょうか.
聖書には 見よ!見なさい!という言葉が沢山でてきます.この見なさい!という言葉が、聞きなさいという言葉より多いそうです.私たちが自分を見るというとき、姿かたちばかりでなく、自分の人格、自分の内面を見るということでしょう。 今日のみ言葉から自分探しの 旅に出てみましょう。
【生まれながらの目の見えない人】
さて、生まれながらの目の見えない人がいました。この人は都エルサレムの町のいつもの人々が行き来する場所に座って、物乞いをしていました。そこへ通りかかったイエス様が、すすんできて、この可哀想な盲人の目を見えるようにしてくださったという物語ですが、盲人はイエスさまに「私の見えない目を見えるようにしてください」とお願いしたわけではありませんが、イエスさまはすすんでこの盲人の方に近付かれたのです.盲人は突然の癒しに驚くと共に心から喜び、感謝で一杯になったことでしょう。
この物語で不思議に思いますのは癒されて家に帰った盲人をよく知っている人たちの反応です。
この人たちの中にはイエス様があちらこちらの町や村で行われた不思議な奇跡を、見た人たちも、また噂に聞いていた人たちも、沢山いたこ とと思います.このことは、マタイによる福音書には次のように記されていることからも、よく分かります.
『人々がイエスの所へ色々な病気や苦しみに悩むもの、悪霊につかれた者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒された。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った.』
盲人をよく知っている人たちは、盲人が癒されて喜んでいることに対して、ああよかったねと一緒に喜びをともにした、ということがどこにも記されていません。こには「たしかにこの人は盲人だった.」という人や「いや違うという人がいた」と書かれているところから見ますと、イエス様の奇跡を目で見ることができても、疑いの目を向けるしかできない人々が沢山いたということが分かります。私たちはどうしてイエスさまを目の前にして、イエスさまの本当の姿を見ることが出来ないのでしょうか.
【見えるようになった】
さて、もう一度この盲人に起こったことに目を向けてみましょう.イエスさまが突然彼の前にきて、泥のようなものを目に塗られ、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われたとき、この人はとても驚いたことと思います。
この盲人だった人は、イエスさまのことを前々から人々が話しているのを何度も聞いていたことでしょう。きっと、イエスさまの暖かく優しいお話を直接聞いてみたいと、思っていたのに違いないと私はおもいます。
そして、ここでイエスさまに目を開けてもらって見えるようになったこの人は、イエスさまに対して、どのような思いを持つことができたでしょうか。この人の心の目は開かれたのでしょうか。イエスさまが、神さまから使わされた御独り子、私たちを罪から救ってくださる救い主であるという信仰を持つことができたでしょうか。彼は人々の前で、イエスという方が、わたしの目を見えるようにしてくれました.』と喜んで話したところを読みますと、イエスさまへの信頼と喜びに溢れていたことが分かります.
【イエスさまの反対者】
一方、イエスさまのなさってきたことに反対するこの国の学者や偉い人たちは、この盲人だった人にしつこく『イエスは神を冒涜する罪ある人間だ、お前はどんなことをして目を開けたのだ.』と、13節以下には沢山の言葉がこの癒された人に投げ掛けられています。この癒された人は偉い先生たちに次のように答えました. 『あのお方は神さまの御心を行なう人です.』と、また、神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私は承知しています.しかし、神をあがめ、その御心を行なう人の言うことはお聞きになります.』彼らは、イエスさまへの憎しみのゆえに、イエスさまの奇跡を信じませんでした。またとくに日曜日に人を癒すようなイエスさまは、神さまの掟を破っているので、罪びとの頭であると批難したのです。
イエス様を信用するような人間は、自分たちの社会に置いておくわけにはいかないと、癒された人を社会から追放したと記されています。
【人の子(救い主)を信じるか】
その後、イエスさまが村八分になった彼にもう一度会われてこう言われたのです.『あなたは人の子を信じるか』、と、彼は『主よその方はどんな人ですか その方を信じたいのですが.』と聞き、イエスさまは『あなたは、もうその人を見ている.あなたと話しているのが、その人だ.』とお答えになりました。
盲人だった人は、初めは感謝のなかで、自分が癒されたことを人々に告げるだけでしたが、今はイエスさまが神さまから使わされた方であることが分かってまいりました.彼は『主よ、信じます.』と言ってひざまづきました。
この人は肉体の癒しをとおして、次第に心からエスさまが神さまのもとから来られた救い主であることを知るようになりました。
本当に見ると言うことは、心の目で見るということでしょう。
盲人だった人はイエスさまというお方、そのものを見ることができました。
もう一度この盲人だった人が目をを見えるようにしてもらった始めのことを振り返ってみましょう.彼は自分から進んでイエス様のところに行ったのではありませんでした。。
不思議に思うのすが、初めに池へ行って目を洗ってから、見えるようになった時、直ちにイエスさまの所へ帰って行って感謝を喜びを表わしていません。
【心の目が開かれる】
でも家に帰ってからだんだんに、少しづづ、自分の身に起こったことの重大さに気付かされていきました。
イエスさまのなさったことやイエスさまのお話を今までは聞き流していたことに気が付きました。イエスさまは神さまからつかわされた預言者である、ということを知るようになりました.また、イエスさまは「罪を悔い改めよ」とも言われていたことを思い出しました。
少しづつイエス様のことを深く思うようになって行きました。
自分には何の希望もなくその日暮らしの哀れな自分であると思っていたのにどうしたことか希望がわいてくる自分に気が付きました。
イエスさまの『あなたは人の子を信じるか』『あなたは神のみ子、救い主を信じるか』という問い掛けが、この盲人だった人の心を動かし、もっともっとこの方を知りたい、と言う切なる願いが起こって、ついにイエス様を信じるようになったのです。
【神の恵み】
私たちは自分の力で、自分の知恵で、また沢山の経験や、知識で神さまを理解し、神さまに近付くことができるのでしょうか.
私は毎週教会に行って、イエス様のお話を50年間聞きつづけてきましたけれども、いまでも、神様のことはまだまだ知りえませんから、もっともっとイエス様のことを沢山知りたいと願っています。もし イエスさまが愛をもって私たちのところへ来てくださらなかったならば、私たちは神様の救いを信じることも、神さまの恵みと愛を知ることもできないのです。
【信仰から信仰へ】
私たちがイエス様を救い主と信じ、告白できるのは、一方的な神さまからの恵みであります.私たちも盲人であった人と同じように、神さまのみ言葉を聞き、じっとイエスさまの愛を見つめ続けるとき、少しづつ、だんだんに信仰から信仰へ導かれていくのです。私たちの目が開かれた時、私たちは見失っていた神さまを見いだすのです。
神さまは人が求めるより先に、その愛の御手を私たちに差し伸べてくださるお方です.
私たちは、「主よ、信じます」と告白して教会の群れの一員となりました.イエスさまは私たちの総てをご存じであり、すベてを愛してくださるお方です。.
ポール・トゥルニエという人格医療を実践したスイスの医師が、こんなことを言つています.『医師には2つの使命がある.一つは学問的科学的な責任で、病人の病気を直接治療すること、もう一つは人間的な責任で、患者の人格に巣くっている問題に手をさしのべることです.』と。
人格に巣くっている問題とは、自分の中にある罪の問題です.魂の救いの問題です.本当の医者はイエスさまです.この方によってだけ、魂の病は癒されるのです.
【神に愛されている本当の自分を見出す旅】
イエスさまは、私たちの魂の病に手を差し伸べてくださり、私たちの目が神さまを見えなくしている盲目から目を開いてくださり、自分を見いだし、神さまを見いだすことができるようにと聖書を与えてくださいました.
先月私たちの教会員である和田誠一さんという方が亡くなりました.彼は重い糖尿病患者で、目が見えなくなり、腎臓障害で透析を受ける毎日を送っていました.この世の尺度で考えれば、彼は不幸な方といえるでしょう.和田さんは神さまから目を見えるようにはしていただけませんでした。しかし、彼は今日の聖書にでてくる盲人と同じように、心の目で救い主イエスさまを見ることができました。病気で確かに苦しいことや辛いことも沢山ありました
けれども、天国で神さまとともに住むことのできる幸いを信じ、希望の人生を生きることができました。礼拝にはいつも来られ、祈りの集いでも、一緒に神さまに祈りをささげました。目で本を読むことは出来ませんでしたが、いつもテープで神さまの御言葉を聞き続けました.
和田さんは肉体の病気は癒されることはありませんでしたが、救いの恵みをいただいて、幸いを抱いて神さまの国へ帰っていったのです.
初めに人生とは自分を探す旅であるということを申しました.
本当の自分を知る旅、本当の神さまを知る旅、私たちに与えられている旅は決して目標のない旅ではありません.信仰の創始者、完成者である愛のお方、イエスさまを見つめつつ歩む希望の旅であります.
イエスさまは『疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい.休ませてあげよう。』とおっしやつてくださっています.
【祈祷】
恵みと愛に満ち満ちていらっしやいます、主イエス・キリストの父なる神さま.今日も私たちに御言葉を与えてくださり、神さまの御心をわずかでも悟ることが許され感謝いたします.罪の滅びの中から私たちを救い出し、天国への道を希望をもって歩むように導いてくださいます恵みを感謝いたします.どうか私たちの心の目を曇らせることなく、イエスさまの愛をみつめつつ、信仰の歩みを続けさせてください.どうか、悩みや苦しみの内にある兄弟姉妹を哀れんでください.希望の光を降り注いでください.
この地で神さまの御名が誉め称えられますように、多くの方々に福音が届けられますようにお願いいたします.
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします.アーメン
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/13
コメントする