【二人の家を建てる者】ウイリアム・モーア
【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカによる福音書6:46~49 46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
【アメリカの教会で】
アメリカで教会の牧会をしていた頃、色んな人に接することがありました。牧会をしていた教会の会員だけではなく、全く知らない人にもよく巡り会いました。つまり、色々な人々は教会を頼りにして訪ねて来ました。日本ではちょっと困った事があったら近くの交番へ行かれるのだそうですね。アメリカでは多くの場合、困った事があったら、遠慮なく一番近い教会を訪ねて来ます。そういうふうにして訪ねて来る多くの人は大抵自分で可愛そうな話を考え出し、現金を恵んでくれるように頼みます。ある人は近くの教会をあちこち訪ねながら、生活をしている人もいます。このような人々は大抵現金だけを求めて来ますが、時には生活に必要な物を求めて来る人もいます。
ある日、教会で説教の準備をしていたら、全く知らない人から電話がありました。「高速道路で車のガソリンが切れてしまったが、お金が全然ないから、ちょっとガソリンを持って来て下さいませんか」と言う事でした。そう言う願いは全く始めてで、ちょっとびっくりしましたけれども、少しでも困っている人の助けになりたい気持でガソリンスタンドへ行って、ガソリンの18リットル缶を一杯にして、高速道路に入りました。そしてガソリンがなくなった車の所に着いた時は、またびっくりしました。その車は私の車よりもずうっと良い物だったのです。車の中を覗いて見ると家族は楽しそうにおやつを食べながら旅行をしているようでした。運転席に座っているお父さんのように見える人はこう言いました。「ああ、ガソリンを持って来てくれてありがとう。入れてくれないか」と平然と言いました。ガソリンを入れて上げてからこう考えました。この家族は多分このように教会に頼みながら旅行をしている人達なんだなと思いました。ガソリンがなくなると、いつも一番近い教会に電話をして、ガソリンを一杯にしてくれるようにと頼んでいるようでした。とにかく、ガソリンを注ぎ終わると、家族皆はにっこりして、さようならと言って、高速道路を走り出しました。
またこんな話もあります。ある夜遅く自宅に電話がありました。「結婚式を今夜でもすぐ挙げて下さいませんか」と突然、知らない女性からの電話でした。「先ず、あなたの相手になる人と一緒に教会に相談しに来て下さい」と私が答えました。「いや、私自身の事じゃなくて、十六歳の妹の事です。彼女は良い男を見つけて、速く結婚したいと言っているんです。」私は、「もし妹さんが結婚する時期になったら、本人が教会に直接来て貰って、私と相談すべきではありませんか」と言いました。その電話はそれっきりで、もう電話はかかって来ませんでした。
【二人の婦人会員】
色んな実に範囲の広い経験がありましたが、今日、私が牧会していたアメリカの教会の二人の婦人の事について少し話したいと思います。
一人はアルコール中毒の主人がいました。彼はお酒と自分の遊びの為にほとんど全ての収入を使ってしまいましたので、家族は大変苦しい生活をしていました。家はみすぼらしい掘っ建て小屋でした。水道がひいてなかったので、家のそばの小川からいつも水を汲んでいました。電気は電力会社から何回も切られた事があったし、電話もなかったのです。その上、長男さんはオートバイの事故で背骨を折って寝たきり状態になってしまいました。その婦人は息子の世話を全部しながら、他の六人の子供と孫までも一生懸命に育てていました。家族を食べさせる為に畑で野菜も作りました。彼女は長い間本当に難しい生活をしていました。今もそういう生活を余儀なくされています。しかし、その婦人は立派な信仰を持って、毎週必ず子供と孫を連れて日曜学校と礼拝を守っています。生活が苦しいにもかかわらず、いつも喜びに溢れ、人助けにも積極的に参加していました。
そして、もう一人の婦人がいました。その婦人も、ほとんど毎週日曜日に二人の子供を連れて礼拝を守りました。ついには御主人までも導いて来ました。彼女は教会の少年会にも参加し奉仕しました。しかし、ある日、御主人は急に脳いっけつを起こして、何週間も意識を失いました。やっと意識を回復すると今度は歩けない状態になりました。そして、話も出来なくなりました。教会の人はその家族を色んな面で助け励ましていたのですが、その婦人は教会からだんだん遠くなって来ました。御主人がリハビリ病院に入り、歩けるようになったのに、家族は全然教会に来ませんでした。その婦人は辛い目に会って、心細くなりました。そして、非常に扱い難い人になりました。悩みの重荷を負う事が出来ませんでしたので、一家は婦人は婦人で、子供もそれぞれ、ついにばらばらになってしまいました。
【試練】
言うまでもないが、この二人の婦人両方は大変な試練を受けました。しかし、試練を通して前者は信仰と人間性が強くなり、もう一人は試練に負けてしまいました。どうしてこのように大きな相違があったのか、私自身よく考えさせられました。試練の程度にはあまり関係がなかったと思います。実は、アルコール中毒者の婦人の試練はもう一人の夫人の試練よりも、もっとずーと長く、もっと酷かったのではないかと思います。そこには試練の程度以外の理由がありました。
この事を考えながら「二人の建築者」と言うイエス・キリストの譬話を思い出しました。もう一度イエスの御言葉を聞いて下さい。(ルカによる福音書6:46~49上記)
恐らく試練を受けた二人の婦人の土台が違うのではないかと思います。一人の土台は岩の上にしっかりして、もう一人は自分の家、すなわち自分の信仰を、土の上に作りました。
ご存じだと思いますが、建物の全ての重さが土台に支えられていますので家を立てる時には、土台は何よりも大切です。もし土台が悪かったならば、家がいくら素晴らしくても全く値打ちのない家になってしまいます。その家は住んでいる人に非常に危険です。土台が足りなかったら、台風や洪水や地震が起こると家が倒れ、その家にいる人が怪我するでしょう。
小さい頃から建築に興味を持っている私にとって日本の建て方は大変面白いです。工事中の建物を見るのは大好きです。日本は特に地震が多いから、土台は他の国と比べると、しっかり建てています。土を深く掘って、コンクリートと鉄を沢山使って丈夫な土台を作り、地震が起こっても倒れないようにしてあります。
【ベニス】
イタリヤのベニスは長い輝かしい歴史のある美しい町であります。ルネッサンスの多くの有名な建築家はベニスで立派な建物を建てました。数多くの奇麗な建物がまだ残っていますが、残念ながら建物は現在も水と泥に沈んでいます。と言うのは、ベニスは毎年一センチ位沈んでいるので将来には海の下に消えてしまう心配があります。その立派な作品の土台は不十分ですから、建物の巨大な重さを支えられません。
【ニューヨーク・マンハッタン】
一方では高層ビルで有名なアメリカのニューヨーク市のマンハッタン島は何よりも大きな岩であります。もし土台がその基岩につながったら、百階以上の建物が無事に建てられます。百年経ても一ミリも沈みません。
建物と同じように私達人間にも土台が大切です。人生の土台が弱かったら、私達はいつ倒れるかもしれません。しかし、土台がしっかり建てられていたら、最後まで私達は倒される事はありません。
イエス・キリストの弟子達の中でイエスを「主よ、主よ」と呼んでもイエスの教えに従わない弟子がいました。と言うのは、表面的にはその弟子達はちゃんとした弟子と見えました。他の弟子達と同じようにイエス様の元で教えを受け、全く素晴らしい教えと思ったのです。イエスは自分の主だと皆の前に告白したのに、実は、その弟子達はイエス様の教えを自分の生活に活かしていなかったのです。イエスとその教えを良く知っていても、主の言う事を行いませんでした。主イエスの教えに従うよりも先ず自分達の都合の良い生活をしていました。
イエス様の「二人の建築者」と言う譬え話はそのような弟子達の為に語って下さいました。弟子達に御自分の言う事をただ耳で聞くだけではなく、行う事も大切である事を教えて下さいました。何故かと言えば、もしイエスの教えに従わないと、人生の激しい試練に合った時、そういう試練に負けてしまうからです。しかし、自分の人生の土台をイエス様の御言葉を行う事に置くなら、試練がいくら激しくても試練に負ける事はありません。
イエスは自分の弟子達が試練に負けないようにその譬え話を通して注意して下さいました。私達もこの譬え話に注目する必要があります。昔の弟子達と同じように私達もこの譬え話をよく聞かなければなりません。
【聞くことと行うこと】
私達はイエス様の御言葉を聞く機会があります。聖書を読むならイエスの教えを覚えられます。教会で説教を通してイエスが言われた事が少しでも分かって来ると思います。しかし、ただ言葉を耳で聞くだけと、言葉を実際に行う事とは非常な相違があります。聞くのは上手ですけれども、言葉を行うのはそんなに上手ではないと思います。
【人の性格】
この譬え話を通して主イエスは私達に何を教えているのでしょうか。一緒に考えてみましょう。先ず、私達人間皆はこの世の中にはそれぞれ自分の性格を持っています。知っていようといまいと、私達は自分の性格を作っています。人間は死んでから何を持って行く事が出来るでしょうか。財産は全部残して行くでしょう。もし世の中の権力や光栄があれば、それも残さなければなりません。言うまでもなく、自分の体は持って行けません。しかし、私達は亡くなると、自分の性格、自分の人格だけを持って行きます。だからこそ、どのような性格を建てているのかが、大切なのであります。そして、人間の選択は性格を形成するか形成しないかではありません。皆それぞれ性格を形成して来ているのですから。私達の選択はどのような性格を作っているでしょうか。よく建ててある性格と、あるいはしっかりしていない性格を建てているのではないでしょうか。
私達人間にはどのような土台の上で自分の人生を選び建てる事が大事です。この世の中では数多くの道があります。自分中心の生活も出来るし、色んな他の人生の哲学にも従えます。けれども、イエスは私達の選択を狭くしているように一見思えます。実は、二つの選択しかありません。人間はイエスの言葉を行う事の上に建てるのか、他の事の上に自分の人生を建てるのかを選びます。それは私達の大切な選択です。
この譬え話を通してまたもう一つの事が教えられています。すべての人間の土台はいつか試されます。すなわち、私達は必ずこの世で、人生の試練を経験します。前に言及した二人の婦人がその事実をよく表しています。きっと私達の人生の中に病や嘆きや逆境や死などが入り込んできます。これは人間の状態なので、こう言う経験は避けられません。もちろんある人は激しい試練を受けますし、またある人は比較的に軽い試練を経験しますが、これでは人間の差を計れません。試練が来ると、どうゆうふうに試練を扱うのか、これで人間を計れます。
私達の人生にいつかは雨が降って、洪水が出て、激流が私達に押し寄せて来る事でしょう。そしてある人の家は動かず、そのまましっかり立ています。一方、またある家は倒れてしまいます。激流が建物の土台を試すように試練は人間の性格を試します。試練が他の経験よりも、私達の人生の土台、すなわち、私達の信仰を表します。
イエス・キリストの言葉が私達の人生と本当の関係があるかどうかは試練で決められると思われます。先に言及した二人の婦人の場合がよく説明されます。
そうしたらどうゆうふうにしてしっかりした土台の上で自分の人生の家を建てる事が出来ますか。イエス様の言葉を聞くだけではなく、行う事もしなければなりません。と言うのはイエス様の教えに服従する事が必要だからです。他には方法がありません。ヤコブの手紙にこのような御言葉が記されています。「御言葉を行う人になりなさい。自分をあざむいて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)
私達がイエスに本当に従っているなら、どんな激しい試練が来ても倒れず、立つ事が出来ます。この世の中に生きている私達に何と素晴らし慰めと約束でしょう。
しかし、イエス様の御言葉に従う理由はまだあります。試練に負けないと言う理由だけよりも、私達はイエス様を愛していますから、イエスに従いたいはずなのです。イエス様がこのように言われました。「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。」(ヨハネ14:15)イエスは私達の為にこの世に来て下さいました。その上、イエス様は十字架で私達の為に死んで下さいました。イエスの死を通して私達の罪は神様に赦され、神の子供になります。イエスは私達の為にこの多大の犠牲を払いましたから、私達の応答は服従だと思います。
いかがでしょうか。あなたの土台はしっかり建っていますか。試練が来るとどうなりますか。私達皆はこのような質問に答えるべきだと思います。私達は今イエスの教えに本当に従っていますか。生活とイエスの言葉が具体的につながっているのでしょうか。イエスの言葉を聞いて実際に行っていますか。
【救いの岩】
イエス様は私達が御自分の御言葉に従うように、助けて下さいます。私達の努力だけでは出来ません。真実にイエスに頼むなら、御自分の教えに従う為に私達に力と知恵と愛と勇気を十分に授けて下さいます。そして、私達はこの讃美歌を心から歌う事が出来ます。
我が身の望みは、ただ主にかかれり、
主イエスの外にはよるべきかたなし。
我が君イエスこそ救いの岩なれ、
救いの岩なれ。(#280)
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