【私達が愛するのは神がまず私達を愛して下さったから】ウイリアム・モーア 

【神は愛です】ヨハネの手紙一4:16bー21 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

【ウエスレー兄弟の先輩―ウイリアム・ロー】
メソジスト教派の創始者であるジョン・ウエスレーは神学生の時、良いクリスチャンになる為に、一所懸命に頑張りました。兄弟チャールズと一緒に英国のオクスフォード大学で仲間を集め、厳しいクリスチャン生活を送りました。そのグループは「ホーリイクラブ」すなわち神聖クラブと呼ばれていました。色々な厳しいルールを作って、真面目、真面目に神に従おうとしました。しかし、残念ながら、いくら頑張っても彼等は平安と喜びをあんまり経験出来ませんでした。ウエズレー兄弟がアドバイスを求め、先輩ウイリアム・ローに訪ねたどころ、ロー先生はこのように言いました。「君達はキリスト教から面倒くさい複雑なものを作っている。実は、キリスト教信仰は本当に簡単です。我等の信仰の本質はただこれです。『私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。』」

【キリスト信仰の本質―神は愛です】
キリストの信仰は基本的に難しくはありません。もちろん聖書のある箇所は色々な解釈があって、神学の微妙な違いで議論に入る事が出来ますけれども、本質は実に簡単です。その本質について少し考えると、キリスト教信仰の重要な点はピントが合って来て、主イエスに従う意味が新たに分かってきます。
さて、簡単にキリスト教信仰とキリスト教会を説明する事が出来ますか。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」恐らく何よりも、これは私達の信仰の本質だと思います。ある程度、神秘に包まれているので、全能の唯一の神についてまだ分からない事があります。しかし、私達人間に対しての神の御業は、十分分かっています。それは主に愛です。神様は御自分の大きな愛から私達を愛して下さいます。今日の朗読の通りに「神は愛です。」もちろんキリスト信仰には天国の素晴らしい事についての教えがありますが、今、この世にあっては、神に愛された事と隣人を愛する事を強調します。そして、キリスト教には律法、すなわち規則があるけれども、愛は全ての 律法を成就します。

社会では愛の事について良く聞きますね。多分これはキリスト教の影響だと思います。しかし、社会に愛を実現するのはなかなか難しいです。なぜなら、愛がかなり誤解されていると思います。その理由は、愛にとって絶対に必要な基盤を知らず、愛を実現しようとしているからです。その基盤とは私達の為の神の愛であります。神が先ず私達を愛して下さったから、私達は愛する事が出来ます。本当の愛の源は神からです。

【親の愛】
皆さん、子供はどうゆうふうに愛を習うのでしょうか。生まれながら愛を実現出来ますか。違います。先に両親に愛されたので愛する事が出来るようになります。逆に、小さい時、愛があんまり経験しなかった子供は大人になると、愛する事が非常に難しいです。ルードルフ・ブルトマンという神学者はこのように言いました。「先に愛された人だけが愛する事が出来ます。そして、先に信頼された人だけが信頼する事が出来るようになります。」
戦争の時、カトリックのシスターが中国人の兵士の壊疽にかかった傷を奇麗にするのを見て、ある記者はこう言い出しました。「100万ドルを払っても私はその仕事が出来ない。」腐りかけた傷を奇麗にしながらシスターがこのように答えました。「私の気持ちも全く同じです。私も100万ドルを払うと言ってもこの事をしないのですが、私には他の動機があります。」「私達が愛するのは、神が先ず私達を愛して下さったからです。」

【意思による愛】
しかし、愛は具体的にどう言う事でしょうか。大抵「愛」と言えばある暖かい引き付けるような気持ちを想像しますね。そして、相手から同じような気持ちを期待します。しかし、イエス・キリストが教えて下さった愛は随分違う事です。イエスの教えでは愛は感情よりも行動です。それはお返しのあるなしに関わらず相手の為になす良い行動です。ですから、愛は感情から来るのではなくて、意志から出て来ます。つまり、相手に良い行動をするように決めて、そして実際にその行動を行うのがクリスチャン愛なのです。

神はどうしてあなたを愛するのでしょうか。あなたが先に神を愛したからですか。あなたが神の戒めを守るからですか。あなたは特に良い人間であるからでしょうか。そうではありません。私達は皆罪人です。不思議な事ですけれども、神はただあなたを愛する事を決定しました。御自分の意志であなたを愛して下さいます。その例に従って、私達も意志で相手を愛さなければなりません。もし愛は感情の問題だったら、好きな人だけを愛する事しかないでしょう。でも愛は意志の事の故に、自分に嫌な人、難しい人、自分の敵さえも愛する事が出来ます。それこそが本当に力ある愛であります。

しかし、神が先ず私達を愛して下さった事がどうゆうふうに分かりますか。それはやはり、イエス・キリストを通して分かります。聖書にこの御言葉が記されています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私達が生きるようになる為です。ここに、神の愛が私達の内に示されました。」(ヨハネ一4:9)イエス・キリストを通して神が私達の救いの為に肉体を取って、この世にいらっしゃいました。天国のあらゆる特権を捨てて、人間になって、この世の全ての悩みを味わって、そして、御自分の命を犠牲にして下さいました。その全ては私達、罪人の為でした。イエスの十字架の死によって永遠の滅びに向かうしかない私達は神の子になりました。神の大きな愛から私達を御自分の子供のように受け入れて、あらゆる恵みを授けて下さいます。

【マーシャ・エベンズ】
アメリカの中部、ある田舎の町にマーシャ・エベンズという十代の少女がいました。小さい時、口の回りにある神経組織の手術の最中に間違って神経に触れ、麻痺して口が曲がってしまいました。十代の女の子ですから口が曲がってしまうと、劣等感にとらわれ、友達に会うのも避けるし、学校も行きたがりませんでした。ますますとその心は閉ざされ、憂鬱な少女に変わりました。しかし、その少女が13歳の誕生日を迎えた日に少女へ一つのプレゼントが届きました。プレゼントを開けて見ると可愛い花束が送られて来ました。送ってくれた人の名前は書かれていないのですが、その中に小さいメモがありました。そのメモの中には次のように書いてありました。「マーシャちゃん、この世にはそれでもあなたの事を愛している人がいるのよ。」本当に何年ぶりに始めて口を開きました。「ママ、誰がこれを送ってくれたのかしら。」お母さんが言います。「あなたの事を好きな人じゃないの。」その時マーシャが言いました。「私のような子を好きになるかしら。口も曲がって、顔もブスなのに。誰が私にお花を送るかしら。」お母さんが答えました。「だけど誰かがあなたの事を愛している人がいるのよ」と。
その時から、13歳の誕生日を迎えた年から、毎年誕生日になると間違いなく花が送られて来たのです。そうするとその度にマーシャの顔は明るく変わり始めました。毎年ごとに花がくる度に明るく明るくなり、年を重なると共にマーシャ・エベンズは自分の劣等感を乗り越え積極的な人生を生き始めました。やがてマーシャは大学を卒業し、素敵な男性に巡り会い結婚しました。
結婚以後もこの花は毎年マーシャの元に送られて来ました。しかし、ある日から花束は来なくなりました。なぜなら、マーシャのお母さんがこの世から亡くなりましたからです。実は、今までその娘に「誰が花束を送り続けたのですか。」そのお母さんが誕生日ごとに花束を送ったのでした。

皆さん、これが今日、神が私達への愛なのです。果たして誰が私のような足りない者を愛するのですか。誰が私のようなむさくるしい者を愛するのですか。この世の全ての人々が私をあざ笑い、引き下ろしているのに、果たして誰が私のようなひねくれた者を愛するのですか。神は言います。「全ての人々が皆あなたを愛さなくても私はあなたを愛している。全ての者があなたの元を去っていても、変らずあなたの側にいて私はあなたを愛します。神が今日私達にこの言葉を聞かせて下さいます。ここに私達の希望があります。

【神を愛する者は隣人を愛する】
イエス・キリストを通して神の大きな愛を経験した者は反応として自然に神を愛します。しかし、神を愛しようとしたら神御自身の顔は私達に隠されています。そうするなら、神をどのように愛する事が出来ますか。実は、御自分の代わりに神は私達の隣人を愛するように願っています。ヨハネの手紙一に書いてあるように

「神がこのように私達を愛されたのですから、私達も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た物はいません。私達が互いに愛し合うならば、神は私達の内にとどまって下さり、神の愛が私達の内で全うされているのです。(4:11)

同じようなストーリが沢山あるけれども、ある人はイエス・キリストが自分の目の前に現れる事を一生懸命祈りました。何よりもそれを願っていました。しかし、キリストの代わりに飢えた人とか貧しい者が訪ねて来ました。そう言うストーリが重要な真理を教えると思います。神を愛したかったら、代わりに隣人を愛さなければなりません。これが主イエスの教えです。マタイによる福音書25:31からイエスのお言葉がこのように記されています。

「人の子は、栄光に輝いて天使達を皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、全ての国の民がその前に集まられると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼等をより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父の祝福された人たち、天地創造の時からお前達の為に用意されている国を受け継ぎなさい。お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私達は、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれた事なのである。』」

キリスト教信仰は複雑な難しいものではありません。先ず、あなたに対して、イエス・キリストを通して神の大きな愛と憐れみを経験させて下さい。そして、その愛を見本と源として隣人を愛しなさい。隣人の為の愛を通して神を愛する事になります。今日の聖書の朗読の通りに、

「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事が出来ません。」

【神の愛に対する私たちの応答】
あなたの為の神の愛が分かりますか。その愛は罪人を裁く為ではなくて、救う為にイエス・キリストを通して現れました。また、イエス様は私達の救いの為に御自分の命を捨てて下さいました。これ以上に大きな愛はありません。そして、その愛を返すように神を探していますか。全能の唯一の神は霊であるから何処にでもおられますが、私達人間には見れません。御自分の代わりに神が近所の頑固な人や、やかましい子供や、恩知らずの知人や、性格の曲がった人などを私達に送って下さいます。もし私達が神の愛を経験すれば、そのような者さえも愛するようになります。

ウイリアム・ローはウエスレー兄弟にこのように言いました。「君達はキリスト教から面倒くさい複雑なものを作っている。実は、キリスト教信仰は本当に簡単です。我等の信仰の本質はただこれです。『私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。』」

2004年02月01日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書

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