2004年2月

【二人の家を建てる者】ウイリアム・モーア 

【わたしの言葉を聞き、それを行う人】ルカによる福音書6:46~49 46:「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 47:わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 48:それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 49:しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

【アメリカの教会で】
アメリカで教会の牧会をしていた頃、色んな人に接することがありました。牧会をしていた教会の会員だけではなく、全く知らない人にもよく巡り会いました。つまり、色々な人々は教会を頼りにして訪ねて来ました。日本ではちょっと困った事があったら近くの交番へ行かれるのだそうですね。アメリカでは多くの場合、困った事があったら、遠慮なく一番近い教会を訪ねて来ます。そういうふうにして訪ねて来る多くの人は大抵自分で可愛そうな話を考え出し、現金を恵んでくれるように頼みます。ある人は近くの教会をあちこち訪ねながら、生活をしている人もいます。このような人々は大抵現金だけを求めて来ますが、時には生活に必要な物を求めて来る人もいます。

ある日、教会で説教の準備をしていたら、全く知らない人から電話がありました。「高速道路で車のガソリンが切れてしまったが、お金が全然ないから、ちょっとガソリンを持って来て下さいませんか」と言う事でした。そう言う願いは全く始めてで、ちょっとびっくりしましたけれども、少しでも困っている人の助けになりたい気持でガソリンスタンドへ行って、ガソリンの18リットル缶を一杯にして、高速道路に入りました。そしてガソリンがなくなった車の所に着いた時は、またびっくりしました。その車は私の車よりもずうっと良い物だったのです。車の中を覗いて見ると家族は楽しそうにおやつを食べながら旅行をしているようでした。運転席に座っているお父さんのように見える人はこう言いました。「ああ、ガソリンを持って来てくれてありがとう。入れてくれないか」と平然と言いました。ガソリンを入れて上げてからこう考えました。この家族は多分このように教会に頼みながら旅行をしている人達なんだなと思いました。ガソリンがなくなると、いつも一番近い教会に電話をして、ガソリンを一杯にしてくれるようにと頼んでいるようでした。とにかく、ガソリンを注ぎ終わると、家族皆はにっこりして、さようならと言って、高速道路を走り出しました。

またこんな話もあります。ある夜遅く自宅に電話がありました。「結婚式を今夜でもすぐ挙げて下さいませんか」と突然、知らない女性からの電話でした。「先ず、あなたの相手になる人と一緒に教会に相談しに来て下さい」と私が答えました。「いや、私自身の事じゃなくて、十六歳の妹の事です。彼女は良い男を見つけて、速く結婚したいと言っているんです。」私は、「もし妹さんが結婚する時期になったら、本人が教会に直接来て貰って、私と相談すべきではありませんか」と言いました。その電話はそれっきりで、もう電話はかかって来ませんでした。

2004年02月29日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

【私達が愛するのは神がまず私達を愛して下さったから】ウイリアム・モーア 

【神は愛です】ヨハネの手紙一4:16bー21 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 17:こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。 18:愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。 19:わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 20:「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 21:神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

【ウエスレー兄弟の先輩―ウイリアム・ロー】
メソジスト教派の創始者であるジョン・ウエスレーは神学生の時、良いクリスチャンになる為に、一所懸命に頑張りました。兄弟チャールズと一緒に英国のオクスフォード大学で仲間を集め、厳しいクリスチャン生活を送りました。そのグループは「ホーリイクラブ」すなわち神聖クラブと呼ばれていました。色々な厳しいルールを作って、真面目、真面目に神に従おうとしました。しかし、残念ながら、いくら頑張っても彼等は平安と喜びをあんまり経験出来ませんでした。ウエズレー兄弟がアドバイスを求め、先輩ウイリアム・ローに訪ねたどころ、ロー先生はこのように言いました。「君達はキリスト教から面倒くさい複雑なものを作っている。実は、キリスト教信仰は本当に簡単です。我等の信仰の本質はただこれです。『私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。』」

【キリスト信仰の本質―神は愛です】
キリストの信仰は基本的に難しくはありません。もちろん聖書のある箇所は色々な解釈があって、神学の微妙な違いで議論に入る事が出来ますけれども、本質は実に簡単です。その本質について少し考えると、キリスト教信仰の重要な点はピントが合って来て、主イエスに従う意味が新たに分かってきます。
さて、簡単にキリスト教信仰とキリスト教会を説明する事が出来ますか。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです。」恐らく何よりも、これは私達の信仰の本質だと思います。ある程度、神秘に包まれているので、全能の唯一の神についてまだ分からない事があります。しかし、私達人間に対しての神の御業は、十分分かっています。それは主に愛です。神様は御自分の大きな愛から私達を愛して下さいます。今日の朗読の通りに「神は愛です。」もちろんキリスト信仰には天国の素晴らしい事についての教えがありますが、今、この世にあっては、神に愛された事と隣人を愛する事を強調します。そして、キリスト教には律法、すなわち規則があるけれども、愛は全ての 律法を成就します。

社会では愛の事について良く聞きますね。多分これはキリスト教の影響だと思います。しかし、社会に愛を実現するのはなかなか難しいです。なぜなら、愛がかなり誤解されていると思います。その理由は、愛にとって絶対に必要な基盤を知らず、愛を実現しようとしているからです。その基盤とは私達の為の神の愛であります。神が先ず私達を愛して下さったから、私達は愛する事が出来ます。本当の愛の源は神からです。

2004年02月01日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書