【お正月の聖餐】ウイリアム・モーア
◆主の晩餐の制定 コリントの人への手紙一11:23-32
23:わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24:感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25:また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26:だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27:従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
28:だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
29:主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
30:そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
31:わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
32:裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
皆さん、HappyNewYear!.開けましておめでとうございます。神様の大きな恵みによって私達にこの新しい年、主イエスキリストの2004年と言うこの年が与えられました。どうか、この2004年には神様の大きな祝福とイエスキリストの御臨在が皆さんと皆さんの御家族一人、一人の上に豊にあります事を祈ります。
今年は皆さん、どんなお正月を迎えたのでしょうか。今年2004年のお正月は、我が家では家内が着物を着て、友人からおせち料理を頂き、森田兄弟姉妹のお餅と鯛で、来日して初めて純日本式のお正月を迎えました。もちろん私達は日本にいますので、日本の時間で新しい年を迎えましたが、またアメリカのテレビを通してアメリカの新しい年を迎える中継なども見ながらアメリカにいる両親や親戚に電話をかけたりして、向こうのお正月も祝いました。このように世界各国ではそれぞれの時間は違いますが、新しい年に向けて皆でお祝いをしています。
日本もそうですが、世界中の国々も美味しい物を食べたり飲んだりしながらパーテイを開きお正月を祝います。昨年日本では不景気が続き、色々な事がありましたね。ですから、この新年の為のわいわいを通して、人々は過ぎ去った年の問題と不幸を忘れ、輝かしい新年の可能性と希望を抱きたいと思うのです。確かに、新年によって新しい出発が与えられましたから、私達は気持ち良くその将来に踏み出したいのです。
【イスラエルのお正月と聖餐】
それでは、聖書に出て来る旧約時代のイスラエルの新年、お正月はどうだったのでしょうか。非常に興味深い事ですが、イスラエルの新しい年の迎え方は今の私達の習慣とは随分違っていました。
ユダヤ教のお正月は第七の月の一日になります。今のカレンダーで見ますと、その時は収穫が済んだ秋の九月の下旬か十月の上旬でした。旧約聖書にこの御言葉が記されています。
「主はモーセにおおせになった。イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。あなたたちはいかなる仕事をしてはならない。燃やして主にささげるささげ物をたずさえなさい。」(レビ記23:23)
そして、その日から十日後、もう一つの大事な聖日がありました。それは贖罪日と言う日なのです。その日に全てのイスラエル人は断食して、エルサレムの神殿で祭司達は色々な儀式を行いました。その儀式の目的は人々が神に犯した罪を清める事です。主に、いけにえを捧げる事によってイスラエルの罪が贖われ、神の許しを受け、人々は主と新たに和解を与えられました。
お正月から贖罪日までの十日間の間、人々は神様の前に自分の生活と振る舞い、自分の敬虔と良心、また自分の思いまでも自ら吟味しました。自分が被告のように全知全能の神の裁判所に出るような経験でした。そして、もしその吟味から罪に気付いたら、贖罪日の許しを受けるように、心からの悔い改めが必要としました。
言うまでもありませんが、そのイスラエルのお正月はわいわいの時ではありませんでした。かえって、一年中最も厳粛な時期であって、皆は真剣に自分自身を吟味し、その深刻な行事を守りました。ユダヤ教の多くのお祭りは踊りと歌と喜びで祝いましたが、お正月の場合、全くその逆でした。 このように、この昔々イスラエルのお正月の迎え方は今の私達とは違いますね。しかし、今日の御言葉で使徒パウロは何と言っていますか。
コリントの人への手紙一11:27から見て下さい。
「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血にたいして罪を犯す事になります。誰でも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体の事をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」
と記されています。
この裁きのお話はちょっと厳しく聞こえますね。ある時は聖書にはこう言うお話は除いたらどうかなとも思いますが、聖書はただ美しく造る本ではありません。ある時はこう言う厳しいお話しを通して私達を成長させ、訓練し、教え、正しい道へと導いて下さいます。
【聖餐式を受けるにあたって】
今朝、間もなく西谷集会で始めての聖餐式を行います。聖餐の際、私達は使徒パウロが教えたように「自分をよく確かめた上で、」聖餐を受けるべきです。また、聖餐式の式順にこの言葉があります。「聖餐を受ける者は、神の御前に、自分自身を吟味し、悔い改めと信仰を表さなければなりません。」そして、またこの新しい年2004年の玄関に立つ私達は自分の信仰と生活をよく見直す機会が与えられます。
私達の神様との歩みはどうですか。
私達の信仰は生きていて、成長しているものですか。
私達は御言葉を学んで自分の生活に実行していますか。
何か悔い改めなければならない罪がありますか。
私達はこの新年の始めに、また聖餐を受ける際、そのような質問で自分に聞く必要があると思います。
【キリストを信じるとは】
そして、キリスト者として常に一つの事を覚えなければなりません。それは私達の信仰の一番根本的な真実です。私達は神の恵みによって救われ、生きているのです。私達みんなは罪を犯し、弱さを持って、失敗する者です。しかし、聖書はもし自分の罪を告白し、悔い改めれば、また、イエス・キリストを自分の唯一の希望と救い主として心から信じたら、神は私を裁く時、私を見るのではなく、変わりに御自分の清い御子、イエスキリストを見るのです。
【キリストを着る者は裁かれない】
また、使徒パウロはこのように述べました。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3:26p346)つまり、キリスト者はイエスを衣服のように着ているのです。ですから、私達は神の裁きの前でイエス・キリストが共に居て下さるのです。なぜなら、主イエスは私達が罪の為に支払うべき罰を十字架で御自分の身に受けて下さいました。その贖いによって私達は清められています。その最も素晴らしい愛の行為で主の敵であった私達は神の尊い子供になりました。その故に神の裁きを恐れなくても良いのです。主イエス・キリストを通して神は救いの唯一の道を開いて下さいました。そして、イエスを信じる者は誰でもその永遠の賜物を頂きます。これこそが福音、比べるもののないGood Newsです。
【聖餐式のパンとぶどう酒】
聖餐を通して、この救いを齎(もたら)して下さるイエス・キリストの私達の為の贖い死を新たに覚え感謝します。聖餐のパンは私達の為に裂かれた主イエスの体のシンボルになります。イエスは渡される夜、弟子達と一緒に食事をとりました。それは「最後の晩餐」と言われて来ました。
そして、主はパンを取って裂き、このようにおっしゃいました。「取って食べよ。これは、あなたがたの為に裂かれた私の体である。私を記念する為、このように行いなさい。」そして、同じように主は私達の為に流された血のシンボル、すなわち葡萄酒の杯を取り、感謝して、弟子達に与えて言われました。「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい。」
愛する皆さん、息が切れるように歩んで来た2003年も過ぎ去りました。新しい希望と可能性に満ちた2004年になりました。たとえ予測出来ない変化と恐れのこの世ではありますが、私達は全能の愛の神が「雄雄しくあれ私が共にいる」とおっしゃる声を聞く事が出来ます。皆さん一人一人、御家庭において、また私達の西谷集会においても、2004年は、神の哀れみと愛と救いを、毎日の生活で隣人に実行出来るように、神の導きと助けの力があります事を祈ります。(終わり)
2004年01月04日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書
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