【子供のように神の国を受け入れる人】ウイリアム・モーア

◆子供を祝福する、ルカによる福音書18:15~17 15:イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。 弟子たちは、これを見て叱った。 16:しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 17:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」

2003年12月28日ウイリアム・モーア先生

弟子たちは叱った  

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ある日、多くの人々がイエスの教えを聞く為に町を出て郊外に集まって来ました。有名になったイエスのもとには、どこへ行っても大勢の人が集まって来ました。主の教えは全ての点で他の先生(ラビ)とは違いました。イエスは権威ある者のように教えられましたからです。神様の事を力強く人々に直接述べ伝え、素晴らしい奇跡的印(しるし)も行いました。また、病気を治す力がありましたので、病気の人々は次から次えとやって来て癒してくれるように切に願いました。ある病人はただイエスの着物に触れただけで元気になりました。
休む暇、食事を取る暇もない程、イエスは毎日大忙しでした。どうしても、神の御言葉を求める人や病気の人を断る事が出来ませんでした。毎日、毎日、人の悩みや質問を聞いて、分かりやすく答えられました。イエスのお話を聞くとそれは神からの御言葉だと皆が悟りました。

主イエスが大変忙しくしていましたのに、ある人々は自分の小さい子供、そして赤ちゃんまでも主の御元に連れて来て、子供の上にイエスの祝福を求めました。神様の預言者、イエス様の祝福を受ければ、自分の子供が幸せになると信じていたに違いありません。しかし、今日の朗読の15節の最後を見るとイエスの弟子達は、これを見て叱ったと書いてあります。弟子達はその幼い子供を見ると怒って、「こんなに忙しい時に赤ん坊まで連れて来て」と思いながら、その両親を叱った事でしょう。きっと、弟子達はイエス様を思う心からだと思いますが、子供を連れて来た人々を厳しく注意したのです。イエスを求めて来る大勢の人の中にも、まだまだ主に近付く事の出来ない人々が沢山いるのに、幼い子供まで見る暇がないと思った事でしょう。

しかし、イエスはこの場面を見て何とおっしゃいましたか。「有り難うペテロとマルコ。赤ん坊よりも、後ろに並んで私を求めている大人を見た方が良い。出来れば幼い子供達は家に預けて来るようにね」と言われたのでしょうか。いいえ、むしろイエスは弟子達にこのように言われました。16節を見るとイエスはこうおっしゃいした。

「子供達を私の所に来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者達の物である。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事は出来ない。」

びっくりさせるお話ですね。普通、子供は大人に模範を示さないです。そうでなく、大人は子供を教える立場です。また、大人になって子供の考え方、子供の振る舞いを止めないと、言われる事があります。「幼児ぽい」と言う事です。幼児ぽいと言うのは決して誉める言葉ではありません。使徒パウロがコリント人への第一の手紙に書いた通りに「私達が幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また幼な子らしく考えていた。しかし、大人となった今は、幼な子らし事を捨ててしまった。」(13:11)

それにも関わらず、イエスによると、幼な子らしい事を全部捨ててはいけません。主は子供の良い点を認めて、信仰の事だったら、彼等から学ぶ事があるとはっきりと教えられました。幼い子供について

「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事は出来ない」

と言われました。

【神の国とは】

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そのイエス様のお話を理解する為には先ず「神の国」と言う表現を学びましょう。もちろん神の国は人間が作った日本とかアメリカのような国ではありません。簡単に言えば、神の国は神の家族なのです。つまり、イエス・キリストを通して唯一の全能の神に信じ従い、その神の恵みを受け入れる人々は神の国に含まれています。そして、どこでも聖書に於ける神を礼拝し、その神に使える者がいれば、それは神の国なのです。

イエス様は、「神の国は子供のような者達のものである」と言われましたが、それはどう言う意味でしょうか。イエスによると私達は子供から何かを学ぶべきですね。少なくとも三つの事があると思います。

【幼な子から学ぶこと、(1)信頼すること】

信頼(そのl1)

先ず、小さい子供から信頼する事を学ぶ事が出来ます。幼な子は自分自身の為に何も出来ないので、全ての事を両親に期待しています。食べ物や着物や保護などは両親から頂きます。そして、自分の両親が何でも必要な物を与えて下れる事を強く信頼し、その事については何も心配していません。子供に「誰が今日の晩ご飯を食べさせてくれる」と聞くと、答えは決まっています。やはり、すぐ、「お母さん」と言いますね。自分のお母さんが続けて毎日ご飯を作ってくれる事を信頼して、その事について煩いも、疑いも、全然ありません。
また、小さい子供は親が言った事を全て本当であると全て信頼します。それは誰かに言われたからではなく、自然と親を信じてます。悪いけれども、私は冗談として、小さい時、自分の子供によく、とんでもない事を言いました。例えば、ハムはハムスターと言うネズミのような動物の肉で作られていると言いました。今はそのような話は信じないけれども小さい時は、全てを素直に信じていました。小さい子供は自然と両親を信じて、その言う事を疑いません。

信頼(その2)

私達は天の父なる神をそのように信頼すべきです。考えて見れば、信仰はおもに信頼する事ではありませんか。神様の愛や摂理や約束や救いなどを信頼する事は信仰です。この世の両親と同じように神は私達の信頼を求めて喜びます。神が人間をわざわざ創造して、そして、私達の為に全地を造って、色々な素晴らしい物を授けて下さいました。

しかし、人間は神に従い信頼するより、自分勝手な道を歩んで、主なる神様との関係が遠くなってしまいました。それにも関わらず、神は私を愛し、私達の救いの為にご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、イエスの贖い死のお陰で、私達は神と和解を与えられ、永遠の命も頂きます。こんなに愛されたら、私達は神を信頼すべきではありませんか。神の子供のように主を信頼すべきです。また、幼い子供のように神の御言葉も信じて、素直に受け入れるべきなのです。御言葉を通して神が御自分の真理を啓示して下さいましたので、疑わずにそれを信じるべきです。そうすると神の国に入る事が出来ます。確かに、小さい子供から信頼を学ばなければならないと思います。

【幼な子から学ぶ子こと(2)謙遜】

子供(その1)

子供(その2)

信頼だけではなくて、また子供から学ぶ事があります。小さい子供に謙遜も習わなければなりません。ある日イエスの弟子達が仲間の中で誰が一番偉いのかとお互いに議論していました。そして、どうしてもその議論が穏やかに決められなかったので、イエスのところに行って判断して貰おうとしました。主は弟子達の愚かな願いに直接に答えるより、一人の幼い子供を呼んで、その子を弟子達の真ん中に立たせました。そうして、このように言われました。

「よく聞きなさい。心を入れ替えて、幼な子のようにならなければ、天国に入る事は出来ないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。」

弟子達はこのお話を聞くと多分びっくりした事でしょう。イエスの偉い十二の弟子はまさか子供から学ぶ事があると思わなかったのです。しかし、イエスの弟子達さえも幼い子供から謙遜を習う必要がありました。

幼い子供は生まれながらに謙遜です。つまり、名誉は全く欲しがらないで、相手より偉くなることは考えません。それで、相手を軽蔑するのは小さい子供には不可能です。その謙遜な態度を持っている幼い子供は誰とも自由に仲良くなり、自由な人間関係を築く事が出来ます。神の国に入るのには謙遜がいります。自分が偉いと思う人はなかなか神様に近付く事が出来ません。そのような人は自分が偉いと思うから、神の国に入れられるように神の許しと恵みを求めないからです。でも自分を本当に低くする者は罪の事を悟り、神の救いを心から求めます。神の目から見れば、一番謙遜な人は一番偉い人なのです。

イエスはこのよう言われました。「後の者は先になる、先の者は後になるであろう。」(マタイ20:16)神の国、すなわち神の家族に入ろうとしたら、子供の謙遜を真似る方が良いのです。そうすると神の目から見ると、私達が偉くなります。それだけではなく、人間関係もきっと良くなると思います。

【幼な子から学ぶこと(3)親しみ】

礼拝(その2)

礼拝(その3)

最後に、親しみを小さい子供から習う必要があると思います。赤ちゃんと小さい子供は自然と親との間に親しさがあります。良く小さい子供は「抱いて、抱いて」と言いながら、親になついて来て、親しい関係を持ちたいのです。子育ての本で読んだ事がありますが、小さい子供は親との関係があんまり良くなかったら、精神不安定になり、大人になっても他の人との親しい関係を持つのはなかなか難しいと言われています。面白い事ですか、イエス様は神を呼ぶ時、「アッバ」と言う言葉を使いました。それは「パパ」とまったく同じ表現なのです。
やはり、神は私達とそのような親しい関係を持ちたいのです。イザヤ書で神はこのように言われました。

「母がその子を慰めるように、私もあなたがたを慰める。」

やはり、私達との親しい交わりを持つ為に神は人間を御自分の形にお造りになりました。神との親しい関係を持つなら、子供のようにならないと、その関係はむずかしいです。神は天の父なる神なので、親しみがないと、その関係がおかしくなります。

今日で2003年の最後の主の日になります。2003年も私達、西谷集会家族には、沢山の祝福と恵みの年になりました。私達の人生においては、たえず判断と選択が要求されます。選択の道で神の御言葉に基づいて判断し、選択すれば決して間違いを犯しません。

イエス様の御言葉は、
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事は出来ない」

と言われます。それは私達にとって大変重要です。もっともっと小さい子供から習ぶなら、神の国に入る事が出来、この世でも、永遠でも、その祝福を楽しむ事が出来ます。(おわり)

2003年12月28日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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