【洗礼の意味】ウイリアム・モーア 待降節第3週

◆弟子たちを派遣する マタイによる福音書28章16~20節 16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 

洗礼の意味

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       合衆国長老教会宣教師ウイリアム・モーア


昔のアメリカでは多くの田舎の教会は洗礼式を川で行ないました。そして、ある日、一人の男の人はちょっと飲み過ぎて、散歩しながら、洗礼式を行なう教会の群れに巡り会いました。彼はあんまり深く考えないで、その式を近くで見る為に川の水に入って、牧師の側に立ちました。

急に牧師は彼に向けて、大声で「あなたはイエスを見出す用意が出来ましたか」と聞きました。彼はちょっとびっくりしましたけれども「はい、僕も見つけたいよ」と返事をしました。そうすると、牧師は彼をつかんで、体全体を水につけてから、引っ張り出して、「イエスを見出しましたか」と聞きました。「いいえ、見つからなかった」と彼が言いました。そして、牧師はもう一度彼をつかんで水に入れましたけれども、今度は引っ張り出すまでもう少し長く待ちました。そして、水から出るとまた「イエスを見出しましたか」と牧師に聞かれると「いいえ、まだ見つけていない」と返事をしました。そして、牧師はいらいらして、もう一度彼をつかみ、今度は30秒程の間彼の頭を水の下に浸けました。彼を水から引っ張り出して牧師は「今度こそイエスを見出したでしょう」と叫ぶと、酔っ払た彼は目を拭きながら先生に向かってこう言いました。「見付けて上げたいですけれどもイエスはここの川で溺れているのは確かですか」。

このお話しは冗談です。実は、飲み過ぎの人と牧師の両方は洗礼の意味について取り違えたという笑い話です。
もちろん、洗礼の業によって私達はイエス・キリストを「見出す」訳ではありません。主イエスが先ず私達を選んで見出して下さるからです。イエスが言われた通りに「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」と聖書には記されています。(ヨハネ福15:16)

来週、ここ西谷集会では、クリスマス礼拝があります。そして、礼拝中にいよいよ森田さん御夫妻の洗礼式が行なわれる予定です。それはまことに私達の為に神様からの素晴らしいクリスマス・プレセントになります。私達はその喜びを完全に経験出来るように今朝、一緒に洗礼と洗礼式の意味について聖書から学びたいと思います。

【教会は何故洗礼を授けるか】

しかし、洗礼の意味に入る前に先ず、教会は何故洗礼を授けるのですか。今日の聖書の朗読はその質問にはっきりと答えて下さいます。この御言葉には蘇させられたイエス・キリストが御自分の弟子達に現れ、彼等に使命を与え、このようにおしゃいました。
マタイによる福音書28:18の所を見て下さい。

「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいた事を全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

こう言われる様に、洗礼は「天と地の一切の権能を授かっている」神の御子、イエス・キリストの命令ですから、教会は洗礼を今日まで授けて来ました。洗礼を受ける事と授ける事によって「私を愛する人は、私の言葉を守る」(ヨハネ14:23)とおしゃった主イエスに私達の愛と服従を示します。

何より、イエス・キリストは洗礼を礼典として設立したのは初めから終わりまで、私達を豊かに祝福する為です。つまり、御自分の為ではなくて、大きな恵みになるように私達に洗礼を賜りました。

【洗礼の一番の役割】

御存知のように、洗礼の一番基本的な役割は新しい信者をキリスト教会に受け入れるしるしなのです。洗礼を授けられると、その者はキリスト者として認められます。礼典を受ける前に受洗者はキリスト信仰を神と教会の前で告白し、これから神の助けでイエス・キリストに従って、主の教会に仕える決心を示します。そして、洗礼を受けた信者として教会の全ての特権が与えられ、聖餐の礼典にもあずかる事が出来ます。それは洗礼の大事な役目です。

【シンボルとしての洗礼の意味】
しかし、洗礼はシンボルとして、どう言う意味がありますか。
イエス・キリストは洗礼の礼典を設立した時、どう言う意味を伝えたかったのでしょうか。
主イエスにはおもに二つの意味があったと思われます。



【罪の洗い】

「洗礼」と言う言葉の文字どおりの意味は、その一つを示します。やはり、「洗う」と言う事ですね。洗うという事を考えますと、自分の汚れた体やお皿や洋服などを奇麗にする時に何を使って汚れを取り除くでしょうか。もちろん洗う為に水を利用します。水は垢を洗い流す力があるから、私達の生活に絶対に必要な物です。洗礼式にも水を使います。その水は垢を洗うのではなくて、私達から罪を洗い流すのです。と言うのは、イエス・キリストは受洗者から罪の結果を取り除く力があると言う意味なのです。主イエスは御自分の十字架の購いによって信じる者には罪の赦しを授けて下さいます。罪の為に、滅びに向かっている私達は神の赦しを受けると、神と和解され主の永遠の救いにもあずかります。

ですから、バプテスマのヨハネはイエスに初めて会った時、このように宣言しました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)そして、ヘブライ人への手紙にもこの御言葉があります。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」第一に、洗礼はイエス・キリストが私達の罪を赦す力と意志を示して下さいます。

人間誰でも、自分の過去を振り返って見ると、罪の負い目を感じるはずです。愛する人を傷つけ、自分の弱さやわがままや過ちなどの故に人を苦しめた事があるはずです。その上、私をお造りになり、そして、昔も今もずっと支えて下さる愛する天の父なる神を無視している時が多いのです。そういう罪の負い目から解放があります。イエス・キリストを通して神が奇麗に洗って下さいます。洗礼を受けると、その大事な、大事な事が具体的になって、神の赦しの恵みを心から悟るようになります。つまり、御言葉の約束通りに、「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めて下さいます」(Iヨハネ1:9)という出来事は自分のものとなります。
  




【霊的生まれ変わり・新生】

シンボルとしての洗礼のもう一つの大事な意味を示します。
それはキリスト者の霊的な生れ変わりです。イエス様はこのように言われました。

「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入る事は出来ない。」(ヨハネ3:5)

実は、ある意味では、洗礼式は御葬式のようです。洗礼の水の下に入る事は古い私達の死を意味します。そして、水から出る事は神から与えられた私達のキリスト者としての蘇り、すなわち、新しい命を表します。

「私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きる為なのです」(ローマ6:4)

と聖書に記された通りです。神様は洗礼を通して人生の新しい出発を与えて下さいます。これからは主イエスに生かされ、キリストの僕として毎日の生活を歩む訳です。神を信じ、より頼むなら、主は必要な愛や力や知恵や忍耐などを授けて下さいます。また、自分がキリストの名前で呼ばれるようになります。

実は、クリスチャンは「小さいキリスト」と言う意味なのです。ですから、毎日の生活に自分の救い主の証し人となります。ですから、使徒パウロが書いたように

「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい物が生じた。」(2コリント5:17)

洗礼はその新しい生き方の印になります。
キリスト者は洗礼を生涯一度だけ受けます。しかし、私達の生活に毎日その礼典の約束と意味と祝福を確かめなければなりません。洗礼は信仰生活の到着ではなくて、出発です。毎日、毎日自分の洗礼を思いながらイエスに似た者として、主によりもっと信頼して仕える歩みなのです。

【洗礼の祝福】
ポール・ハービーと言う有名なラジオ・コメンテーターは自分の洗礼についてこのように述べました。彼はコメンテーターとして色々なアワードを受けて大金持ちになりましたが、自分の心は空しかったのです。ある夏、ハービーさんは奥さんと一緒に田舎の小さい町で休暇を過ごしていました。日曜日になって教会へ行った時、礼拝の前に、急に御言葉が思い出されました。それは

「神は、その独り子をお与えになった程に世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。」

ハービーさんはイエスを救い主として信じていましたが、洗礼はまだ受けていませんでした。その日の説教の課題は洗礼でした。あんまり面白い話ではないと思いましたが、なんとなく聞いていました。牧師は洗礼の意味と重要性を説明してから、洗礼を受けてない人は受けるように招きました。そして、ハービーさんは神の不思議な導きを感じその場で洗礼を受けたのです。受けると言い尽くせない平安を感じ、神によって清められたと言う不動の確信を持つようになりました。
「洗礼を受ける事によって私の生活は本当に変わりました。神は空しい心を満たして、喜びに心は溢れます。主イエスの証人になりました」とハービーさんは言いました。

愛する皆さん、洗礼はこのような祝福です。主イエスは御自分を信じる者誰にでも、洗礼を受けるように招いておられます。

2003年12月14日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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