毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
お気軽にお問い合わせを
「一度礼拝に出席してみたい。」
「教会に行ってみたい。」
「でもどうしたらよいかわからない。」
そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
ルカ13:1-9「今こそ神に立ち返る」
役に立つ?
先週は埼玉西部地区伝道の集いがありました。今回講演を担当しましたが、75周年宣言の背後にある神様と人間のあり方についての見方、考え方を不十分ですがお話しました。詳しい内容は講演でお話しした通りですけれども、今日は一つのこと、すなわち私たちが役に立つ、特に神様の前で役に立つ、とはどういうことなのか、その点を中心テーマにして、この聖書の個所から一緒に読み解いていきたいと願っています。
背景としての対立
今日の聖書では弟子たちや群衆の前で教えておられるイエス様の所をある人たちが訪ねてくるということで始まっています。この人たちが誰なのか、といったことは一切語られていません。ただ、確かなのは、新たな事件のニュースがもたらされた、それも悲惨な事件であり、同時にイエス様たちにも関係あるかもしれない知らせであった、ということです。今も、ウクライナでは悲惨な状態が続いています。とりわけ、病院などが攻撃されて、多くの死者が出ているということがあります。この時のニュースもまた、同じような性質の出来事でした。当時、エルサレム神殿に年に三度、あるいは遠方の人であれば、年に一度、あるいは数年に一度、犠牲をささげるのは、イスラエルに属する人たちには当たり前の習慣でした。わたしたちが、日曜日に礼拝に参加するようなものです。その当たり前のことをしようとしてガリラヤからエルサレムに出かけて行ったグループを突然悲劇が襲ったというのです。なんのやましいところもないのに、ローマ総督であるピラトの兵士たちによって捕まり、殺されてしまったのです。もちろん、背景はあります。そもそも祭りの期間は、暴動が起きやすく、取り締まりをするローマ当局は当然ピリピリしていたはずです。また、ガリラヤはいわゆる熱心党と言われている人たち、イスラエル独立のためならローマへの暴力的な反逆も辞さない、といった立場の人たちの活動拠点とみられていた、ということもあります。当然ガリラヤから来た人たちは特別に、あるいは差別的に扱われた可能性は十分にあります。
知らせと答え
そして、おそらくこの知らせをもたらした人たちは、善意からイエス様と弟子たちの身を案じて、先生、ガリラヤの人たちがこんな目にあってしまいました、あなたたちも注意された方がいいかもしれませんよ、といったつもりでこの知らせを届けたように見えます。ところが、イエス様は、この知らせを、一つの機会として利用されています。イエス様は、この所で二度も同じような質問をされています。さらに、その後で一つのたとえ話を語っておられます。これは、明らかに一つの意図を持っているように見えます。すでにこの時イエス様は、弟子たちと群衆に教えていただろう、ということをお話ししましたが、そこにもたらされた事件のニュースを利用して、イエス様は、とっても大切なことを、弟子たち、そして群衆たちに問いかけ教えようとしておられるように見えるのです。そして、イエス様の質問の言葉は、私たちにとりましても、そのまま、自分事として聴くべきものだと私は考えています。どこか遠い話ではないのです。イエス様が、あなた方はどう思うか、と二回も訪ねておられる、この問いかけについて、私はどうだろうか、自ら問うのがこのところの正しい聞き方です。イエス様は、言われます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」(2節)。
誰が正しいのか-因果ではない
ここで特に注目したいのは、「罪深い」という言葉です。これは言うまでもなく、神様の前における罪という意味での罪です。キリスト教でいう罪です。神様に逆らう、神様を知らない、知ろうとしない、無視する、神様など存在しないかのように生きる、自分は勝手に存在しているかのように生きる、という意味での罪です。しかし、この質問では、そもそも、そのような罪の正確な定義とは別のものが入り込んでいるように見えます。その別のものとは、どちらが罪深いか、という比較の考え方です。自分と他人、どっちが神様の前で罪深いのか、という比較です。そして私たちは、実はこのような話が大好きかもしれないのです。それも、わたしたちが目で見ることのできる日常の出来事から、あの人は罪深い、あの人は少しはましだ、といった話が大好きかもしれないのです。例えば誰かが困った状況になったときに、やはり日ごろの行いが、といったことを言ってしまったりするのです。いわゆる因果応報といった考え方です。そしてそれは、何も私たちだけではなく、聖書のヨブ記はまさにこの問題を取り扱っていると言えます。何しろ、ヨブと友人の論争のテーマは、ヨブに悪いところがあるから災難が降りかかったのか、そうではないか、の一点だからです。
我々は正しくない
けれども、イエス様は、この所で問いかけています。あなたはあの人たちの災難の原因はあの人たちがより罪深かったからだと思うのか、と問うのです。もちろん、その答えは否です。3節にある通りです。「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」。全く考える余地はありません。イエス様ははっきりと、神様の前では、私たちは皆、悔い改めが必要な存在であって、私はあの人とは違う、といくら言ってもそんなものは何の役にも立たない、誰も、神様抜きでは、滅びるしかないものなのだ、とこれ以上ないくらいきっぱりと現実を突きつけられるのです。これが私たちの本当の姿です。そして、これをわたしたちは忘れてはならないのです。なぜなら私たちはしばしば、この事実を受け取り損ねたり、あるいはいったんは受け取っても、ついつい忘れてしまうからです。そうして、いつの間にか、信仰が強い弱いというような比較をしだして、あの人よりも自分はましだ、というような議論を好むからです。けれども、これはまず私自身への戒めとして、肝に銘じたいことですが、聖書の言う通り、神様の目には善を行うものは一人もいないのです(ローマ3:10、詩編14:3、53:4)。私たちは、神様の前にただうなだれるしかない、この事実をイエス様はこのところで同じ問いを2回発することで、すなわち、ピラトの事件と、シロアムの塔の崩壊に巻き込まれて亡くなった人たちを引き合いに出すことで徹底的に語っておられるのです。
主人は誰か?
このように聖書を読んでいきますと、私たちにはまったく立つ瀬がないということになりそうです。そして、ある意味では、その通りなのですが、そのような私たちのために語られているのが、この所の後半ともいえる、イチジクのたとえ話です。それで、イエス様が「あなた方も悔い改めなければ」という場合に、何を目当てにするのか、何を考え直すのか、と言いますと、このたとえ話をしっかりと考えて読むこと、と言われたかったのだろうと私は考えています。それほど、このたとえ話は大切ですし、恵み深いものです。それで、この所では「イエスはたとえ話を語られた」とはっきりと書いてありまして、これはたとえで、現実と必ずしも一致するわけではないのですが、とはいえ、私たちは、どうも、このようなたとえ話を読みますと、このイチジクは我々人間のことだろう、ブドウ園の主人は、神様で、園丁はイエス様ではないか、というように、特定の人を譬えている、というように読みたくなってきます。そして、それは全く間違ってはいないはずです。実際に私たちは、この世において、そのままでは実を実らせないものだ、というこの厳しい指摘は、すでに確認した通り、私たちの現実を鋭く表していると言えるからです。しかし、一方で、このブドウ園の主人を、神様だろう、というように読むことには少々疑問があります。なぜなら、このたとえ話の主人には、かなり厳しい面がみられるからです。もちろん、神様は義、正しさという点で厳しい方であるということはその通りかもしれません。
役に立たないイチジクという言い方
しかし、「切り倒せ、なぜ、土地をふさがせておくのか」という言い方は、たいそう厳しく響きます。これでは、まるで、人間は邪魔で場所ふさぎな存在だ、存在しないほうが良い、と言っているかのようです。実際の所、繰り返される戦争であったり、金銭的な欲望のために、環境も、他の生物も、他人さえも返り見ない、私たちのあり方を考えますと、確かに地球の場所ふさぎ、のように感じられなくもないのですが、しかし、同時に、神様は、この世界を造られたときに、それを良いものと認めて喜んでくださったと、創世記に書いてありました(創世記1:31)。そして人間もまた、そのような神様の造られた世界を良く管理するものとして造られたのでした(同2:15、園を守るもの)。その意味では、神様は、私たちを愛してくださっている方のはずです。そうしますと、この「役立たずな木を切ってしまえ」という言葉は、むしろ、悪魔的な響きを持っているように聞こえます。
イエスは擁護する
とはいえ、この主人は園丁を雇って、木の世話をさせている張本人でもあるのです。その意味では、このたとえ話は、やはりこれは誰のこと、と割り切れないのかもしれません。ただはっきりとしているのは、どうも、この園丁はイエス様の特徴がよく出ているのではないか、ということです。そして、それは、イエス様と私たちの関係にも、多分そのまま当てはまるのです。もう一度8節を読んでみます。「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」切ってはいけない、人を簡単に見捨ててはいけない、というのです。私たちは、すでに何度も確認しましたように、神様の前で、誇れるところのないものであり、立つ瀬のないものです。しかし、その私たちを切り捨ててはならない、むしろ、世話をするのだ、というのです。丁寧に、栄養をいきわたらせて面倒を見るのだ、というのです。そして、大切なのは、私たちは、このようなものだという理解です。私たちは、イエス様によって、面倒を見て盛られるのです。神様の前に役に立たない者であっても、イエス様によって面倒を見てもらえるのです。
イエスは滅びを受け入れない
それだけではありません。さらに、この園丁は、絶対に木を切らせないつもりです。9節はこうでした。「そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」もし、「それでもだめなら」というのは一見譲歩しているようにも見えます。しかし、おそらくここで言いたいのは、絶対にそんなことにはさせない、という決意です。一所懸命、丁寧に世話する、それでだめなどということがあるはずがない、そうすればきっと来年は実を付ける、私がそうする、というのです。これがイエス様の覚悟です。イエス様は、私たちにとってこのようにして世話をしてくださる方です。
今こそ神に立ち返る
そして、もし、わたしたちが、悔い改めることがあるとすれば、それは、私たちの役に立たなさを、自分で何とかすることでも、自分の不道徳、不明さを自分で何とかしようとすることでもなく、むしろ、このようなイエス様が手を差し伸べてくださっている、という事実を認めることです。そうして、イエス様の側に立つのです。それが、本当の意味での悔い改めであり、神様に立ち返ることです。
祈り
父なる神様。聖名を賛美いたします。私たちは実を付けないイチジクのようなものでした。しかし、あなたは私たちを憐れまれ、み子によって悔い改めて、あなたの所へ返る道を備えてくださいましたから感謝します。わたしたちが、今も主イエスによって年ごろに世話をされていることを深く覚えさせてください。そしてこの週もまたあなたにある歩みをなさせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。