毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ルカ9:28-36「イエスに聞く」
レントと戦争
この週もまたレントの期間を過ごしています。イエス様の十字架に思いを寄せる期間です。今年は、コロナ渦に重ねて、ウクライナでの戦争が私たちの心に重くのしかかっています。人の罪は限りがない、未だに不信と暴力に頼ってしか生きられない現実がある、ということを改めて思い知らされています。一方で私たちは、このような生き方から、逃れる道がすでに備えられているというもう一つの現実を知っています。今日の聖書で、「これに聞け」という声が響き渡ったのは間違いなく神様からの命令です。新しい生き方に入れとの命令です。そして、それはイエス様の十字架の死によって実現した現実をしっかりと受け止めろ、という命令です。とはいえ、この所は神様の救いのご計画、あるいは、イエス様の地上のあゆみという意味では、まだその中間点ですから、弟子たちも十分に整えられていません。イエス様の言われることを受け止めきれていません。それでも間違いなく、神様のご計画は弟子たちに示されているのです。それは私たちにとっても同じです。十分な用意があろうとなかろうと、神さまはこれに聞けと私たちに語り掛けられるのです。
祈りと死
この所はイエス様が三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登る、というところから始まっています(28節)。実はこのような山で祈るというのはルカによる福音書では大きな節目になっています。例えば12弟子を選ぶときに、イエス様は同じように山に登って祈られました(6:12)。また、過ぎ越しの食事を祝った後にはオリーブ山においてやはり全精力を傾けて祈られました(22:39以下)。イエス様は、その公のお働きの始まりと、その中間であるこの9章と、そして、地上における任務の完成直前において、神様の御心を求めつつ祈りをささげられた、ということがわかります。それは、神様の御心が間違いなく実現していくことを確認するための祈りです。そしてこのところではもう一つ確かなこととして、イエス様の死が大きなテーマとなっています。すでにイエス様は、弟子たちに対してご自身の受難を知らせていました。22節で、「人の子は多くの苦しみを受けて…、排斥され、殺され、三日目に復活する」とある通りです。さらには、この後の44節でも「人の子は引き渡される」というように弟子たちに語られました。いずれも弟子たちはこのようなイエス様のお言葉がよくわからないのですが、しかし、大切なのは、このような意味でのイエス様の「死」が神様のご計画の中にはっきりと位置付けられているという事実です。そうであるからこそ、今日の所でも、天的な存在として登場したモーセとエリヤの二人は、イエス様のエルサレムにおける「最後について」すなわち、十字架の死について話したのです。
死についての懇談
この所の「エルサレムで遂げようと」というところは、岩波版では「エルサレムで成就することになる」と訳しています。英語でも、「満たされるであろう神の目的」という訳があります。ここからも、イエス様の死は神様がそのように計画されたものであるということが、強調されているのです。エルサレムで神様の御心は完成するのです。その完成とは言うまでもなく、私たちの罪からの救いです。わたしたちを含め、すべて神様がみ心に留めてくださった人たちが、神様の民とされるためには、イエス様の死が必要であった、犠牲が必要だった、私たちは、自分で平和を、神様の御心を実現できないものであった、これが聖書の教えるところです。それは何も、くどくどと説明する必要はないかもしれません。なぜなら、私たち人類は、理性によっては平和を造りだせないということが、この度のロシアとウクライナの戦争でも見事に証拠されているからです。いずれにしても、いつかのこ戦争は終わるでしょう。しかし、そこに真の平和があるかと問われれば、それはおそらく様々な妥協の上に成り立つ、限定的な平和、とりあえず戦闘が止まる、という意味での平和でしょう。使い切れないほどの武器を突き付け合って、相手を脅し、だましすかしながら対立したままの停戦が本当の平和とは決して言えません。そして、それほどに私たち人間は、この世界に対しても、他の人間に対しても、まったく信頼していないのです。というのも、本当の平和とは互いに心から信頼し合えるところにしか生まれないからです。そんな青くさい、そんなものは幻想だ、現実を見ろ、という言葉が飛んできそうです。しかし、あえて言います。神様は、そのような本当の平和を造ることをすでに始められたばかりでなく、すでにそれはある意味では完成した、成就したというのが聖書のメッセージです。
眠りの中にいる弟子たち
とはいえ、少なくともこの段階でイエス様の弟子たちは、深い眠りの中にいます。それは、単に身体的に眠くて、眠くて、目を覚ましているのがとてもつらかった、というだけではなく、彼らの信仰の目、本当に知らなければならない事柄、すなわち、神様がされようとしていることに対して、目が開かれていないという事実をも現わしているように見えます。実際このあと9章45節で、イエス様が改めてご自身の受難について語ったときに「弟子たちにはその言葉がわからなかった」(9:45)と書いてあります。これは神様のご計画に対する無知さを表しているのかもしれません。そしてこのことは、私たちにとっても、他人事ではないかもしれないのです。私たちもまた、日常の生活と、神様のみ旨、ご計画との間がすっきりつながっているのか、と問われますと、そうとばかり言えない、というところがあるのではないでしょうか。お恥ずかしい話ですが、私自身、今目の前に起きている出来事、それもどちらかと言えば思わしくないことの中に、あるいはそれと並行して、神様の計り知れないみ旨がしっかりと進んでいる、自分もそのような神様のご計画の中にある、たとえ現実がどのようであれ、というようにいつも明確な視点を持てているかと問われれば自信がないのです。いろいろと嘆いたり、何でと思ったりしてしまうのです。ある意味で私たちは、そのような限界の中に生きている、半ば眠ったような状態の中に生きてしまっている、ということがあるのではないでしょうか。しかし、そうであるからといって絶望する必要はありません。なぜなら、まさに、そのようにして、準備のできていない弟子たちを連れてイエス様は山にぼられたのですし、準備のできていない弟子たちに神様は、この不思議な会議を見せられたからです。それには当然意味があります。私たちは、このような世界があることへと目を開かれていくように誘われているのです。そしてこのような出来事に対する正しい見方は必ずあるはずです。
ペテロの提案
とはいえ、もう少し弟子たちの様子を確かめてみます。おそらく、彼らは実際に、うとうとしながら、ハッとし、またうとうとしながら、ハッとする、という状態だったようですが、しかし、少なくとも、目の前で天上の会議としか思われないような状況が展開されている、ということには気が付いていたようです。「栄光に輝くイエスと、側に立っている二人の人が見えた」と32節にある通りです。そして、このような神聖な会議がまさに終わろうとしていると悟ったときにペテロは声を張り上げて提案をしています。33節のカギ括弧の中です。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」。この言葉は、一見しますと全く頓珍漢なことを言っているようにも聞こえますが、イスラエルの伝統からしますと、ひょっとしたら正当性があるかもしれません。なぜなら、イスラエルには会見の天幕、とか契約の天幕、と言われる考え方があったからです。例えば、出エジプト記には礼拝所についての記述が詳しく書かれていますが、28章にはこんな言葉があります。「アロンとその子らがそれを身に着けていれば、臨在の幕屋に入ったとき、あるいは聖所で務めをするために祭壇に近づいたとき、罪を負って死を招くことがない。」ここで、臨在の幕屋、とありますのが、以前は「会見の天幕」と訳されていました。意味は同じです。神様と出会う場所ということです。
イスラエルの聖所と天の聖所
おそらく、ペテロが意識していたのも、このようなイスラエルの伝統に基づく、聖所のようなものだったのではないかと思われるのです。しかし、このようなペテロの考え方は、半分正しく、半分間違っていると言えるのではないでしょうか。正しい部分としては、イエス様こそが、神様と我々をつなぐ、唯一の存在だ、ということにペテロは、彼なりの判断で近づいているように見えるからです。実際の所、ヘブライ人への手紙では、イエス様を、聖所で働く大祭司に譬えた箇所があります。けれども、イエス様が地上に来られたのは、このようにして、地上の幕屋において神様の臨在を実現するためだったのではない、という点ではペテロの見立ては間違っています。それこそヘブライ書には「キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。」という言葉があるからです。神様の救いのご計画が実現するためには、イエス様は、死を通り抜けて、再び来られることが起きなければならない、とヘブライ書は語っています。このような正しい道筋に対する視点がやがて弟子たちに与えられます。そして私たちが目指しますのもまた、このような視点を得ていくことです。
天は去っていくが
ところで、この個所では、ペテロの提案は、神様のご栄光の充満という驚くべき状況によって斥けられていました。34節に「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。」とある通りです。雲は、出エジプト記などを見ましても、神様の栄光を表す存在ですが、しかし、人間はこのような神様の栄光に直接包まれることには耐えられません。弟子たちもまた、この所では、ただ恐怖だけを感じています。そしてこのこともまた、続く言葉と合わせて、わたしたちが、どうしたらよいのかを示す役割を果たしているのです。すなわち、私たちは、直接神様に無謀な仕方で近付いていくのではなく、あるいはそれは全く不可能なので、そうではない道筋が必要なのですが、そのような道筋は、ただただ、イエス様によって与えられるという事実です。
イエスは残る、神の選び
今日はもうあまりこのところについて詳しくお話しする時間はありませんので、大切な二つのことを確認します。一つは、ここでイエス様について「これは私の子、選ばれたもの」とあることです。当たり前と言えば、あまりに当たり前のように思えますが、イエス様こそが、神様の独り子であって、同時に、私たちにとって神様との懸け橋になるために、選ばれた方であるという決定的な事実が示されています。神様のご計画にはイエス様以外のものはないのです。そして私たちに対して、このイエス様に聞き従うように、との命令がすでにこの段階で語らているのです。私たちを惑わすものは、多くあります。生活のあれこれ、戦争や、経済的な不安、数え上げればきりがありません。しかし、私たちが絶えず意識を向けるべき方は、ただお一人だということがこのところで示されてます。それは、36節の「そこにはイエスだけがおられた」という言葉に端的に現れています。
イエスに聞き従う
ところで、とても不思議なことに、この36節の終わり方は、弟子たちの沈黙を告げています。彼らは、見聞きした目の前の出来事について、他の人たちに語ることができなかったというのです。それは彼らの中でなお、体験したことの意味がよくわからなかったからでしょう。しかし、この弟子たちもやがて、すべてが、実現した後、すなわち、イエス様の十字架の死と復活の後では、雄弁にこの時のことを語るものに変えられていきます。私たちもまた、同じではないでしょうか。私たちがもし、まだ、ぼんやりとしかイエス様のして下さったことが見えてこないのであれば、さらにイエス様に聞く必要があります。そしてイエス様に聞き続けるのなら、必ず目が開かれる時が来るのです。「当時誰にも話さなかった」ということを、笑い話のようにできる日が来るのです。その時には、私たちの中のイエス様とはこういう方だ、という知識は、本物の生きた知識となって私たちの口を動かし、私たちの生き方を導くようになるのです。
祈り
父なる神様、あなたは、独り子である主イエスにおいて、ご自身の救いの御業を完全に成し遂げてくださいました。それは、すべて私たちがあなたの子とされてるためでした。今こそ、私たちが、あの十字架こそ私たちのためのものであったという事実を自分のこととして受けとめられますように、そして、主イエスのして下さったことのすばらしさを心から喜べますように目を開いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。