毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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「神が用いるなら」
モーセは動かない
久しぶりに出エジプト記を読みます。前回は3章の後半を読みました。神様がモーセをエジプトに派遣して、ファラオと交渉をし、イスラエルの民をエジプトからあたかも勝利者のようにして導き出す、という力強い約束が語られていました。それで、モーセは喜び勇んで、と続くかと思いきや、今日のところでは、相変わらず心配をしているという様子から始まっています。不安なのです。それもエジプト王に対してもそうでしょうが、それ以前にイスラエルの民に対する不安が強いように見えます。その意味では今日のところはスカッとした話ではないのです。けれども、ここにこそ私たちが耳を傾けるべき、現実の人間の姿があるようにも思えるのです。ですから今日はぜひ、心配するモーセと神様とのやり取りをしっかりと味わいたいのです。
民への恐れ
そもそも、この書き出しは特徴的です。「モーセは逆らって」です。もっともこれは新共同訳だけで、他の主な訳はみな「モーセは答えて言った」といった訳になっています。とはいえ、確かにこのところでモーセは、神様の約束の言葉を信じられずに、むしろ自分の不安を言いつのっていますので、「神様に言い逆らっている」と言えなくもないのです。そして彼の不安の中心は、イスラエルの民が自分を「信用せず、…言うことを聞かない」であろう、という点です。ここですでにこのところの問題点のちゅしんが明らかになります。それは、モーセが他の人たち、具体的にはイスラエルの民たちから信頼されるかという問題が、同時にモーセが神様の言葉を信じられるかという問題とつながっているということです。このモーセの不安、自分はきっと信頼されないだろうという暗い見通しは、この所までの神様の力強い約束の言葉によっても変わらなかったと言えます。彼のこの暗い見通しはリーダーとして致命的と言えます。なぜ、これほど、イスラエルの民に苦手意識を持っていたのか、本当のところはわかりませんが、彼はある意味では人嫌いのようにも見えるのです。そしてこれは私の想像ですが、モーセ自身の若い時の経験が心の傷になっていたのではないかとも思えるのです。以前読みました2章の始まりでは、モーセが成人したころに、仲間のためだと思ってヘブライ人を助けてエジプト人監督を殺してしまった、ということがありました。ところがその後、ヘブライ人同士の喧嘩を仲裁しようとしてかえって逆恨みを買い、殺人を密告されてエジプトにいられなくなった、ということがありました。これは少々読み込みすぎかもしれませんが、このような体験もあってモーセはイスラエルの民を本当の仲間とは思えない、そのような不信感を持っていたのかもしれない、というように想像してみることもできるかもしれないのです。
神は聞かれる
ところで、この所で特徴的なのは、このようなモーセに対して、神様は、彼を否定しないという点です。もちろん、この後、ああでもない、こうでもない、と言い募るモーセに対して、最後は怒りを発せられる(3:14)ということになっていくのですが、しかし、そうはいっても神様は、終始モーセを斥けないのです。むしろ、神様の言葉に信頼しきれないモーセの、ああでもない、こうでもない、という言葉を丁寧に聞いて、それでもなんとか励まそうとして、しるしの話をしているのがこのところです。その神様の最初の言葉は、「あなたが手に持っているものは何か」です。もちろん、神様はそれが何かわからないから聞いているのではありません。モーセが手に持っているのは羊飼いの杖です。それ以外ではありません。その最も身近でありふれたものが、特別な役割を果たす、というのがこのところで語られることの中でも、とても大切ではないだろうかと私は考えているのです。それは後で確認しますが、このところでは三つの魔術的なしるしについて神様が語られます。実は、このような魔術というものは、どちらかと言いますと、エジプト的なものです。実際にもう少し後、モーセがファラオと対決していく中で、エジプトの魔術師たちがファラオに呼び出されて、モーセと同じようなことを行う、という場面があります(7:11等)。
魔術?しるし?
その意味では、どうもこのような魔術を神様がモーセに現れたことのしるしとする、というのはなんとなくしっくりこないような気がします。しかし、たぶん神様は、このようなしるしといったものに、限界があることを知っておられるはずです。そもそも、このような魔術的なしるしによっては、イスラエルの民も、また、ファラオも神様を信頼することはありませんでした。そしてモーセ自身も、この時、杖を投げてそれが蛇に変わったのを見て思わず「飛びのいた」(3節)という経験をしているにもかかわらず、今日の一つ後の10節を見ますと、「自分はふさわしくない」と言い出しています。説得されていないのです。私たちは、神様の力がわかりやすく表れてくれれば、伝道なんてらくちんなのに、神様がおられることがはっきりするのに、と思っているところがあるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。ルカによる福音書の金持ちとラザロのたとえ話の終わりはこうでした。地獄に落とされた金持ちの男は、天国のアブラハムに言います。「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』」しかし、アブラハムは言います。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:30-31)。
問題の中心は信頼
この話で注目したいのは、アブラハムの最後の言葉は「聞き入れはしないだろう」という点です。これは、いうことを聞く、言葉に信頼する、という意味で間違いありません。そして、実は、今日のところでモーセがずっとこだわり続けていること、不安を持ち続けていることこそ、この点です。自分が語る言葉が信用されるのか、です。それは、モーセ自身が民から信頼されるか、と言い換えられます。人は、信頼する人の言葉なら聞くし、そうでなければ、どれほど素晴らしい演説でも受け取りません。しるしの限界もまたそこにあります。確かに、信じがたい奇跡が起これば、神様がいること自体は、動かしようのない事実だと、誰もが認めるかもしれません。けれども、たとえ神様がおられることを認めても、それを私の神様として信じる、私を愛してくださる方として信頼する、ということとは全く別の話です。そして実は、この神様との信頼関係は、いつでも、このところのモーセのようにして、神様の前で、でも、やっぱり、ということを正直に言い表して、神様から、その時にはしるしを、と言われて、それでもだめなら、もう一つのしるしを、といわれ、更にだめならまた別のしるしを、というような、回りくどい話を続けていくこと自体の中でしか、手に入らないかもしれないのです。
神も認める不信仰
その点をもう少し詳しく見ていきます。この所では、神様ご自身の言葉において、人間の信仰と不信仰が繰り返されていることに気が付きます。5節はこうでした。「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」主があなたに現れたことを信じる、すなわち、モーセが神様によって派遣されていること、神様の権威をもって活動していることに信頼する、というのですが、しかし、この後すぐに神様はもう一つの奇跡の業をモーセに行わせています。そして、その後8節はこうでした。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。」。「こうすれば民は信じる」と言われたその舌の根も乾かないうちに、神様ご自身が、それでも信じないなら、というのです。最初のしるしが役に立たないことがありうるというのです。そして、後のしるし、すなわち、手が皮膚病に変わり、また元に戻るしるしは、信じるだろうと言います。ところがその直後では「しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、」と言われるのです。これなら信じる、と言われた後で、しかし、それでも信じないなら、という繰り返しになっているのです。
揺れ動くモーセ、揺れ動く民
そして、これらの言葉を聞いたモーセもまた、この後、10節では、しかし、と言って語りだすのでした。神様に語り掛けられても、神様になだめすかされても、なお、自分が信頼されるとはとても思えない、というのです。すっきりしないのです。覚悟が決まらないのです。しかし、ここに真実があるのではないでしょうか。神様の派遣は、このようにまことに頼りない人を通して始まるのです。そして、まことに頼りない民、ある時には、神様を、そしてモーセをあがめ奉り、ある時には、神様につぶやき、モーセを責めて責め抜くような民、これが神様の民の現実と言えば現実なのです。しかし、たとえそうであっても、神様はモーセに働きかけることをやめられないのです。そしてそれは、イスラエルの民に働きかけることをやめないということを同時に意味します。これは、実は私たちにとっても同じです。まことに不安定な牧師を通して、こういっては失礼ですが不安定な民に神様は語り掛けられるのです。そして、それをやめられないのです。むしろ、この語り掛けを続けていかれるのです。これからもずっと続けていかれるのです。
必要なのは神の説得
その意味では、私たちがどうしても間違ってはいけないことが一つだけあります。それは、この聖書と向き合うことをやめない、聖書に聞くことをやめない、より具体的には礼拝に出ること、礼拝においてみ言葉に触れることをやめない、投げ出さないという全く単純な営みを続けることです。なぜなら、わたしたちが聖書に聞き続ける限り、神様の説得の言葉が私たちに語り掛け続けるからです。わたしたちが、あれが足りない、自信がない、やっぱり無理だ、と根を上げてしまうその言葉に対する神様の答えが、み言葉によって与え続けられるのです。そしてこの言葉のやり取りこそが私たちを作り替えていくのです。
杖は神の杖?
そして最後に確認したい言葉があります。それは、今日の所から少し後、20節にあります。そこに「神の杖」という言葉が登場します。これは、おそらく、今日の最初のところで神様が「あなたが手にしているものは何か」と問われ、モーセが「杖です」と答えた、何の変哲もない羊飼いの杖です。しかし、その何の変哲もない杖が、この所では「神の杖」と呼ばれています。それを手に取って出発するように命じられています。なんでもない杖でも神様が用いてくださるのなら、それは「神の杖」なのです。同じことは私たちにも言えるはずです。私たち一人一人はまことに頼りないものであるかもしれません。けれども、わたしたちが、神様からの言葉を聞き続けている限りにおいて、私たちは神様の民です。
神が用いるなら
私たちはとるに足りないものです。私たちは、いつも疑い迷い、心の定まらないものかもしれません。けれども、その私たちにこそ神様は語り掛けてくださるのです。それは神様が私たちを用いるためです。そして、私たちは神様に用いられるのなら、間違いなく神様の民として歩んでいくのです。
祈り
主イエス・キリストの父なる神様、あなたのみ名を賛美いたします。あなたは、私たちがどのようなものであるのかをすべて知っていて下さり、その上で私たちに語り掛けてくださいますから感謝します。また、それだけではなく、私たちをねんごろに取り扱い、その御手によって世に派遣されます。どうぞこの週もあなたの顧みを覚えて、また召し出しを覚えて力強く歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。