毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ヤコブ1:9-11 「低さの喜び」
つながり?
今日のところは大変短く3節だけです。ただ内容としてはやはり独立しているように見えます。さらに言えば、どうも前の所とはつながりが悪いようにも思われます。2-8節では試練が問題になっていました。そして、この直後の12節を見ますと、「試練を耐え忍ぶ人」という言葉が登場します。大変よくつながります。ところがその間の9-11節は、貧しい兄弟と、富んでいるもの、という全く別の話をしているように見えるのです。では、これは全く別の話なのか、と言いますと、どうもそうとも言えないようなのです。
二項対立
そこであえて、2-8節と、9-11節の似ているところを見ますと、どちらも、二つのあり方が比較されていると言えます。前の所では試練の中で忍耐して信仰に生きる人たちと、どっちつかずに揺れ動いて不安定な人たち、二心の人たち、という対比がありました。今日のところでは、すでに触れました通り貧しい兄弟と、富んでいる者、という対比です。どちらも、神様の祝福を受けるものと、そうではない者の対比がされているように見えます。しかし、そこで、少し注意したいことがあります。それは、10節の前半をどのようにとるのかです。10節は明らかに9節の続きとして書かれています。特に「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」という部分は完全に9節と対の関係になっています。そこでなおはっきりとさせたいことがあります。ここでは、「誇りに思いなさい」という言葉が9節と一緒ということです。どちらも「誇る」のです。しかし、10節後半と、11節を見ますと、どうも、富んでいる者は、だいぶ分が悪い、というより悲惨な末路をたどる、と書かれているように見えます。何しろ、道半ばで消えてしまう、と断言されているのですから。しかし、そうであれば、この富んでいる者に対する「誇りに思え」という命令は何なのか、となります。これを単なる皮肉、とみる解釈もあるようです。しかし、わたしはどうも違うのではないかと考えています。ではどういうことなのかについて今日は一緒に考えたいのです。
富んでいる者は滅びるのか
そもそも、この所で書かれております断定的な言葉、すなわち、富んでいる者たちが草花に譬えられ、11節はイザヤ書からの引用のようですが、太陽と熱風によってたちまち枯れてしまう草花のようだと言い、人生の道半ばで消えてしまう、というように決めつけられています。けれども、これは二つの疑問があります。一つは、そもそも、富んでいることや貧しいことは、単純にどちらかが良いとか悪いとか言えるものか、ということと、富んでいる者がいつでも必ず滅びる、という断定はだいぶ私たちの敬虔とずれているのではないか、ということです。例えばヨブ記にこんな言葉があります。「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き/その末を目の前に見ることができる。」(ヨブ21:7,8)。有名なヨブと友人の対話の個所です。ツォファルという友達が、神様は正しい裁きをされる、と指摘したのに対して、ヨブは上のように、いや、そうとばかりは言えない、神様に逆らっているように見える人が地上の幸福や富を手に入れて全く確かそうにしているように見える、と反論しています。ヨブは、富んでいることが祝福のしるしではないし、貧しいことが呪いのしるしでもない、と言いたいのです。ではその逆に、富んでいることが呪いで、貧しいことが祝福というのは成り立つのでしょうか。
お金の力
そのことを考えるためにひとまずお金について考えます。そもそも、私たちはお金が好きでしょうか。あまり考えずに好きか、嫌いか、と訪ねられたら、思わず「好き」と言ってしまいそうです。では何でお金が好きなのでしょうか。お金があるといろいろなことができるように思えます。お金は力ということもできます。力があるのは楽しいことです。何かの本で読んだのですが、小さな子どもが初めて遊び始める時、例えばボールを転がす、という単純なことを熱心に行うようです。遊びの本質は、自分が何かに働きかけて、それで外側の世界の何かが変化することにあるそうです。すなわち、自分が外の世界に何かの影響を与えた、というところにそもそも、この上ない楽しみを感じる、そこに喜びがあるのです。そして、お金はそのような喜びを簡単にかなえてくれるように思えます。私たちは、お金がたくさんあれば、より多く世界に影響を与えて、より良い気分になることができると思ってしまっているのかもしれません。実際の所、あれを買って、今度はこれを買って、更には旅をして、おいしいものを食べて、といったことが、多くの場合私たちの遊びになっています。そしてそれ自体は悪ではないように思えます。
富んでいることは悪いのか
では富んでいる者、現代においては、お金をたくさん持っている人たちが、なぜ問題にされているのでしょうか。おそらく結論から言いますと、富んでいることが、直接悪かどうかは微妙ですが、というのも、神様はヨブの財産を二倍にされましたから(ヨブ42:10)。しかしたとえそうであっても、多くの問題の根が、富んでいることから発生してくるとは言えそうだからです。そしてそれは、何も、私が勝手にそのように考えているというのではなく、むしろ、聖書の伝統であり、イエス様の語られた言葉によっても、そのような箇所を何か所も取り上げることができるからです。例えばイエス様は、山上の教えで、「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われ、さらに、金持ちの青年を見送った後で「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(同19:24)と言われました。ではこれらの言葉が示しているのはどのようなことでしょうか。先ほど、お金があればたくさん遊べる、ということをお話ししました。けれども、そのように楽しく遊び歩くことによって、大切な何かが抜け落ちてしまうことがあるようです。
金持ちの問題点
例えばルカによる福音書の金持ちとラザロのたとえ話の始まりはこうでした。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」(ルカ16:19-21)。この金持ちは決して悪い人ではありません。有り余るお金に物を言わせて、楽しく遊び暮らしていたのです。そして、門の前にい続けるおそらくは薄汚い恰好をしていたであろうラザロに対して、特に意地悪をしたわけでもありません。食卓から出る残飯をラザロがあさることに目くじらを立てたり、追っ払おうとしませんでした。ただ決定的にこの金持ちにかけていたことがあります。それはラザロに対して心を開く、人としてなすべき関心を寄せる、そのような意味での憐れみの心を働かす余地がいくらでもあったはずなのに全くそれに気づかなかったことです。なぜでしょうか。それは、遊ぶのに忙しかったからです。毎日楽しく過ごしたのです。精一杯遊んだのです。そしてそれだけだったのです。すぐ横に困窮している人がいることそのものが目に入らなかったのです。
他人事ではなく
そしてこのことはおそらく、他人事ではないのです。私たちもまた、このような意味で、自分のことにかかりきりになってしまっているかもしれないのです。それも、多くの場合、自分が少しでも楽に生きられるように、楽しく生きられるように、せわしく、せわしく働き、遊び、すなわち、お金を得て、それを使う、ということの繰り返しに没頭しているなかで、周りを落ち着いて、信仰者らしい視点で、見ることが出来なくなっているかもしれないのです。しかし、そのようにして、わたしたちが、そのようにして、自分の手の内にあることだけにのめりこんでいくとするのなら、そこには神様と、そして隣人を愛するといったことが入り込む余地は限りなく少なくなっていくのです。しかし、そこで思い出したいのですが、お金で命を買えるのでしょうか。イエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)と言われました。実際の所、どれほどお金を積んでも、寿命をわずかに伸ばすこともできません。実は私たちは、いずれにしても、神様と無関係に生きている限り「人生の半ばで消え失せる」しかないものです。
実は二心に通じる
そこで重要なのは、神様と関係があるかないかという部分です。それは、前の段落の8節で言われていたこと、心が定まらない、あるいは別の訳では「二心」であること、ある時は、神様、神様、と言い、ある時は、「神様なんか信じられない」と言うような態度、頼りになるのは、自分だったり、仕事だったり、それこそお金だと思ったりする、そんな状態と同じです。実は今日の所と、前の段落の言葉とは、この意味で、つながっているのです。お金を持ち、お金に気を取られていることと、信じると言いながら、神様を疑い、自分に頼って生きることとは、どちらも、実は人生の中に神様がいないという意味で同じことなのです。それゆえ、問題は、本気で神様と向き合えるかどうかです。一つ前のところの言葉で言えば、「いささかも疑わず、信仰をもって願う」そのようなものでいられるかどうかです。
しかし、低くされる
しかし、それもまた、私たちは、自分の力だけではどうにもならないのかもしれないのです。けれども、一つだけ確かなことがあります。それは、10節前半の言葉です。「富んでいる者は自分が低くされることを誇りに思いなさい」。ここではっきりとしていることがあります。それは最初に立てた問の答えです。なぜ、富んでいる者は、あるいは富んでいる者も、貧しい兄弟も一緒に「誇りに思う」ことができるのでしょうか。それは、とっても単純なことですが、富んでいる者も低くされるからです。貧しいものと同じ立ち位置へと、神様によって低くされうるからです。謙遜にされるからです。隣人の貧しさに、その乏しさに一緒に立つものに変えられうるからです。
低くさの喜び
そして、もし私たちが誇るべきことがあるとすれば、この低いところで、神様に頼って生きる、神様と一緒に生きることができることについてです。もちろん、低さの中に生きるのは、場合によっては楽しくなく、むしろつらく、権利さえも損なわれるように思えることすらあるかもしれません。しかし、神様によって低くされ、その低さの中に生きる時にこそ、私たちは、あの低くされたイエス様との一致という喜びの中でほこりをもって生きるのです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、あなたによってえらばれ、あなたの子とされていますから感謝します。そのような私たちの人生は、あなたの御子イエス・キリストの低さと共にある人生です。どうぞわたしたちが、あなたによってみ子と結び泡褪せてくださっていますから、その事実を誇り、そしてイエスと共に低さの中で、愛し合って生きられますように。この週のあゆみにもあなたのみ旨がなりますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。