毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ヤコブ1:1-8 「神の言葉と歩む」
ヤコブ書を読む
2月の最初の礼拝となりました。この後3月になりますと、レント、イエス様の受難を覚える季節に入ります。その間といいましても、今日と来週とになってしまいますがヤコブ書を読みます。少々珍しいところです。ルターはこのところを藁の書と悪口を言いました。それはここでは一見しますとキリスト者としての信仰よりも行いが問われているように見えるからです。特にこの所では、完全という言葉が出てきます。完璧な信仰者などというものがあるのだろうか、と思わなくもありません。そのあたりを含めてさわりの部分で終わってしまいますが、改めてこのヤコブ書を、今私たちに必要な言葉として読みたいのです。
12部族?離散?
ところで、このヤコブ書も手紙としての挨拶が短く記されています。ただ、少々不思議なのは、イスラエル12部族の人たちに挨拶する、とあるところです。そうしますと、これは、イスラエルの人たち、ユダヤ人である人たちだけにあてた手紙なのか、と思ってしまいそうです。ひょっとしたら、そのようないわゆるすみ分けのようなことが意識されていた可能性はたしかにあります。例えばパウロの書いたガラテヤ書を見ますと(2:9)、エルサレム教会の主だった人たち、すなわち、ヤコブ、ペテロ、ヨハネは、割礼を受けた人たち、すなわちユダヤ人へ、パウロとバルナバは異邦人へ、それぞれ福音を伝えることで合意した、といったことが書かれています。しかし、この所はもう少し別の意味を読み取れるかもしれません。それは、マタイ19章の言葉によってです。イエス様が、ペテロに将来何をもらえるのか、と尋ねられた時、あなたたちは12の座に座ってイスラエルの12部族を治めるものになる、と語った箇所(マタイ19:28)があります。これは、新しい天と地と呼ばれている状態、この世界の完成の時のことを指しています。そこにおいては、イスラエルも新しくなって、使徒たちはそのリーダーになる、という話です。そうしますと、ここで言われている12部族とは、この意味で私たち異邦人を含んだ新しいイスラエルのことと言えます。
喜びこそ
さらに、ここでは離散のとあります。これは、本国以外に住んでいる人たち、です。外国に借りぐらしをしている人です。実はこの仮ぐらし、という言葉もまた、キリスト者を指します。「私たちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)という言葉がフィリピ書にあります。キリスト者はこの地上では仮ぐらしのもの、終末の完成を目指して、今は、離散のものとして暮らしていく、という意味にも取れます。そうしますと、これは、ヤコブから私たちを含んだすべてのキリスト者への挨拶と勧めだ、というようにも読めるのです。あるいは、むしろそのように、私たちへの言葉として受け止めたいのです。そしてこの最初のところでまず目を止めたいのが、挨拶と訳された言葉です。これは、元々は、喜び、という言葉です。それがそのまま、ごきげんよう、という意味を持っています。それがさらにここでは「挨拶」と訳されています。それと対応するのように、2節では「この上ない喜び」という言葉が登場します。そこで私たちも、このヤコブ書の目指すところはまずこの「喜び」だというように理解したいのです。ヤコブ書が目指しているのは、私たちキリスト者が、喜んで、満足して日々を過ごしていくとはどういうことなのか、どうすればよいのか、ということを教えようとしている、そのように読んでいきたいのです。そして、そのための目標もすでにこのところにはっきりと書かれています。それは、4節にある言葉です。「完全で申し分なく、何ひとつ欠けたところのない人」です。ヤコブはわたしたちが、信仰者として生きていくと完全無欠なものになれる、このように言っているのです。
完全なものとは
しかし、そもそも、私たちは、本当に「完全なもの」になれるのでしょうか。キリスト教信仰の最も基本的な言葉に、罪、罪人があります。私たちは誰でも、罪があるという意味です。その点で私たちは、誰も、完全ではなく、もし、その意味で完全な存在があるとすれば、それはイエス様だけです。そうであれば、私たちは、そもそも、完全なものにはなれないはずです。しかし、ヤコブは、何ひとつ欠けたところのない完全な人になると言います。この手紙において、あなたたちは完全なものになれると、言いきっているのです。さらに言えば、イエス様もまた、山上の教えの中で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)と言われました。これは、さらに上を行く言い方です。キリスト者は、天の父のように完全であるように、と言っておられるからです。では、このようにイエス様が語られ、ヤコブもまた勧めている「完全になる」とは、いったいどのような状態を指しているのでしょうか。私たちは、本当に完全なものになれるのでしょうか。実は今日はっきりとさせたいのは、このことです。私たちが完全であるとは、いったいどのようなことを指しているのかです。
不完全さとは
そこで手始め手に一つの言葉を確認します。このヤコブの手紙では、完全さと矛盾するようですが、「あなた方の中で知恵の欠けているもの」ということが5節で言われています。そもそも、この場合の「知恵」とはおそらく、あらゆることを正しく判断する、という意味だと思われます。歴代志を見ますとソロモン王が神様に何を望むか、と尋ねられて正しく判断する知恵を(歴代下1:10)、というところがありますが、そのような知恵です。しかし、重要なのは、ここではキリスト者には欠けがある、と言っていることです。そうしますと、私たちは、基本的に欠けがあってもよい、となるはずです。むしろ、この欠けを認めることが大切です。そして、わたしたちがもっとも自分の足りなさを感じるのは、順調な時ではなく、むしろ、苦しい時です。そこで、よくよく注意をして読みたいのが、このところの2節の言葉です。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」試練とは、そもそもあまりうれしくないことです。思いがけず困ったことに、それも、すぐに解決しない問題にぶつかる状態です。どうしていいかわからず、強いストレスにさらされ続けるような時、ああ自分には知恵がない、解決の力がない、という時にヤコブは「この上ない喜びと思え」と言います。もちろん、これは、意地悪を言っているのではありません。本当にそう思うから、そう勧めているのです。では、なぜ喜ぶのでしょうか。実は、そのようにして、大変困ったときに見えてくるものがあります。では、大変な時に私たちが見えてくる現実とは何でしょうか。
試練の中で
このところの後ろ部分、6節以下で語られている言葉に注目します。少し長いのですが、6節後半から8節までを読んでみます。「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」。ここではいくつか特徴的な言葉があります。それは、疑う者、海の波、心が定まらない、安定を欠く、といった言葉です。これらはありのままの人間の姿を鋭く描き出しているように思えます。格好をつけても仕方がありませんから、正直にお話ししますが、私自身の若いころを振り返りましても、ほぼ、これらの言葉がそのまま当てはまる気がします。あるいは、今現在であっても、自分自身が絶えず変わっていっていることを感じないではないのです。風に吹かれてという言葉があります。周りの影響によって、昨日と今日と明日で考えることがいつも変わっていく、ということです。その場合に、変わること自体が悪いというよりは、思いが定まらないというところが問題です。
自分が欠けていることを知る
聖書に「心が定まらない」とある通りです。これは以前には「二心」と訳されていました。右からの風に吹かれれば右に、左からの風に吹かれれば左に、まさに安定を欠いている状態です。そのように、あれこれと計算して、自分で何とかしようと右往左往している人には、知恵は与えられない、というのがこのところの結論です。大変厳しい言葉です。しかし、実は、このこと、すなわち、自分がいつもふらふらしていて、ああでもない、こうでもない、とやっていく先に、ついに自分には物事を正しく見通す判断力が決定的にないことを知る、それがチャンスだ、とヤコブは言いたいようなのです。私たちにとって大切なのは、自分は大丈夫で、いつも正しく判断出来て、強い信念に基づいて、賢く生きていくことができる、と思っている自分が実はどうもそうではないかもしれない、という現実を知ることです。なぜそれがチャンスなのかといいますと、それは単純なことで、自分が持っていないということを認めて初めて、神様に祈るようになるからです。自分が信じられないことを納得して初めて神様だけを信じる道が開かれるからです。5節をもう一度読んで見ます。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」自分は知恵が欠けている、これに気づくことが実は完全な者への始まりです。
神は気前が良い-試練はチャンス
しかし、ここでは、もう一つ大切なことが語られています。それは、神様は大変気前のいい方だ、という事実です。とりわけ「惜しみなくとがめだてしない」というところが大切です。私たちは、例えば自分の子どもが失敗したりして、助けを求められると、ほら、言わないことではない、などといって、小言を言いながら手を貸す、というようなところがあります。しかし、神様は、そうではないというのです。わたしたちがどれほど失敗しようと、助けてください、と祈れば、無条件で、物惜しみせず、一途に私たちのために、手を貸してくださるというのです。ただし、その場合に一つだけ大切なことがあります。それは、疑わないことです。6節に「いささかも疑わず、信仰をもって祈りなさい」とある通りです。そして、この疑わない信仰は、すでに先ほども確認しましたように、試練の中でこそ造り上げられるのです。あれもダメ、これもダメ、自分で何をやってもダメ、という中で、神様にかけていく、神様に頼りぬく、という姿勢が生まれるのです。3節に「信仰が試されることで忍耐が生じる」とある通りです。どこまでも信頼して忍耐していく力、そこに私たちの目指していく完全さの土台があります。
神の言葉と歩む
それで、2節の言葉に戻ります。「試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」この意味はもはや明らかです。私たちは、試練を通して忍耐力と、信仰と、そして知恵を獲得していくのです。もちろん、試練自体は簡単なものではなく、うれしいものではありません。横から見ていて簡単に我慢しなさい、と言えるようなものではありません。喜べ、と強制できるものでもありません。しかし、たとえそうであっても、私たちは、試練を通して、試練の中で祈ることで、神様と共に歩む完全なものへとたしかに変えられるのです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、あなたによってえらばれ、あなたの子とされていますから感謝します。あなたは愛する子を試練によって鍛えられると、聖書にあります。わたしたちが、子のみ旨を覚えて、忍耐強く日々の業に取り組むことができ、また、そこにおいても全くあなたに信頼して、知恵をいただいていくことができますようにお守りください。この週のあゆみにもあなたのみ旨がなりますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。