毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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コロサイ3:12-17 「現れている恵み」
すでに新しい
今日は礼拝の後で会員総会を予定しています。コロナ対策として短く行います。感染拡大でなかなか大変な中ですけれども、こうして教会の営みが守られていることに感謝を覚えます。教会は生きています。神様と一緒に生きています。今日は、特に今年の目標聖句であるこのコロサイの信徒への手紙を一緒に読みますけれども、そこで確かめたいのは、わたしたちが今すでに神様と一緒に生きていて、それは礼拝を中心に回っている、この事実です。それが単に教会の教えの上ではそうだ、というレベルではなく、本当にそのように生きているということを確かめたいのです。
愛されているものとして
そもそも、このところの前提として、実は今日は読みませんでしたけれども、一つ前の段落は重要です。そこで何が言われているのかといいますと、古いものから新しいものへの転換です。それは何も時代がどうとか、持ち物がどうとかいう話ではなく、むしろ、私たち自身が古いものから新しいものになっている、という話です。例えば、5節には「捨て去る」とありますし、8節にも「捨てなさい」とあります。古いものを捨てるのです。古い生き方を捨てるのです。9節ではまさに「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」とあります。私たちは、キリスト者になったなら、イエス様を救い主として信じて、洗礼を受けたなら、すでにこのことをしているというのです。古い人を脱ぎ捨てて、それでどうなったのかといいますと、10節にあるように「新しい人を身に着け」たのです。さらに「日々新たにされ、真の知識に達する」と続きます。このようなところを読みますと、ちょっと楽観的すぎるのでは、と思われるかもしれませんが、私たちは、先に先にと、ただただ、良い方向に変えられていく、これがそもそものキリスト者の生き方です。そしてそのような日々の暮らしを導いていくのはイエス様です。「キリストがすべての者の内におられるのです」とあるのは私たち信じるものであればだれでもそのうちにイエス様がいて下さるという意味です。
責めるべきこと?
そうしますと私たちキリスト者は、どんどん新しくされて、よりよく作り替えられていく、そんな嬉しい希望に生きていく、ということになるはずです。しかし、そのことは、安楽に、オートマティックに、ただ、ボーとしていても、あるいは、ただただ自分のことにかまけていても、勝手にそうなっていく、ということとは違います。確かにこのところでは、私たちは、神様に選ばれたもの、聖なるものとされていると、12節の最初に書いてあります。このことは全く事実その通りで、私たちの罪がどれほどであっても、間違いなく、イエス様によって新しく作り直してしていただくことになります。しかし、そのように私たちは「愛されている」者ですが、それゆえに、愛されているものなのだから、「憐れみの心」以下、愛されているものにふさわしいありかたを身に着けるようにと、12節の後半で言われています。それだけではなく、13節を見ますと、驚くべきことに、「互いに忍び合い」とあります。我慢するのです。さらに、責めるべきことがあっても、と続きます。これは、何か問題がある、実際に問題が持ち上がる、という意味です。責めるべき、責められるべき具体的な問題行動が、教会の中で持ち上がるのだ、というのです。この点でパウロは、夢見がちな理想主義者ではありません。教会の現実をよく知る人です。しかし、その現実を知ったうえで、教会であることをやめない、というのです。むしろ、この現実を利用してより教会らしくなってやろう、というのです。
赦しを知るほどに
より教会らしくなる、とは15節の最後の方にある「一つの体にされている」というあり方です。私たちは、それぞればらばらであるのなら、それはすでに教会ではないのです。むしろ、色々問題がある中で、一つの体をしっかりと形作っていくように招かれているのです。しかし、そこで大切なのは、このような一致、というものは、わたしたちが、努力をして、ぐっと我慢をして、あるいは、とりあえずその場を取り繕って、一致があるふりをする、というようにして守るものではありません。でも、パウロが「互いに忍び合い」と言っているじゃないかと思われるかもしれません。たしかに、その通りです。しかし、パウロは、それにつづいて、赦し合いなさい、と続けた後で、その赦しの根拠として、「主があなた方を赦してくださったように」と言います。わたしたちが、もし兄弟姉妹同士赦し合うことができるとしたら、それは自分の力ではない、というのです。むしろ、そこで大切なのは、自分が赦されていることへの気づきだ、というのです。自分が本当に多くの赦しを受けている、このことへと目が開かれていくと初めて、私たちは、新しい人として生きられるようになっていく、このような順番なのです。それを言い換えたのが、14節の「愛を身に着ける」という言葉です。愛というのは、抽象的なことではないのです。仲間を仲間として、受け入れ赦すことにおいて実際に形になっていくのが愛です。そのためにキリストの平和が支配するように、とさらに続きます。
キリストの言葉
では、わたしたちが、キリストの平和に支配される、とは具体的に、どのようにして成り立つのでしょうか。実は、それは、この礼拝において実現します。と言ってもピンとこないかもしれません。16節に大切な言葉があります。それは「キリストの言葉があなた方の内に宿るようにしなさい」とありますところです。では、イエス様の言葉が、私たちの間に宿る、とはどのようなことでしょうか。わたしたちが、それぞれに一所懸命、例えば福音書にしるされた、イエス様の言葉を暗記する、ということでしょうか。それも無意味ではないかもしれませんが、ここで考えられているのは、別のことだと私は考えています。それは、この続きの言葉です。「知恵を尽くして互いに教え、諭しあい」という部分です。教え、諭しあい、というと、なんとなく互いに相手を批判し合っている、君、こうしなくちゃ、と言い合っているような感じがしなくもありません。しかし、この所は別な理解もできます。むしろ、私が考えているのは、例えば今このところで行われていることです。今、パウロの勧めの言葉が読まれています。まさに、私たちは、パウロの言葉によって諭しを受けている、と言えるのではないでしょうか。
礼拝において議論する
とはいえ、そんなことを行っても、話しているのは牧師さんでしょう、私たちは、一方的に聞いているだけじゃないですか、と思われるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。礼拝においては、牧師が一方的に高いところから、べしべしと語って、信徒は一方的に聞く側で、お説教を押し付けられてじっと我慢する、というのではすでにして礼拝でも、説教でもありません。いや、そもそも、この場を支配しているのは、私でしょうか。皆さんでしょうか。それでこんなことを考えてみます。今、講壇からは、皆さんがどんな様子か、とてもよく見えます。皆さんが実際の所、心の奥底で実際に何を考えられているかはもちろんわかりません。けれども、著とした所作、を見ますと、ああ退屈しているな、あまり聞きたくないのかな、ですとか、よく聞いてくれているな、納得してくれているな、という感じは講壇で語っている側にも感じ取れます。そして、うまくいけば熱を込めて、うまくいっていなければ、何とか改善しよう、とするものです。その意味では、語るものが語って、聞くものが反応を返して、そうしてキャッチボールをしていくのが説教です。このことが大切です。実は説教というのは、牧師が勝手にしゃべって終われるものではありません。むしろ、牧師が語って、それが聞かれて、聞いた人の中で何かが起きる、もっと言えば、イエス様の言葉が働く、というのが本来の説教であり礼拝が目指すところです。
説教で互いに立て上げる
その意味では、説教も礼拝も、お互い様の世界です。牧師だけが一所懸命でも、信徒だけが一所懸命でも成り立たないのです。むしろ、そこで、お互いに牧師は、語るものとして十分に準備をして、信徒は聞くものとして十分に準備して、一緒になって一つの礼拝を造り上げるというのが正しいありかたです。それはまさに、この所で「知恵を尽くして互いに教え、諭あい」という状態のはずです。牧師と信徒が一緒になって、み言葉に取り組む、これが礼拝のあるべき姿です。そして、そのような中でこそ、イエス様の言葉が生きて働かれるのです。キリストの言葉が私たちの間に豊かに宿るのです。そして、そのようにして言葉が働くのであれば、私たちは、本当にイエス様によって赦されていることが納得させられるのです。そして、そのようにして大きな恵みが与えられていることがわかるのなら、詩編と賛歌と霊的な歌によって感謝して心から神様をほめたたえる、ということが、命令されなくても勝手に私たちの口から出てくるのです。このようにして、礼拝において私たちの間に働かれるイエス様の言葉が、私たちを新しい人へと作り変えていくのです。
日常に押し出される
しかも、イエス様の言葉は、この所だけで、すなわち、日曜日の礼拝だけでは終われないのです。その先へと私たちを押し出していくのです。17節にはこのように書かれています。「何を話すにせよ、行うにせよ」これは、何の限定もついていません。わたしたちが、この教会の中だけでなく、教会の外でも、月曜日から始まる生活のすべてにおいて「何を話すにせよ、行うにせよ」です。その所にイエス様をお連れするというのです。「すべて主イエスの名によって行い、イエスによって、乳である神に感謝をささげなさい」。というのは、私たちの日常生活にこそ、イエス様の言葉が働く、という意味です。そして、その土台は、この礼拝です。この礼拝において、イエス様の言葉が私たちの中で働きだすのです。その働きは途切れることなく続いて、私たちの日常の中でも働かれるのです。そのようにして、私たちの日常の生活もまた、感謝のある生活になるのです。
現れている恵み
このようにして、私たちの生活全体が、イエス様の言葉によって導かれるのであれば、どこにいても、いつであっても、神様の恵みが現れている生活になります。もちろん、私たちの日常は簡単なものではありません。わたしたちが生きます世界は、罪がある世界であり、私たちの中にもなお、罪の残りがあり、私たち同士の間にも、互いに忍びあわなければならない、責められるべきところがいくらでもあるはずです。しかし、そのような私たちの中に、キリストの言葉が働いていてくださっているというもう一つの事実があります。私たちはいつでも、これからも、礼拝において互いにこの言葉を分かち合って生きていくのです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、すでに主イエスによって、キリストの体の一部とされ、その平和をいただいています。どうぞそのような平和があり、多く赦されていることをますます知ることができますように。そして喜びをもってこの週を過ごさせてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。