毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
お気軽にお問い合わせを
「一度礼拝に出席してみたい。」
「教会に行ってみたい。」
「でもどうしたらよいかわからない。」
そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
ルカ3:15-22
待降節との違い
今日のルカ書の個所は実は昨年と言いましても数週間前アドベントの時にも説教で取り上げています。その意味では同じところを説教することになります。でも、昨年とは少し違っています。何が違うか、お気づきでしょうか。まず、違うところとして、読む箇所が広がっています。以前は17節まででした。今回は22節までです。では、そこで何があったのでしょうか。ヨハネが去った様子が描かれています。そしてもう一つは、イエス様の洗礼の記事が新しく入っています。そして、このこと、すなわちイエス様の洗礼があるかないか、ということによって、この個所の読み方はかなり違うものになります。それは一言で言いますと、以前・以後の違い、預言と実現の違い、です。イエス様の洗礼があった、これによって私たちのあり方そのものが違ってくると私は考えています。そこでその違いをこれからいくつかの点で確かめてみたいのです。
イエスの洗礼
繰り返しになりますが、このところのポイントはイエス様の洗礼です。イエス様が洗礼を受けられたことによって、全く新しい時代が開いたのです。それは、あのヨハネの言葉、すなわちヨハネがメシアについて預言した16節、17節の言葉が現実のことになった、という意味です。そこでもまた、洗礼の話がありました。ヨハネが行ったのは水の洗礼でした。それに対してヨハネがこれからこうなる、といったことの一つに聖霊と火による洗礼がありました。その手始めとして、まずはイエス様が洗礼を受けられたときに聖霊が与えられたとあります。これは聖霊によって新しい歩みをする、その最初の出来事です。ですからルカではイエス様の洗礼そのものについては、あまり詳しく描きません。むしろ、イエス様が洗礼を受けた後でどうだったのか、ということについて、ここではとても詳しく書かれています。この洗礼を受けた後で起きた一連のことが大切だ、ルカはおそらくそのように感じてこのような書き方をしたはずなのです。それは、ほかでもなくこれを読んでいるわたしたちたちにとって、何が大切なのかをルカは彼なりに示したいと願ったからです。それも、私たちの生き方の根本にかかわることとして、この洗礼の後に起きたことを描きたいと願っていたはずなのです。その際、この所でイエス様がされていることは、私たちにとってのひな型になっているのです。もっと言えば、イエス様がされたことを私たちは後追いするのです。ではイエス様は最初に何をしたでしょうか。
祈ること-天が開く
洗礼の直後にイエス様が最初にしたのは祈りでした。「イエスも洗礼を受けて祈っていると」とあります通りです。洗礼を受けたという事実で終わらないのです。神様に向かって祈り求めるということがなされています。そしてこのところでは、それに続いて天が開くという言葉が続きます。この時、イエス様が祈ったときに、天と地がつながったのです。それに続いて聖霊が下ったとあります。少々不思議なところがあります。そもそも、イエス様は、聖霊によって身ごもられたのでしたし、私たちが信じるところによれば、永遠からおられる方であり、永遠から神様の独り子である方です。そうであれば、ここで改めて聖霊を受け直す必要性はあまりないようにも思われます。しかし、おそらくこの時、聖霊が改めて見える形で降ったのは、イエス様が新しい段階に入ったことのしるしです。それは、いわゆる公生涯と言われる段階です。言い換えますと、キリストとしての公の仕事を開始された、そのしるしです。それからもう一つの意義として、これもすでにお話ししましたが、イエス様は私たちのひな型としての役割を始められたという意味です。何のひな形かといいますと、私たちも祈ることで天とつながり、聖霊の交わりをいただくことがすでにできるようになっているというしるしです。
洗礼において
その点で改めて私たちの洗礼について考えてみます。私もそうですが今教会員である方、キリスト者である方は誰であっても、ある時信仰が与えられて、教会で洗礼を受けてキリスト者になりました。その場合の洗礼は一見しますと、ただ儀式をしているだけのようにも見えます。しかし、実際にはどうでしょうか。丁度先週信仰告白準備会を行いました。聖霊についての個所でした。わたしたちが信仰を持つとはどのようなことなのか、ウエストミンスター小教理から学びました。かいつまんで言いますと、私たちがイエス様を信じるというのは、イエス様が聖霊を私たちの中で働かせてくださって、私たちの心を作り替えて下さることによって、引き起こされると書いてあります。そして、全くその通りだと思います。私たちは、うっかりと自分で信仰をもった、自分がイエス様を信じた、と思っているところがありますが、実は、これは自分でしたことではないのです。聖霊なる神様のお働きです。私たちの中に聖霊なる神様が降るようになっているのです。実はヨハネはこのことを預言したのでした。それが、16節で書いてあったことでした。「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。水の洗礼はそれだけでは終わらないのです。
我々の心が変えられる-聖化の話
むしろ、水の洗礼は聖霊と火による洗礼で初めて完結するのです。そして、私たちは、このような洗礼を受けているのです。教会で洗礼を受ける、とはこのことを実際に味わうことです。イエス様の聖霊によって導かれ、さらにイエス様の聖霊を受け取ることです。ところが私たちは、このあたりのことがピンとこないままでいる場合があります。自分自身のことで恥ずかしい話ですが、私もそのようにピンとこない口でした。二十代のころ、洗礼を受けてもあまり変わった気がしないと思っていました。これから変わるんだと言われてもそういうものか、くらいに思っていました。その意味で霊的な感性が乏しかったのかもしれません。けれども、今になって振り返れば、そのころから変わらない部分もありますけれども、大きな傾向としては、少しずつ変えられたのではないか、と思うのです。それは単に年を取って多少は知恵がついた、丸くなった、というようなこととも違います。これは、ある先生が何かで書いておられたと記憶していますが、若いころは熱心なキリスト者であったけれども、一方でたまにお酒をたくさん飲むことがあった。けれども、牧師として経験を重ねていく中で、それほどたくさん飲みたいとも思わなくなったというのです。その点では私自身も思い当たるところがあります。私の場合はただ弱くなったのかもしれませんが、少しかっこよく言えば、別の慰めがあると気づかされたのかもしれません。
私の心に適うもの
ではその慰めとは何かですが、それについては、このところでイエス様に語られた言葉から考えたいのです。今日の22節では聖霊が鳩のように下った後で、天から声が聞こえていました。「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」。もちろん、これは、神様からイエス様に対する言葉です。イエス様こそは、神様の愛する一人子であり、また、地上において徹底的に神様の御心に適って歩むもの、そのようなものとしてこの時から歩み始める、その始まりを告げる言葉であるのは間違いありません。そして、この「御心に適う」といことは、イエス様の服従の意味を含んでいます。それは、あの十字架に至るまで徹底した服従に生きられるそのあり方です。それはそれで間違いなのですが、そこでもう一つ問います。イエス様が神様に服従することは、それ自体が目的でしょうか。ちょっとわかりにくい言い方かもしれません。言い換えますと、神様が望んでおられるのはイエス様の服従そのものか、と問いたいのです。そうではないはずです。神様は死に至るまでご自身に従うかどうかを試すためだけにイエス様を地上に生まれさせられたのではありません。むしろ事実はこのイエス様の服従において実現することがあるのです。そのために神様は地上にイエス様を送られ、従順な歩みを求められたのでした。それは、例えばイザヤ書53章に描かれていることです。11,12節と読んでみます。
イエスが切り開いた
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」。イエス様には実りがあるというのです。イエス様は実りを見て満足されるというのです。その実りとは私たち一人一人です。イエス様が徹底して神様に服従して十字架に死なれたのは、わたしたちが父なる神様にとっての実りとして集められるためです。わたしたちが神様に近づけば近づくほどに、実りは豊かになるのです。そして、わたしたちが洗礼を受けるのであれば、イエス様に対して響いたあの言葉「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」これが、私たちの言葉になるのです。そして、イエス様は今も私たちの長男として、神様の前に立って、私たちと神様とを引き合わせてくださるのです。そのようなイエス様のお働き、私たちを神様へとつなげていく働きが今この時も私たちの中で起き続けているのです。そしてこのことがあるからこそ、私たちは、自分自身の中に芯を持つことができるのです。何があっても負けない根っこを持つことができるのです。
ヨハネの言葉の実現-聖霊の働きによって
今、この時も私たちの中でこの力が働いています。それは、丁度洗礼者ヨハネが17節で預言した言葉の実現です。最後にこの個所を読みます。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」イエス様の第一の仕事は、脱穀場を、すなわち私たち自身とこの世界をきれいにしていくことです。そして実りを集めていくことです。そのために、余計な物、いらないものを焼き払うことです。イエス様は、今も聖霊を私たちの中に住まわせることによって、私たち自身の中で、この働きを続けてくださっています。それで私たちは、少しづつかもしれませんけれども、きよめられ、良い実りを実らせるものに変えられていくのです。それは基本的に一方通行のあゆみです。私たちは、整わないもの、神様について分からないものから、少しづつ、清い者、神様の愛を理解するものへと変えられて続けるのです。
新しいことが始まっている
これらすべてのことは、イエス様が生まれられたときにはじまり、とりわけ、洗礼を受けられ、その公のあゆみ、救い主としての歩みが始まったとき、神様が天から改めて、「これは私の愛する子、私の心に適うもの」と宣言されたときからはっきりと始まりました。それで私たちの内で、もうすでに新しいことが始まっています。そうであれば、私たちはこのイエス様のお働きにこそ期待し、また、そのお働きに信頼したいのです。何より、私たちはこれから新しく変えられる旅路の中にあるこの事実に信頼したいのです。
祈り
父なる神様、尊いみ名を賛美します。あなたがみ子である主イエスを送って下さり、あなたのご計画に従って、十字架に至るまで徹底した服従の中で、御心を成し遂げてくださったことを覚えて感謝します。私たちは今すでにその恵みにあずかっています。そして、洗礼のしるしとして御霊をいただいています。どうぞこの聖霊なる神のお働きをますます強めて下さい。そして私たちがただこのことに希望と慰めを見出して歩めますように励ましてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。