毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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マタイ2:1-12 王を見つけ出す
子の肩書
今日の所もまたイエス様の誕生の様子を語る個所です。しかし、誕生そのものというよりはむしろ、イエス様の誕生を周りがどう受け止めたのか、その様子が描かれていると言えます。それはまた私たちがイエス様を何だというのか、そのことと関わってくるはずです。このところではすでに、イエス様とはどのような方なのか、その手掛かりになりそうな言葉がいくつも登場しています。例えば、占星術の学者たちは「ユダヤ人の王」と言っています。ヘロデは「メシア」という言葉を使っています。さらに旧約ミカ書の引用の所には「指導者」や「牧者」という言葉を見つけ出すことができます。さらに「子」あるいは「幼子」という言葉もあります。これらは皆正しいのです。私たちは、この福音書を読み進めることで、あるいは他の聖書箇所やウエストミンスター小教理問答といった教理の学びを通して、イエス様が王であり、預言者であり、祭司であり、神のみ子であり、牧者であり、キリストである、といったことをいくらでも見つけ出すことができます。そのうえで、あえて言いますとイエス様とは一般的な意味でどのような方なのかではなく、私にとって、あるいは私たちにとって何なのか、今日はこれを確認したいのです。
神の伝えたいこと
その場合に、ここではすでに二つのあり方がはっきりと描かれています。一つは、星占いの学者たち、そして、もう一方は、ヘロデ王とエルサレムの人々です。これは少々不思議な取り合わせで、星占いの学者とは、多分ペルシャ地方から来た人たちで、聖書の神様のことを知らない人たちです。一方で、エルサレムの人たちと、ヘロデは聖書の神様を知っている人たち、少なくとも知識としては良く知っている人たちです。しかし、ここでは聖書を知らない人たちがむしろイエス様を受け入れているように見えます。では聖書とはそもそもなんでしょうか。聖書にしるされた神様について、あるいは聖書そのもの、その中身について、私たちは、色々な方法で学ぶことができます。ただ聖書を読むだけでも、いろいろなことがわかりますし、それ自体興味深いところがあったり、生き方について考えさせられたり、といったことがあるかもしれません。けれども、そもそも、聖書とは何であるのか、ということを考えますと、それは神様の言葉であったはずです。神様が人間に言いたいこと、伝えたいこと、それはその時々で違っているかもしれませんが、とにかく、昔、神様が人に対して何らかの形で働きかけられた、それがいろいろなレベルで記録されて、時にはかなり出来事に忠実に、時には昔話風に、時にはたとえ話で書かれているかもしれませんけれども、とにかく伝えたい中身があってそれが伝わって、人の記憶に残って、やがて文書にまとめられて聖書になったのは間違いありません。そこで大切なのは、伝わった中身です。そんなことを考えながら、この個所を読みますと見えてくることがあります。それは、この星占いの学者たちは神様のメッセージをかなり素直に受け取ったらしい、ということです。
星と言葉
その意味では神様もまた、彼らにわかる形でメッセージを発していると言えます。なぜなら、この場合のメッセージは星の運行だからです。ここで描かれている星が実際の所どのようであったのか、まるでドローンのように、空を移動していってある場所でぴたりと止まるなどといったことが本当にあったのか、実際のところはわかりません。ただ一つ確かなのは、神様は星の運行をも支配されているという事実です。さらに言いますと、この星占いの学者たちは、当たり前といえば当たり前ですが、日ごろから星の運行を研究し、それを地上の諸現象、例えば政治の動きの変化と結び付けて考えていたはずですし、言い換えれば、そのような頭が出来上がっていたとも言えます。星に何か変わったことがあれば、これは何かのしるしに違いない、という回路が頭の中にできていたのです。さらにこの時代、世界をよい方に大きく変える新しい王が東方に誕生するとの見方が中東全般にあったようです。このような新しい王、いわば救い主の誕生を信じていた人たちに対して、神様は星によってサインを送った、このようにこのところを読むこともできます。そうであれば、星のかなり変わった動きは、この場合には神様の言葉です。或いは言葉の代わりです。しかし、このようなしるしはおそらくこの時だけのものです。神様は時代ごとに、地域ごとに違った言葉を用意してくださっているはずです。ですから私たちにとってのしるしは、星ではなく、むしろ星に変わる何かがあるはずです。
博士のあり方-跪くため
その場合に、私たちはいったい何に興味をひかれるでしょうか。私たちにはどのようなしるしがあるでしょうか。そもそも私たちは、日ごろ何を願って生きているでしょうか。もちろん、もっといい仕事であったりとか、もっと豊かな生活だったりとか、表面的なことはいろいろあります。けれども本当の心の真ん中で何を願ているのかです。この時星占いの学者たちの願い、目的意識ははっきりとしていました。それは、先ほどもお話しした通り、世界をよい方向に変えてくださる救い主の誕生をこの目で見たい、それを祝い、その新しい王に跪くこと、救い主を礼拝したいという願いでした。それは2節の最後に「拝みに来たのです」とあり、さらにこの言葉通りに11節で「彼らはひれ伏して幼子を拝み」とある通りで、この点で全くぶれていません。救い主を礼拝したい、これが彼らの望みです。それが実現する時に彼らは「喜びにあふれた」と10節にある通りです。そしてこれは私たちに持っても遠いことではないはずです。救い主を見つけ出して礼拝したい、これでもう大丈夫だ、という絶対的な安心感に包まれたい、それが最もうれしい人生の目当てであり、それを見つけ出したことは何にも代えがたいほどに喜ばしい、この所での学者たちの喜びを私たちも同じように喜べるのではないでしょうか。
イスラエルの牧者
この点で、実はこのマタイによる福音書には一つの仕掛けがあります。それは最初に少し触れましたが、6節で旧約聖書の預言書であるミカ書から引用されているところです。ここでも吐噶喇と違っているところが2か所かります一つは、「ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない」とあるところです。これはもともとのミカ書の方では、「ユダの氏族の中でいと小さきもの」でした。「小さい者」が「小さい者ではない」となっています。これは事態が変わったという意味のはずです。マタイは、時代が変わった、と言いたいのです。それはどのような意味であるのか、というがおそらくもう一つの変更で語られています。それは、最後の部分です。ミカ書の方のこのところの終わり方はこうです。「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。これから来るメシアの生まれはとても古く永遠から存在している、という言葉はまさにメシアの性質としてふさわしいものですが、マタイはこれをバッサリ切ってしまいます。それ以上に大切な言葉があると考えたからです。それは何かと言いますと、マタイの方にある言葉です。それは「私の民イスラエルの牧者となる」という言葉です。このことは大きく分けて二つの意味を持っています。一つは神様はご自身の民との約束を決して忘れず、またご自身の民を憐れむことをやめてしまわない、それがメシアによって実現する、という意味です。それからもう一つは、まさにそのような憐れみのしるしとして、頼れる人、牧者のような王を我々に与えて下さるという意味です。私たちは、このように全く頼りになる方としてイエス様を王として迎えることができます。
疑いに帰らない
一方、このところには警告の言葉があります。「ヘロデの所に帰るな」という言葉です。もちろん、これは星占いの学者たちにとっては、実際にペルシャへと帰るその道中、ヘロデからの頼まれごとを無視して、そのまま帰っていくようにという意味ですし、実際にそのようにして神様はヘロデ王の策略を退けられたのですが、私たちにとってはもう一つ別に、ヘロデのあり方、あの疑いと高ぶりの方向というように受け取ってよいのではないでしょうか。自分を王として神様も人も疑って斥けていく道、そこに帰るなと言われているというように読めるのです。ではヘロデ王的なも、ヘロデの道とはいったいどのようなものでしょうか。
ヘロデのあり方
今日のところでは「不安」という言葉で登場しています。3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。興味深いことに、ヘロデ王だけでなく、民もまた一緒に不安になっていたのです。ではこの不安の中身は何でしょうか。それは、自分が王でありたい、誰にも膝をかがめたくない、自分の権利を守りたい、という強いこだわりです。実は同じように私たち自身の中に、「誰にも負けたくない」、「誰にも膝をかがめたくない」という思いを住まわせているのかもしれないのです。自分が王様でいたいのです。そしてそのような自分もまた自分の一部なのです。そして、そのような自分は、邪魔な者を殺してしまおうとする、そんなむき出しのむごさを持っているらしいのです。抽象的なことをお話しするつもりはありません。とても単純なことです。疑いの思いは悲劇をもたらします。このヘロデ大王の晩年は不幸でした。何人かいた妻たちや、その妻たちと間に設けた息子たちをいつも疑い、粛清に次ぐ粛清で多くを殺してしまったのがこのヘロデ王です。今日のところの一つ後の段落では、新しく生まれたメシアを恐れるあまりに、ベツレヘムとその周辺で生まれた2歳以下の男の子を皆殺しにした(2:16)との記事があります。このようにヘロデの行動の根本的な動機は疑いです。疑いから出る不安です。そこから大きな悲劇が生まれます。
二つの思いを知っている神
それで私たちは、自分自身の中にこの二つの思い、すなわち、圧倒的な存在である神様を見つけ出して信頼して喜び安心したいという思いと、その一方で、誰にも騙されたくない、自分の権利を絶対に手放したくないしできればすべてをコントロールしていたい、という思いと両方を持っているとみてよいのではないでしょうか。そして神様は、私たちがそのようなものであることを十分にご存じの上で、イエス様を地上に送ってくださったのではないでしょうか。そして今日のところでは、神様ご自身が、星占いの博士たちに、彼らにわかるしるしを用いて、神様がこの世界に送る救い主のもとへと導こうとされたのでした。たとえ人間がどのようなものであろうとも、神様は、このようにして、一人一人に合わせた形で、ご自身の救いを知らせようとしてくださっているのです。それは、私たちにとっても全く同じです。ただ、すでにお話ししました通り、私たちに届くしるしは星ではありません。ただし、この星の成し遂げたことは私たちにも起こります。
神のみ旨-星は何をしたか
改めて確認します。この星は、神様が用意されました。それはイエス様がいる場所を知らせるしるしでした。星の示すところにイエス様がおられました。では私たちにとって、イエス様がここにいる、というしるしは何でしょうか。そもそも、イエス様はいったいどこにおられるのでしょうか。答えは明快です。イエス様は、今このところにおられます。なぜでしょうか。それはこの場所が、わたしたちが礼拝をしているこの集まり自体が、キリストの体に属しているからです。キリストの体の表れだからです。今このようにして、わたしたちが礼拝に集められ、一緒になってみ言葉に聞いている、この時間そのものの中にイエス様がおられるのです。わたしたちが集められ、一緒に聖書の言葉を読み、聞き、私たちの心にイエス様の言葉が届くのであれば、そこにイエス様がいて下さるのです。
王を見つけだす
いずれにしましても、この所は、神様に導かれて、王でありメシアであり牧者である神様の一人子イエス様を私の救い主として見つけ出して喜ぶということが中心です。その通りに、私たちもまた、この年のあゆみにおいて、私たちをしっかりと助けて下さるイエス様を見つけ出して喜びたいのです。
祈り
父なる神様、貴いみ名を賛美します。あなたは御子を人として生まれさせて下さり、私たちの希望の光として与えてくださっておりますから感謝します。私たちは、このキリストの光を見出すように召されています。私たちがまといつく闇の業に囚われてしまうことなく、何度でも光へと身を向けて歩むものとなれますように支えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン