1月2日説教原稿

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1月2日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

「神の手の中にあって」ルカ2:40-52
年の初めに
新しい年となりました。これから歩み始めます月日を前にして何か決意をと考えなくもありません。すべてに先立って、これは押さえておきたい、それもキリスト者として、わきまえていたい、そのようなことが何かあるでしょうか。実は今日のところで少年であったイエス様によって語られている言葉こそはそのような言葉です。とりわけ49節で語られております言葉こそは、ただ、ヨセフとマリアに対する問というだけにとどまらない、私たち誰に対してもまた、いつの時代にも当てはまる問いかけです。その言葉自体は決して難しいものではありません。しかし、そのようなイエス様の問いかけは私たちにとって必ずしも簡単ではないのかもしれないのです。

問われていること
少々勿体をつけてしまいましたが、その問いとは49節で「知らなかったのですか」とある通りです。当然、知っているでしょう、という問いです。むしろ、あなたたちはこれを知らななければならない、という問いと理解したいのです。わたしたちが、キリスト者として歩み始める、その一歩一歩において、イエス様が指摘してくださっていることを前提として、それを知って生きていくべきだ、このように言われているように思えるのです。しかし、このようなイエス様の呼びかけは先ほどお話しした通り、必ずしも分かりやすいものではありません。50節では驚くべきことに「意味が分からなかった」とある通りです。その点では、この個所自体が、分かりやすい話ではないのです。起承転結があって、めでたしめでたしで終わるところではないのです。むしろ、一人一人が問われて、その後どうするのか、なぞは謎のままで終わってしまう、そのようなところかもしれないのです。しかし、そこにこそ、このところの意義があるようにも思えるのです。私自身、年報の準備をしながら、この一年を振り返ることをしています。昨年を一言で表すとすればそれはおそらく「思いに任せない」という言葉がふさわしいのではないでしょうか。思った通りではない現実があります。もちろん、一番大きな障害はいつ終われるのかもはっきりとしないコロナウイルス感染との戦いです。しかし、それがなかったとしても大きなことから小さなことまで、思いに任せない、そんな世相が感じられます。経済も、政治も、国際関係も大丈夫だろうか、そんな気もします。そこで、私たちは今一度自分のこうあるべき、を疑ってかかったほうが良いかもしれないのです。

少年イエスの立ち位置
そこで、今日の聖書にある、イエス様が引き起こした一つの事件を改めて確認します。そもそもですけれども、この出来事についてイエス様ご自身に悪意があったのでは決してありません。このところの41節でイエス様は12歳となったとあります。これは、イスラエルにおいては、律法について責任を持つ年齢です。そもそも、この一家は律法に従って毎年過ぎ越しの祭りにエルサレムの神殿に赴く敬虔な家庭でした。そしてイエス様もまた、律法への責任においては大人の仲間入りをしたのですから、あえて両親に背くというのは考えられません。また、51節を見ますと、「両親に仕えて」、とありますので、これがイエス様の基本的な姿だったのがわかります。仕えているのですから、わざと意地悪をしたり、少年期によくある気まぐれな反抗心をふりまわしたり、といったことではないのです。しかし、あえてここでは、両親に質問をしているのです。それは、やむにやまれない質問だったはずです。その際に、先ほどの年齢のこと、律法に責任を持つ、神様の前に責任を持つ、ということはひょっとしたら関係しているかもしれません。バル・ハミツバーというようですが、訳せば、「律法の子」となります。それは、神様の前に責任をもって歩み始めるという意味です。それを忠実に行おうとしたときに、このところの事件が起きています。

それでも行う
このところで語られているのはちょっとした失踪事件です。すでに一度読んでおりますから、あまり詳しく繰り返しませんけれども、祭りの七日間が終わった後のことです。当時は、安全のため、親戚や近隣者同士集団で旅をするのが普通だったようですから、みんなでエルサレムに上って、また、同じメンバーでナザレに帰っていくということになっていたようです。ところが、一日旅路を進んだ後で、ヨセフとマリアはイエス様がいないことに気が付いて、慌てて引き返したのでした。そして、あちらこちらと三日間もあたりを探し回った後に神殿に行ってみたら、何のことはない、イエス様が律法学者たちの真ん中に立って、おそらく聖書の解釈についてなのでしょうが、質問をしたりされたり、といったことをしていたのを見つけ出したのです。そこでさすがのマリアもたまらなくなって「なぜこんなことをしてくれたのです」と言って叱っています。この気持ちはとてもよくわかります。我が家の息子も、一緒に旅をしますと、あちこちと、気の向くままに進んでいってしまうところが幼いころからありまして、最近さらに磨きがかかっていますので、人一倍わかります。「どうしてこんなことをするのか、心配しているのに」このマリアの叫びは、多くの親の叫びかもしれません。しかし、それに対して、イエス様もまた最初にお話しした通りですけれども「どうしてわからないのか」と問うのです。そしてこの問いかけは私たちの心のあり方をぐらぐらとさせるような問です。

驚きの中に
そもそも問いに対して、問いを返す、というのはあまり行儀のいいことではありません。しかし、それでもイエス様はあえて問わなければならなかったのです。そして、そのような問いかけの理由は、この所では二つの個所から読み取れるように見えます。一つは、神殿での受け答えを見ていた人々の反応です。47節を岩波版聖書で読んでみます。「彼が語るのを聞いた者は全員、その洞察とその諸々の答えとに正気を失うほど驚いていた」。神殿でやり取りを見ていた人たちがみな、ただならぬものを感じていたようです。残念なことに、ここでは語られた言葉の内容は全く示されていません。ですから推測するしかありません。そして、人々がみなイエス様と学者たちとの言葉のやり取りの内容を完全に理解していたかどうかもわかりません。しかし、聖書の言葉について、真剣なやり取りがされたのは確かです。まだ幼さを感じる少年と学者たちの間で、ただならぬことが起きているということはわかったはずです。そこには本物だけが持つ迫力があったのです。その状態を伝えるのが、この「正気を失うほどの驚き」という言葉の意味だと思われます。では、そのような「本物」とはいったい何なのかです。それを指し示すのが、イエス様ご自身がマリアにこたえた言葉の中にあります。

父の家?
もう一度49節を読んでみます。「すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」」ここで特に注目したいのは、「父の家」という言葉です。これは必ずしも、神殿を指しているだけではないようです。この所に関して、新しい聖書教会共同訳では、別訳として二つの翻訳を提案しています。一つは「父に関する者たちの間に」です。イエス様は、父に関する者たちの間にいるといったことになります。もう一つは「父の仕事に携わっている」です。こちらであればとても分かりやすいのですが、イエス様は父の仕事をしていた、という意味になります。いずれにしても、イエス様は、父なる神様のされていることの中にいなければならない、それが自分のいる場所だ、そして父の仕事をするのだ、それが当たり前だ、と言われているのです。そして私たちが、是非とも聞くべき言葉、そして、私たちにも問われている言葉こそが、この言葉です。いったい私たちはどこにいるべきなのでしょうか。或いは、そもそも、私たちはどこにいるのでしょうか。私たちは、自分を何だと思っているのか、イエス様から問われているのです。一方で、50節の言葉は、私たちに慰めを与えてくれるかもしれません。それは先ほども確かめた通りですが、ヨセフもマリアも「イエスの言葉の意味が分からなかった」と続くからです。それほどに、私たちの日常感覚は強いのです。わたしたちが自分で常識、とか当たり前と思っている、考え方の枠組みは強いのです。その点で私たちは、ヨセフやマリアと変わるところがありません。

知らないのか
そしてまた、そうであるからこそ、このヨセフとマリアに対する「知らなかったのですか」という問いは響き続けるのです。そして私たちが問われているのは、イエス様が実際のところどこにおられるべき方なのかです。この時、少年であるイエス様が取られた行動は、いわゆる常識からはズレていました。親と共に行動するのが当たり前のことでした。しかし、イエス様は、神様のご計画の中で行動されていました。ここにおいて、私たち人間のこうするべき、こうあるべき、という判断とイエス様の父の家にいるべき、とがぶつかっています。それを端的に表すのが、マリアの「父も私も心配していたのです」という言葉です。当然心配するのです。何か悪いことがあったらいけない、子どもの身に万が一でもあったらどうしよう、もし自分が親としての責任を果たせなかったらどうしよう、あの時、もっとこうしたらよかった、今からできることは何かないか、というように、思い煩いで、頭がぐるぐるするくらいに思い詰めてしまうのは決しておかしなことではなく、むしろ当たり前かもしれないのです。しかし、そこでなお考えたいのは、イエス様は、父の家にいた、という事実です。神様の御手の中で守られていたのです。ヨセフとマリアが、保護しよう、何とかしよう、と慌てて駆け回っている時にも、イエス様は、神様の家の中で暮らしていたのです。

キリスト者は誰でも
そして、それは、イエス様だけのことではないのです。わたしたちがイエス様の弟子であり、兄弟姉妹であるのなら、私たちもまた、この神様の家の中にいるはずなのです。私たちは、いつでも、自分で何とかしなければと考え、自分自身で、こうあるべき、人に対してはこうするべき、ということに沿って生きようとしています。そして、うまくいったり、うまくいかなかったりしながら、一喜一憂します。けれども、実は私たちは、自分たちだけで生きているのではないのです。イエス様の言われた「私が自分の父の家にいるのが当たり前だということを知らないのですか」、というところを、一言変えてみます。「あなたは自分の父の家にいるのが当たりまえだということを知らないのですか」。私たちは、父なる神様の家の中にもうすでにいるものです。神様の御業の中にいるものです。むしろ、私たちは、この事実をもう一度はっきりと見直すように問われているのです。

日常の中で神の手の中に
しかもそれは、特別な瞑想や、修養会や、伝道集会で、集中して聖書を学ぶ、祈りを重ねる、といったことによって体得するものではない、と私は考えています。もちろん、そういったことがきっかけになるのなら、それはそれでよいのでしょうけれども、むしろ、ああ、私は父の家にいる、という気づきは、わたしたちが日常生活を続けていく、その中で、ふと守られている、支えられている、慰めされている、そのような体験によって気づかされるのではないでしょうか。そのようにして当たり前の生活の中で、実はすでに私は父の家にいる、神様の手の中にいる、このことを、何度でも、繰り返し見つけ出すことへと、私たちは招かれています。

祈り
父なる神様。聖名を賛美します。あなたが創造の時からすべてを支配して下さり、その御手の中で新しい年を迎えました。私たちは、罪のゆえに、あなたのご支配に目が開かれないことがあります。しかし、あなたはすでに私たちを見ての内においてくださっておりますから感謝します。わたしたちが、この力強み御手の中でこの年の歩みをなしていくことができますように、この週のあゆみにも変わらぬ導きと祝福を置いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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