毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ルカ2:15-20 「目で見て確かめる」
今年の終わりに
いよいよ今年最後の礼拝ですけれども、聖書はクリスマスの個所の続きです。そして、今日このところで今一度確認したいことがあります。それは、、私たちは今、何を持っているのか、あるいは、私たちは今何になっているのか、という問いです。と言ってもわかりにくいかもしれません。以前にもお話ししたような気がするのですが、イエス様は弟子たちに教えて、「求めなさい、そうすれば与えられる」(ルカ11:9)と言われました。神様に下さいと言えば、与えてもらえる、という約束です。そして、全くその意味で、私たちは、もうすでに持っている者になっていると私は言いたいのです。それで、イエス様が求めなさい、といわれ、わたしたちがすでに持っているもの、それが何であるのか、改めて今回ルカによる福音書のこのクリスマスの個所を読んで確かめたいのです。
何を追いかけたのか
ところで、ある意味では福音書全体がそのようなものと言えるかもしれませんが、このルカ書においても、ある人がイエス様と出会って変えられる、という出来事が何度も繰り返して描かれています。例えばそれは今日のところの羊飼いがそうですし、洗礼者ヨハネがそうですし、5章での皮膚病の人や中風の人の癒しもそうでしょうし、マタイと呼ばれるレビやほかの弟子たちのとの出会いもそうです。しかし、その点で最も象徴的なのはザアカイの話であるかもしれません。この世において頼りになるのはお金だけであると思い込んでいたであろうザアカイは、たまたま、評判のイエス様にあってみたいとの思いが与えられて、出かけて行って、そこでむしろイエス様に見つけ出されて、イエス様の友情を見つけ出して、全く生き方が変わったのでした。ただただお金を増やすことをやめて、むしろ、お金を正しく管理することを誓ったのでした。貧しい人たちと分け合うことを、不当なことをした人たちに償うことを始めたのでした。しかし、今日確認したいことの中心は、ザアカイが何をしたのか、ということよりも、むしろ、そのような出会いが訪れた、その前提として、すでにイエス様が彼を訪ねて下さっていた、という事実です。イエス様がザアカイを訪れたのです。
驚き思いめぐらす
その一方で、今日のこの箇所の特徴は、イエス様の訪れは、言葉によって知らされている、という点です。しかも、言葉によって伝えられた事実は、必ずしもすんなりと受け入れられていないのです。このところはまず天使から羊飼いたちに言葉が伝えられます。「今日あなたがたのためにダビデの町で救い主がお生まれになった」(11節)というのが最初に伝えられた言葉です。この言葉はその次に、マリアたちに伝えられました。その時にどのように語られたかは、描かれていませんが、17節では「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とありますから、ほぼ聞いた通りの言葉と、それから自分たちが体験したこと、すなわち、しるしだと言われた布にくるまれた赤ちゃんを見つけた、といったことを語ったのだと思われます。しかし、そこで、この赤ちゃんの誕生がなんであるのか、ということについて、このところでは、二つの反応が示されてます。
一つは、不思議さです。18節に「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とありますから、羊飼いたちの話を聞いた者は、誰でも、まず不思議に思った、ということになります。ちなみに、このところを新改訳聖書は「驚いた」と訳しています。どちらも可能です。驚き怪しむという感じです。それからもう一つは、これはマリアが特にそうだったということになっていますが、この出来事、すなわち、羊飼いたちが語って聞かせた言葉と自分が体験した出産を含めた一切、を心に納めて思いめぐらせた、となっています。この二つのこと、不思議に思い考え込む、それがここで示された反応です。そしてこの「不思議さ」ないし「驚き」ということは決して否定的なだけではないように思えるのです。なぜなら、本当に大切なことは私たちに「不思議さ」を与えるものかもしれないからです。
実はもう持っている
そしてこのことはそのままわたしたちに取って一つのあり方を示しているように見えます。例えば、私たちは毎年クリスマスにはクリスマスの聖書箇所、受難節にはその箇所、イースターにはやはりイースターの聖書箇所、を読みます。ただ読むのであれば中身は毎年同じです。でも、実際には毎年違った思いを持つのではないでしょうか。毎年毎年、同じ聖書箇所を呼んでも、胸に迫るところや、思いは違っている、今も実際にそうですが、聖書の言葉は何度でも、読まれ、語りなおされ、聞かれます。そして私たちはそのたびごとに、その言葉をある場合には驚き、またある時には不思議に思い、これはどのようなことかと思いめぐらす、ということがあっていいはずですし、むしろなければ困るのです。聖書を読んで何の驚きもない、とすればそれはもはや信仰が止まってしまっている、からです。ですから、私たちは、イエス様が生まれたという出来事を伝える言葉を何度でも思いめぐらした方がよいのです。
そこで少し話が変わりますが、一週間後には、私たちは再びこの会堂に集まります。新年の礼拝を持ちます。そしておそらく、新年おめでとう、と互いに言いかわすことになります。そのようにして新しい年が来ることを、だれも止められません。新年が来ることは全く確かなことでそれを疑う人はいません。あるいは、どれほど私たちが抵抗しても、いやがおうにも、新しい年はやってきます。わたしたちが、どのような状況であれ、喜んでいても悲しんでいても、私たちを包み込むように新しい年はやってきます。そして新しい年においても、私たちに聖書の言葉は迫ってくるのです。私たちの変わり続ける状況の中に、聖書の言葉は迫ってくるのです。
どのような時にも
そのようにして迫ってくる言葉の中心にあるのが、このルカによる福音書2章10、11節で天使が語ったこと、すなわち、「民全体に与えられる大きな喜び」としての「主メシア、あるいは救い主の誕生」です。これはすでに成し遂げられています。もう、このことは全く確かでいつまでも変わらず、これからも変えようがありません。そして、このすでに実現したイエス様の誕生は事実以外の何者でもないのですが、このところでは、それは、見つけ出すものとしても描かれているのです。羊飼いたちは互いに「見つけようではないか」と言って話し合ったのでした。そこでむしろ問題は、わたしたちが、この事実とどのように向き合うのかです。イエス様が生まれられた、というこの決定的な事実、あるいはそれを知らせる言葉、それは言うまでもなく聖書の言葉ですけれども、私たちは、「救い主がお生まれになった」という素朴な言葉を、自分の言葉にするように招かれています。そして、その中心は何といっても15節にあります「主が知らせて下さった出来事」という言葉にあります。このところを岩波聖書では「主が我らに知らせて下さったところの、今成し遂げられた(という)、そのこと」と、ちょっと面倒な感じに訳していますが、ある意味ではこれがほぼ直訳です。そこで大事なのは「成し遂げられた」という言葉です。これはもう起きたことだ、実現したことだ、と羊飼いたちが互いに語り合っていたのです。もうすでに実現した誕生、それを神様が知らせてくくれた、だから急いで出かけていこう、このように羊飼いたちは互いに呼びかけ合って、急いで出かけた、と続いています。
見つけ出す
それで、もうちょっと具体的に考えたいのですが、丁度シーズンでもありますので例えば受験ということを考えてみます。皆さん、高校や大学や専門学校あるいは資格試験など、何か試験を受けられた経験はあるのではないでしょうか。例えば、私自身のことで言いますと、牧師になるために、神学校の入学試験を受けましたし教師学科試験を受けました。あの試験自体は、うんと難しいものではありませんが、それでも一応まとまって勉強をした記憶はあります。そしてこれは今でも同じですが、試験の最終日に結果が言い渡されます。私の場合には、一応全科合格でした。一番低い点はぎりぎり60点でしたけれども、まあ、合格したわけです。けれどもそれで終わりではなくて、次に教師の働きに関する委員会で口頭試問をしてもらって、それに合格すると、次には中会に教師にしてくださいと願い出るのですね。その会議でみんなが賛成してくれますと初めて、教師任職式をしてもらって、更に教会で就職式をして、という手順になるのはご存じの通りです。それで何が言いたいのかといいますと、実は私たちキリスト者は、イエス様を救い主と信じたものは誰であっても、試験は合格したけれども、まだ、その後の会議などの手続きが終わっていない人のようだということです。基本的には大丈夫だとわかっているのです。けれどもまだ確定していない、そんな感じです。イエス様の誕生を知っているということは決定的なことです。それは、わたしたちが向き合っております現実がどのようなものであっても変わらないのです。今年は厳しかった、今年は悲しいことがあった、という現実がたとえあったとしても、その横でイエス様が大丈夫と言ってくださっている、それが私たちの置かれた現実なのです。そして、私たちは、いつでもこのことを見つけ出せるのです。
はっきりとした区切り
そこで最後に確かめたいのはこのところでの羊飼いたちの態度です。「羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので」とあります。これはもちろん、救い主として生まれた赤ちゃんがしるしだ、と言われて出かけて行って、実際にイエス様を見つけ出した、というこのところの出来事を指しています。しかし、それと同じように、私たちは、この聖書の言葉に聞いて、自分の人生の歩みの中で、神様が私たちに与えて下さったそれぞれの場所で、イエス様が一緒にいて下さるのを見つけ出すことができるはずなのです。2022年のあゆみがどのようなものとなるのか私たちにはまだわかりません。うれしいことと共に、悲しいこともあるかもしれません。耐えるべきこと、痛みを感じるような出来事もあるかもしれません。けれども、そここそが私たちに与えられている場所です。そしてその場所で、この聖書に描かれているように、救い主を見つけ出していくことはできるはずなのです。そしてみ言葉の通りにイエス様を見つけ出して、神様をあがめ賛美することになるのです。
今日から始める
わたしたちが赴くのはベツレヘムではありません。しかし、このところの羊飼いたちの言葉「主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」という言葉は、どれほど時代が変わっても、色あせないのです。それは、繰り返し私たちを先へ、先へと歩ませる言葉だからです。新しい年に向かって、主が知らせて下さった出来事が、私の人生の中で実現するのを、教会の中で実現するのを、見ようではないか、これが私たちに与えられた言葉です。そして、私たちはこの言葉によって前を向いて生きていくのです。
眼で見て確かめる
そのようにして私たちが神様の言葉に信頼して進んでいくのなら、必ず何かが見えます。神様の答えが見えます。神様の約束の実現が見えます。すでに私自身もまたこのような約束の実現の中にあることを感じます。同じように、皆さんもぜひ来る年の歩みの中で、神様の御業を見つけ出していただきたいのです。神様は生きて働いておられる、神様の語られた言葉は、必ず実現していく、このことを確かめながら日々を過ごしたいのです。
祈り
父なる神様、新しい年が来ようとしております。私たちにはこれから先に何があるかわかりません。しかし、たとえどのような未来であろうと、私たちはあなたのご支配の中で新しい歩みを始めていきます。それは、あなたと共にある時の新しい始まりです。来る年もまたあなたが私たちになしてくださる御業を確かめて歩めますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン