12月19日説教原稿

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12月19日説教原稿

家庭礼拝のための説教と祈りです。朗読などで用いてください

ルカ2:1-14「何もないと思っているところに」
クリスマス
今年は少々早く、今日19日にクリスマスのお祝いをします。教会によっては25,26日にクリスマス礼拝をするところもあると聞いています。しかし、いずれにしましてもそれは祝いの時です。なぜなら、イエス様が生まれられたからです。今日の聖書の11節では天使の言葉として「民全体に与えられる大きな喜びを伝える」とあります。この「伝える」という言葉は、それだけで、「福音する」、「福音を伝える」とも訳せます。イエス様が生まれられたという事実は、誰もが大喜びする出来事だ、良い知らせだ、だからそれを伝えるというのです。クリスマスの意味はこの事実につきます。それは、例えて言えば、私たちの人生の土台がしっかり据わった、私たちのあり方自体が根本から変わった、そんな喜びです。しかし、一方で、そのような神様の御心の実現は、わたしたちが気づかない仕方で、行われているようなのです。

皇帝をも用いて
今日の聖書の書き出しは、皇帝アウグストゥスの年を数えることで始まっています。その治世に課税のための住民登録があったというのです。そしてシリアの総督はクレニオだったと続きます。当時もすでに、行政区分がありましたし、税金もありました。皇帝が命じれば、人々はそれに従わなければならず、それは、マリアたちにとっても同じでした。身重になっていたから、来年まで待ってくれ、というわけにはいかなかったのです。お産を控えて、大変な苦労をしてガリラヤから、本来の相続地があるユダヤのベツレヘムへと旅をしたその様子が短く描かれています。このところだけを見ますと、マリアたちが世間の荒波に翻弄されているだけのように見えます。けれども、このベツレヘムでの出産は、少し見方を変えますと、預言の成就であることがわかります。例えば、有名な旧約聖書のミカ書にはこんな言葉があります。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ5:1)。あるいはイザヤ書にも「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(8:23)とあります。イエス様はナザレの人と呼ばれることになります。しかし、同時にメシヤはダビデの流れをくむ血筋に生まれるとも預言されていました。イザヤ書9章に「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」(9:6)とある通りです。神様は、いわば、皇帝の行う租税調査という純粋な政策の実行をも用いられて、ご自身の預言の通りにナザレの人であり、同時にダビデの子孫と見なされるイエス様をダビデの町ベツレヘムで生まれさせられたのです。このようにして、神様は思いもしない仕方で、誰も気づかない仕方で、ご自身の御心を実現してしまわれるのです。

ツリーの話
そのように、神様のされることはいつでも私たちの意表を突く、というのでしょうか、普段気にしないことを指し示すように思えます。これは、説教学の第一人者である加藤先生の著書の中に記されているということを最初にお断りしておきますが、ある本の中で敗戦直後のクリスマスの様子を書いておられます。戦争中のクリスマスを祝うなど全くできない厳しい雰囲気はなくなっていたけれども、まだみんな敗戦のショックから立ち直れずにぼんやりとした状態で12月を迎えたそんな教会で、ある信徒の方がもみの木を手に入れて持ち込まれたそうです。古い粗末な飾りを引っ張り出して、みんなで一緒に飾り付けをして、一応それらしく形が付いたときに、アメリカ人でありながら日本にとどまって戦争に耐え抜いた牧師夫人が、私たちの国ではツリーにはこれが欠かせないと言って、根元に十字架を置いたそうです。画竜点睛という言葉があります。ある一点がなければどうもしまらない、最後の一点が大切だ、そんな意味の言葉です。クリスマスツリーの仕上げの一点は、枝でも、枝にぶら下げる飾りやローソクや、てっぺんの星でもなく、むしろ根元の十字架だ、というのです。そんな目で私たちの教会のツリーを見ますと、残念ながら十字架は飾っていません。でも、実はよく見ると土台がクロスになっていることに気づきました。もちろん、たまたまです。偶然そうなっているのですけれども、まさにあの十字の土台がにぎやかに飾ったツリー全体を支えているのです。そこでまず考えたいのはこの下にあるということ、低い場所ということです。

低いところへ
今日の聖書でも、マリアたちはようやくたどり着いたベツレヘムで、十分な用意をすることもできないままに、出産の時が来てしまっています。7節の言葉は印象的で、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」、とあります。様々な理由が考えられますが、実際の所、この時代の庶民相手の宿泊施設は相部屋、というよりは雑魚寝、現代で言えばハイシーズンの山小屋のようなものだったようですから、とても安心して出産できる場所ではなかったようです。そのような意味でも、むしろ、家畜小屋の方が都合がよかったのかもしれません。ただいずれにしましても、人が泊まる場所ではなく、家畜がいる場所で生まれ、飼い葉おけをベッド代わりにして寝かされている、それが、後で「主メシア」とまで呼ばれるイエス様の最初のあり方でした。これは、小さなことではなく、イエス様の低さを決定づけています。
イエス様は人間が作り出す社会の一番低いところに生まれられた、ということです。或いは社会からわすれられている場所に、ともいえるかもしれません。なにしろ「場所がない」のですから。丁度、クリスマスツリーを見る人が、てっぺんの星やきれいな飾りを見てうっとりすることがあっても、土台のことは何も覚えていないように、イエス様もまた、誰も見ていない、誰も気にしていない、ひっそりとして暗い馬小屋に生まれてこられました。

寂しい野原で
さらに言いますと、メシアの誕生という大切な出来事を最初に探し出すように声をかけられたのもまた、ある意味ではこの世界にしっかりとした場所を持たない人たちでした。羊かいが登場します。一か所に定住せず、いつでも羊の世話に追われ、神殿での祭りや、会堂での安息日の礼拝に関わることができません。いわゆるきちんとしたユダヤ人からは、神様をあがめないダメな奴ら、地の民などと呼ばれて相手にされない、そんな人たちです。8節では、そんな羊飼いたちが暗い野原で羊の番をするところから始まっています。そこで私たちがはっきりと覚えておきたいのは、神様の栄光は、まず、この最も栄光から遠いと思われるところにいる人たちに知らされていることです。神様の栄光は、最も暗く貧しいところでこそ輝いたのです。しかし私たちは、今、この社会で、特別に低い場所に置かれていると思っていません。あるいは、そのように思いたくない、と内心強く願っている、というのが正確かもしれません。低く見られたくないのです。忘れられたくないのです。それで、私たちは、このところの羊飼いのような立場、住む場所が不安定で、人生の多くの時間を、つらい労働に縛られて、他人から見下されて、というようなあり方を全力で拒否しよう日々努力しているのかもしれません。けれども、このところで天使はまさにそのような羊飼いたちに向かって「あなたがたのために」と呼びかけているのです。羊飼いたちは実は私たちを代表しているものとして描かれているのです。人間というものを代表しているのです。そこで勘違いしてほしくないのは、私はまじめな努力、人生を造り上げるための努力が要らない、と言いたいのではありません。ただ、まじめに努力する私たちを本当に支えているものは何か、と問いたいのです。

良い知らせ?
そこで有名なイザヤ書61章の言葉を読んでみます。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。まさに今日のところで天使が語った言葉はこの預言の実現です。貧しい人に良い知らせが伝えられているのです。ここでは、貧しい人、打ち砕かれた心、捕らわれ人、つながれている人、といった言葉が目につきます。弱い人たちです。困難を抱えている人たちです。そして、私たちは、日々努力をしているにもかかわらず、どこかに弱さを持っているのではないでしょうか。そのような私たちに対して天使は「あなたがたのために」と呼びかけてくれるのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉は、実は私たちへの呼びかけなのです。さらにこれは「民全体に与えられる大きな喜び」なのです。あなたも私も、教会に集う人も、あるいは、今はまだ教会に関わっていない人を含めて、人間全体のために、イエス様が生まれられた、みんなを助けるために、イエス様は生まれられた、というのです。そうしてイエス様は私たちみんなを下から支えてくださるのです。

しるしが与えられている
最後に、天使のもう一つの言葉に聞きます。それは、「あなた方へのしるし」という言葉です。これもまた、直接には羊飼いたちへのしるしですけれども、私たちにとっても全く同じ意味でのしるしです。それは、とても単純なものです。それは「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つける」という約束です。それ以上の何者もありません。ここでは、不思議な幻や、夢や、言葉といったものは、一切登場しません。そうではなく、ただ、布にくるまっている赤ちゃんを見つけ出す、それだけだというのです。それだけで十分だというのです。なんだそんなこと、と思われるでしょうか。しかし、まさに、この赤ちゃんであるイエス様がメシアである、救い主である、それが私に与えられた事実を示している、ということをあなたは見つけ出すと言われているのです。そして、おそらく私たちに求められているのは、ただこのことなのです。「あなた方は見つけるであろう」とある通りです。見つけるということこそがこのところのカギです。私たちは見つけ出すのです。この小さな乳飲み子として生まれられた方こそが、自分の人生を全く作り替え、私たちの人生の土台を支えてくださる方である、という事実を人生の中で何度でも見つけ出すのです。

平和がここに
そして、そのたびごとに私たちは、平和を見つけ出すのです。14節の天使たちの賛美は、この決定的な出来事をほめたたえる歌です。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」わたしたちがイエス様を見つけ出す時に、神様の栄光が現れるのです。また、わたしたちがイエス様を見つけ出すたびごとに、そこには、平和が実現するのです。そこで、み心に適う人、とありますのは、まさに、イエス様を見つけ出したその人です。そして、すべての人は、このようにしてイエス様を見つけ出すことへと招かれているのです。

何もないと思っているところに
何もないように見える荒れ野で、神様は栄光を現わされ、平和を実現されました。そして、イエス様を見つけ出した私たちは、自分の人生が実は何もない場所なのではなく、丁度、クリスマスツリーの土台に十字架があるように、私たちの人生においても、しっかりと、イエス様が下から支えてくださっていることに気づくのです。その時、私たちは心からの平和をもらいます。何もないと思っていた私の人生が実は最も豊かなものに変えられている、これがクリスマスの大きな喜びです。

祈り
父なる神様、尊いみ名を賛美します。あなたは、ご計画に従って、み子を私たちの救い主として、最も低いところへと生まれさせ、そして、十字架において私たちの救いを成し遂げてくださいました故に感謝します。私たちは、このことによって私たちの主イエスを見つけ出すことができます。そして私たちがすでに降伏されていることを見つけ出します。このクリスマスの喜びがいよいよ確かにされ、またこの喜びを伝えることができますように用いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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