12月12日説教原稿

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12月12日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などで用いてください

ルカ3:10-17 「生活の中にこそ」
実が問われる
いよいよアドベントも第三週となりました。イエス様を喜んでお迎えするクリスマスが近づいています。イエス様が来られる、いや、今すでに私たちのところに来てくださっているとも言えますが、それはいったいどのようなことなのか、このところから改めて読み取っていきます。今日のところは先週ご一緒に読みました、洗礼者ヨハネが神様から言葉を受けて、荒れ野で叫んだ、という旧約預言の通りに人々に神様の言葉を語った、その後の出来事について記されています。人々は、ヨハネのところに来たのです。そして彼から言葉を聞いて、かなり驚いたようです。このところでは、特に前半部分と言える10-14節の間に3回も「では、どうしたらよいのですか」という言葉が、語られています。これは少し前にはやりました「それではどう生きるのか」というような哲学的な問いではありません。むしろ、もっと切羽詰まった、これはこまった、どうしよう、という思いのこもった言葉です。なぜそうなったのかといいますとそれは、ヨハネが語った言葉が、人々の心に刺さったからです。ヨハネは、今日の範囲の少し前、9節でこのように言っています。「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。

どうすれば
この所だけを見ますと大変厳しいことばです。しかし、あえて言いますと、これは事実を伝えている言葉でもあるのです。私たちは、イエス様が来られることを喜びます。それは基本的にうれしいことです。しかし、それは、ただただ、私たちがそのままであってよい、ということではありません。あるいは、ヨハネは厳しいことを言う役割で、イエス様は優しい方だ、というように理解して事足りるわけでもありません。洗礼者ヨハネは今日のところの16節でイエス様について「聖霊と火で洗礼を授ける」と言っています。そしてイエス様ご自身が、同じルカ12章では「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(49節)と言われました。これだけ聞いていますと何やら物騒ですが、ある意味でイエス様は、私たちを徹底的に変えるために来られた、ともいえるのです。こんなことを言いますと、もう、脅かして、とか、この説教、いったいどっちに行くのだろうか、と思われるかもしれませんが、あえて言いますと、私たちもまたこのヨハネの話を聞いた人たちの心持、すなわち驚き、びくびくするような心を味わいたいのです。それは、いわば、おしりに火が付いた状態です。何か、失敗をしたときに、あるいは、なんとなく嫌なことが起こりそうなときに、思わず、「やばい」と心の中でつぶやいてしまう、そんな心持です。この時、ヨハネの周りに集まっていた人たちが感じたのは、このむずむずするような、心がざわざわとするような、焦って何とかしなくちゃと思うような、そんな感覚です。そして、それは実は悪いものではないのです。なぜなら、そもそも、私たちは神様の前にそのようなものであるからです。

基本は「人を大切に」
と言いましても、そのようなものっていったいどんなものだ、と思われたでしょうか。一言で言えば、負い目があるものです。有名な伝道者パウロの書いたローマ人への手紙13章にこんな言葉があります。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ローマ13:8)。互いに愛し合うことの他、ですから、それ以外我々には借りはないようにしようという呼びかけです。一方で人を愛することについては、お互いに愛し合うことについては、私たちにはいつでも、いつまででも借りがある、あるいは、借りばかりだ、いつも互いに愛し合うことにしくじっている、とパウロ自身が認めているのです。それで、人を愛する者は、律法を全うする、と続きますから、私たちは、ついにまともに律法を実現できていないし、これからも実現する見込みがない、少なくとも、このままの私では、ということになるはずなのです。それで例えば、このところで、群衆がヨハネに質問しているところがあります。「どうしたらいいのですか」と聞かれたヨハネはすかさず答えます。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。これは律法の求める憐れみを行え、ということです。一見正しそうなことをするのではなく、ただ、本当に隣人を憐れむのです。その場合、本当にというのがきもです。

どのような職業であろうと
そこでこの後の二つの質問と答えもまた、基本的には同じ事柄を私たちに突き付けます。一つは徴税人、もう一つは兵士です。徴税人はルカではザアカイの話で有名です。彼は、ローマ人から税の取り立てを請け負って暮らしていました。いわば、裏切り者であり、律法の観点からは不浄な存在です。それから、このところでいう兵士とは、おそらくヘロデに雇われた地元の傭兵だと思われます。こちらもユダヤ人一般からはあまり評判が良くなかったようです。しかし、ヨハネは、このような人たちに、その仕事をやめろ、とは言わないのです。そうではなく、自分の仕事において、そこで出会う人たちに対して誠実でれ、憐れみ深くあれ、というのです。余計なものを取り立てないこと、権力を振りかざして、役得を得ようとしないこと、その気になれば、いうことを聞かせることのできる人たちに一切不当な要求をせず、むしろ、その人たちを尊重すること、すなわち、目の前の人を当たり前の人間として、大切にすること。律法が求めるのは、このことです。人を大切にすることです。そして、この律法の要求は私たちにもまた、そのまま当てはまるのです。良い実を結ぶとは、そのように、人を人として本当に大切にすることにほかなりません。しかし、それこそが私たちにとっても、ほかでもない私自身そう感じますが、できにくいのです。私情が入るのです。自分可愛さが入るのです。感情が入るのです。好き嫌いが入るのです。まずは自分のことが優先になるのです。これに対して、ヨハネは、メシアの訪れを告げます。それが、15節以下の所です。

メシアの役割
そしてヨハネが描き出すメシアは、ある意味では激しい方です。すでに確認した通り、聖霊と火で洗礼を授ける方です。そしてこの聖霊と火とは、あの使徒言行録の2章で、激しい風のような音とともにやってきて弟子たちの上に炎のようなしるしが現れるというところで実現しているのですが、問題はこの聖霊と火の洗礼とはいったい何を目指しているのかです。あの使徒言行録において、弟子たちは異国の言葉を語りましたが、そこで重要なのは単に外国の言葉を語れた、ということではなく、むしろ、大胆にイエス様について語るようになったことのほうです。そこで弟子たちの中に、何らかの変化が起きたのです。それまで弟子たちは、語る言葉を持っていなかったのです。あるいは、持っていないと思い込んでいたのかもしれません。自分には何かを語る資格はない、と感じていたのかもしれません。けれども、そこに聖霊のご支配がはじまったときには、彼らは新たなものとされたのです。それは、弟子たちの中で何かが大きく変化した、それも彼らの内面で、自分に対する見方の何かが、大きく変わった、としか思えません。私たちにしましても、自分の中にしっかりとしたものがなければ、自信を持って語ることはできません。しかし、自分に語る言葉があれば、それを語るのは難しくありません。メシアがもたらすもの、すなわち、イエス様がもたらすものは、このような意味での私たち自身の変化です。

収穫を目指す
では、そのような変化はどのようにして現れるのでしょうか。もちろん、それは、聖霊と火による変化です。しかしそれは私たちの内面の変化ですから、こうやって、こうなって、というように説明できないのかもしれません。ただ、このところでヨハネがメシアについて語る言葉には、はっきりと収穫の様子が語られています。これはとても大切なことで、イエス様が来られるのは、収穫のためであって、ただただ裁き、焼き尽くすためではないという決定的な事実をこのところから読み取ることができます。もちろん、余分なものは焼かれるのですけれども、それはあくまで、いるものといらないものとが分けられた後なのです。そして、私たち自身は明らかに神様にとって必要なもの、集められるべきものなのです。人間自身は大切な実りなのです。しかし、その実りである人間には、余計なものがまとわりついているのです。それでイエス様は、より分け掃除をする、そんな姿で描かれているのです。それが、麦ともみ殻とを分けて、麦を集め、もみ殻を焼いてしまう、という言葉の意味です。それは「脱穀場」の様子として描かれています。私たちの人生がこの脱穀場なのです。私たちは人生の中で、イエス様に促されて、いらないものを手放していくのです。

隅々まできれいに
ですから、このところで「脱穀場を隅々まできれいにして」というのは、実はとても素敵な言葉です。私たち自身にまとわりついている、様々なゆがんだ自己愛、なんでも自分を基準にしかものを見られないあり方、山上の教えでイエス様が私たちの目の梁と呼んだ大きくて邪魔であるにもかかわらず、わたしたちが自分ではどうすることもできないあの偏見といったもの、それが取り払われていくのです。そして、このようにしてきれいにされていくことにおいて、私たちは、ようやく、あのヨハネの呼びかけ、「良い実を結ぶこと」について、完全ではないにしても、それぞれの仕方で、隣人の必要に応えることのできるものへと、変えられていくのです。それはもっと言えば、イエス様の裁きに耐えることのできるものへと変えられていくとも言えます。それをしてくださるのもまた、イエス様ご自身であり、イエス様が遣わされる聖霊なる神様です。

再び、どうしたらよいか
それで、私たちは、このところで人々が挙げている言葉「ではわたしたちはどうすればよいのですか」に対して、一つのはっきりとした答えを持っていると言えます。イエス様によって私を裁いていただくのです。私が実は失敗ばかりで、人を愛することにおいて、まるでなっていないものであることをはっきりとさせていただき、そして、その原因となっている罪を手放せるように、裁いていただくのです。それは、必ずしも、私たちにとって気楽な、気軽な時ではないかもしれません。しかし、この裁きには、イエス様の愛があり癒しがあります。また、実際にそれを信じ期待できるのです。その際、先ほどすでにお話ししました通り、何か特別な場所、特別な出来事は必要ありません。山にこもって修行をする必要はなく、今か今かと、特別な出来事を待っている必要もありません。わたしたちが今日の午後からでも、明日の朝からでも、何気ない日常において、そこで出会う人たち、その関係において、時に厳しく感じられるような関係において、わたしたちがイエス様に取り扱っていただけるのです。

生活の中にこそ
そこで、最後に確認します。イエス様が来てくださったことで私たちの生活の意味が変わってしまっています。私たちの日常はイエス様と一緒に歩むものとなり、「私たちはどうすればよいのですか」という問いは、心のざわめきは、イエス様と一緒に答えを探す冒険の時となっているのです。私たちがどう生きるべきか、その答えは私たち自身の生活の中にあります。これこそがイエス様の訪れによって決定的に変わった私たちの生活です。

祈り
父なる神様。あなたがみ子を私たちに遣わして下さりましたことを感謝します。それによってあなたは、私たちの生活を全く新しいものへと作り変えてくださろうとしておられます。今私たちはそのことを改めて教えていただいております。わたしたちがこの週のあゆみにおいても、あなたの裁きと癒しを存分に受け取ってますますキリストに生き、自らを手放していけますように。あなたのご栄光が現わしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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