12月5日説教原稿

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12月5日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです。朗読などで用いてください

ルカ3:1-6
神の国の始まり
今日の説教題は「目の前にある言葉」としました。なぜなら、ただいまお読みしましたこのルカの個所で起きていることは、私たちの目の前に、神様の言葉がどんとやってくる、その様子を描いたところだからです。このところは、一見しますと旧約聖書の預言書の書き出しに似ています。最初に年代について、かなり細かく説明がなされています。それは、皇帝ティベリウスの第15年であった、ということから始まり、ユダヤ地方の総督や領主の名前、そして二人の大祭司の名前も登場しています。これは、はるか昔のことで、私たちにとってはどうでもよいことのように感じられるかもしれません。しかし、もし、このような名前を、例えばアメリカの大統領はバイデンさんの2年目でもうじき中間選挙、中国では習近平さんが三期目を目指していて、日本では岸田内閣が誕生したところ、というように言い直したらだいぶ現実的な話のような気がしてこないでしょうか。これは、決して私たちにとって遠い話ではありません。今日はそのことを一緒に確かめたいのです。

この世のただなかで
ここに取り上げられた人たちの特徴を一言で言えば、権力者、この世の統治者、権威者たちであるということです。同時に彼らは残念ながら神様からは遠い存在であるかもしれません。あるいは大祭司は本来であれば聖書の神様の側に立っている人たちのはずですが、実際にはそのあたりもかなり怪しい、ということは福音書や、使徒言行録を見ても明らかです。そういった意味で、神様から遠い人たち、むしろ、この世界を神様抜きで動かしている人たち、自分たちの力によって圧倒的に世界を支配しているように見える人たち、そういった世界の様子が語られ、そのど真ん中で、しかし、確かに神様の業は始まっていくと続いているのです。それは先ほど確認しました、私たちの住みます現代のこの社会の中においても全く同じはずです。アメリカと中国が火花を散らしていて、日本はどうしたらいいのか困ってしまっている、この状況の中に、それとは全く関係ないようでありながら、また、そのような世界の大問題と比べてあまりに小さいように思えるところ、すなわち、この教会のようなところからこそ、実は神様の業は働き始めるのです。その意味では、神様の言葉は、私たち教会の中だけのものではないのです。聖書が読まれ、説教が語られ聞かれる、ということは、ただ教会の営みがそうであるから、ではとどまらないのです。誇大妄想と思われるでしょうか。しかし、今、ここで語られている言葉にいくぶんかでも、神様の真実があるなら、わたしはあると信じていますが、その言葉から、新しいことは始まるのです。今日の2節後半はこうでした。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。このところを新しい聖書教会共同訳では「ヨハネに臨んだ」と訳しています。本当に直訳すれば、ヨハネの上にあった、となるかもしれません。いずれにしても、たった一人の人に言葉が臨むのです。そして新しいことが始まるのです。そこでまず覚えておきたいことがあります。

神の言葉が響く
それはわたしたちが神の国と言ったり、神様のみざわ、御心と言ったりする場合に、それはどのようにして現れるのかといいますと、言葉であるという事実です。他ではないのです。神秘的な何かでもないのです。そうではなくて、神様の思いは明確に言葉によって表されるのです。このところでは、預言者イザヤの書が引き合いに出されています。イザヤに与えられた言葉によって、ヨハネが何をするのかが、語りなおされています。そしてこのイザヤの言葉は、長い年月いち続けてきた言葉です。神様の言葉は、本物の神様の言葉は、一度与えられると死なないのです。空しくならないのです。かえって実現していくのです。大切にされた神様の言葉は、やがて数百年の時を超えて、現実を変える力を持つのです。全く同じことは、この聖書全体に言えます。この聖書の言葉が、人々を奮い立たせ、それぞれの時代ごとに聞き直されて、そしてそのたびに世界が、政治が変わったのはすでに歴史を見れば明らかです。それが最もはっきりと表れたのは宗教改革の時であったかもしれませんが、前の戦争の折にも、同じようにみ言葉が開かれ、聞かれることで教会に集う人たちが強められるということがありましたし、その後、いわゆる共産圏と言われるところで、しぶとく教会が生き続けたのは、このみ言葉の力によるもの以外ではありえません。聖書のみ言葉が、実際に人を生かすのです。

始めるのは一人
それから、もう一つ確かめたい事柄があります。それは、神様がご自身の業を地上で始められ、ご自身の御心を言葉で表される場合に、その始まりはたった一人の人からだった、というこのところのあり方です。ここでは、すでに確認しました通り、神様の言葉は「ヨハネに臨んだ」のでした。それはとても小さな、ひそやかな始まり方と言えます。なにしろ、ただ一人の人だけが神様の言葉に触れたのですから。しかし、もう一つ確かなことは、この言葉は、そのままでは終わらない、ということです。この言葉には、人をつき動かす力がありました。それから大切なのは、この言葉の働きは、ただヨハネが頑張った、というだけではないのです。むしろ、ヨハネに聞く人たちがいたのです。今日は読みませんでしたけれども、この後のことを読むと、多くの人たちがヨハネに聞いたのです。その良心が問われたのです。来週にもう少し丁寧にお話しできると思いますけれども、自分はどう生きるか、と問われたのです。人の心に届いて、自分はいったいという思いを生み出す、そのようにして人の心を開かせる力が神様の言葉にあったのです。そこで、私たちが今、このところで目指すことがあるとすれば、この言葉に巻き込まれてしまう、という言い方はちょっと変かもしれませんが、神様の言葉に身を任せる大胆さではないでしょうか。なぜなら、このヨハネから始まった言葉の目指す先は、私たちが変割ってしまうこと、だからです。3節はこのように語ります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。

悔い改める
ここでは二つの大切なことが言われています。一つは罪の赦しです。もう一つは、悔い改めです。しかし、この二つのことは別々ではありません。なぜなら、わたしたちが持つ罪とは、突き詰めていきますと、わたしたちが神様ではなく、自分に従って生きているというそのあり方そのものだからです。冒頭で、この世の支配者たちは自分たちの力に頼って世界を支配しているように見える、ということをお話ししました。翻って私たちはどうでしょうか。私たちもまた、この世界のやり方に倣って、そのやり方に調子を合わせていて生きているのではないでしょうか。さらに言えば、どうやってこの世の競争を勝ち抜くか、できれば勝ち組に入りたい、少なくとも、負け組にはなりたくない、ほとんど無意識に、そんな思いで日々を送っているところがあるのではないでしょうか。そこには、神様の御心が入り込む余地は実はあまりないかもしれません。しかし、そのあり方、私たちの性根というのでしょうか、その部分が変わる、くるりと回転して人生の向きが変わる、神様を大切にするという方向に変わる、というのが「悔い改め」とという言葉の意味です。これは何によって起こるかといいますと、神様の言葉に耳を傾けることによってだけです。聞くことによってです。もちろん、最終的には私たちを変えるのはイエス様だ、ということになるのですけれども、その場合に、イエス様が何をしてくださったのか、また、今も何をして降るのか、を知らせるのもまた言葉です。このところでヨハネに降った言葉が導いていく先にあるのが、イエス様との出会いです。

道が整えられる-この時代は?
それをこのところでは、イザヤ書にある預言の言葉の実現としてとらえているのです。4節をもう一度読んでみます。「ルカ 3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」。人々に呼び掛ける声は言うまでもなくヨハネです。そして、ヨハネが神様から与えられて語っている言葉こそが、この「主の道を備えよ」という言葉です。それは、先ほどお話しした言葉で言えば、我々が、悔い改める、ということになります。私たちが悔い改めるとは、イエス様と出会い、イエス様と向き合うことです。主の道を整えるということは、まさにこのことです。しかし、そこで一つ疑問があります。それは、私たちのところに届いた神様の言葉は、私たちのところで止まったままになるのか、です。私たちは、今、荒れ野で叫ぶ声、悔い改めを促す声を聖書を通して聴きました。しかし、この声を、私たちは、自分の心にとどめてしまって、ああ、よい話を聞いた、ということで終わってしまっていいのでしょうか。そのようにして、神様のご計画を成し遂げていく言葉を、私たちのところで、とどめてしまっていいのでしょうか。

現代のヨハネ?
もちろん、私たちは、誰もが、ヨハネのように、ただ一人で声をあげることへと召されているわけではないでしょう。むしろ、私たちの誰かが、それこそ、教会の前に出て行って、突然声をあげても、それが伝わることはおそらくないはずです。しかし、だからといって、この話は教会だけのこと、ここを出ていったらおしまい、にしてよいのかといえばそれも違うと言いたいのです。私たちは、この世界に語り掛ける声をあげることができるはずです。丁度、ヨハネが世の支配者たちの真ん中で、荒れ野で叫ぶ声として立てられたように、私たちのこの時代において、わたしたちの住むこの世界で、荒れ野で叫ぶ声のようにして、悔い改めを語りだす言葉を、教会は語るべきです。それも全く抽象的なことではなく、例えば3:5 で「谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、」とあるように、この世界自体が変わっていくような、神様の道が示されていくような言葉を私たちは語ることへと召されているはずなのです。もちろん、その場合に、牧師が説教を語ることをもって、その勤めがなされる、というのはある意味では正しい認識かもしれません。しかし、それだけではないと、私は考えています。むしろ、牧師がただ語るだけで終わってはいけないのです。むしろ、私たちの間で、新しいことが始まっていくのです。

我々が語るため
すでにお話しした通り、主の道、とはイエス様の道です。そして私たちには、それぞれに、今ここにおられる一人一人それぞれ独自に、イエス様が通られる道があるのです。或いは、そのような道ができるのです。その道は生涯をかけて強く太くなっていくのです。そのイエス様の通られる道をまっすぐにする、すなわち、イエス様に聞いていく、ということは実際に私たち自身のありかたとして「谷が埋められ、山と丘が平らにされる」ですとか、「曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり」ということが起きていく、という意味です。そして、私たちのあり方、教会の中でのお互いのかかわり方もまた変わっていくのです。そのようにして、私たちが変わっていくときに、それは、この世界に対して、全く新しい出来事を示していくことになるのです。私たちのあり方が変わっていくことによって、そこに神様の言葉の響きが現れるのです。その場合に、特に注目したいのが6節の言葉です。「人は皆神の救いを仰ぎ見る」。この場合の「人」は、集合的な意味です。人々、この地上で生きている人たちみんな、くらいの意味です。教会の前の家々に住んでいる人たち、私たちそれぞれの街の人たち、職場の人たち、いろいろな人たちが、教会において、神様の救いが現れているのを見る、というのです。私たち自身が変えられることにおいて実際に「曲がった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らに」なり、神様の栄光が表されるのです。

目の前にある言葉
そのようにして、日々変わっていく私たちを周りから見たらどうなるか、という視点で、「 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」という言葉を読みたいのです。わたしたちはただ、神様の言葉を聞くだけではなく、私たち自体が一つの群れとして、この世界に生きる証をするものとされるのです。その時には、私たち自身がお互いに、神様の言葉そのものになるのです。

祈り
父なる神様。尊いみ名を賛美します。あなたは、私たちを救うために、一人子を与えてくださいました。私たちは今、その訪れを毎週心待ちにして過ごしています。あなたのみ言葉を頼りに御子の訪れを喜び迎えたいと願っています。どうぞわたしたちが、この御子をお迎えする喜びによって、あなたのご栄光を現し、そして、私たち自身があなたの言葉になって、世に証するものとなっていけますように、この週の歩みをもあなたが祝福し用いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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