毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ6:10-20 「教会の闘いとは」
戦いはある?
今日の説教題は「教会の闘いとは」です。キリスト教会に闘いがあるのか、教会とは平和な場所、穏やかな場所ではないのか、と思われるかもしれません。ある意味ではその通りで、教会は平和な場所であり、すでにイエス様によって勝利を約束された場所ということもできます。例えば今日の15節では平和の福音ということが言われていますし、17節には「救いの兜」という言葉もあります。私たちは、すでに救われて、私の頭も体もイエス様によって守られているのは全くその通りです。しかし、ここでは、改めてパウロが、私たちを含む読者に「強くなれ」といいます。もちろん、それは「主により頼んで」ですから、私たちの肉体の力の話ではありません。わたしたちが体を鍛える、武道を習うといったことではないのです。むしろ、教会の闘いは、人間を武力や、あるいは知恵で、あるいは経済力で従わせることではありません。なぜなら12節でそもそもこの闘いは「血肉に対するものではない」とはっきりと書いてあるからです。
悪の存在
ではわたしたちは何に対して闘うのかといいますと、11節に「悪魔の策略に対抗して」という言葉があります。さらに、12節では「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものです」とはっきりと書いてあります。しかし、このようなところを読みますと、私たちは、今ひとつピンとこないのかもしれません。それは、この聖書が書かれた時代の世界観と、私たちの世界観がかなり違っているからです。たとえば、「天にいる悪の諸霊」と言われてもどんなものか想像がつきませんし、「天の」といいますと、私たちは、すぐに神様のことを思い浮かべますから、「えっ、天に悪霊がいるのか」と思ってしまいますが、おそらくこれは、この時代においては、天が何層もあって、例えばパウロはコリント書(コリント下12:2)で「キリストに結ばれたある人が第三の天に引き上げられた」といいます。これは、イエス様のおられる天こそが本当の天上であり、最も高く突き抜けたところであるという見方です。一方、悪魔悪霊は黙示録によれば、地上に投げ出された(黙示12:13)とありますから、むしろ、この世界に近い程度の低い天ということになります。このことを同じエフェソ書では2:2でこう言っていました。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」となっていました。この世界、私たちの世界に悪霊の働きがあるというのです。そこで気になるのは、「今も働く霊に従い」という言葉です。
人を支配する霊
ここではっきりと確認したいことがあります。それは、この闘いは、ただ私たちの内面、わたしたちがキリスト者としてどうであるか、互いに愛し合えるか、という部分があるのはもちろんですが、それに限られないということです。世界の流れを見ますと、なぜああなったのか、という出来事は多くあります。最も悲惨な例は、第二次世界大戦と、そこに至る過程かもしれません。なぜ、ドイツでナチスがあれほど支持されたのか、なぜ、イギリスはずっと融和外交を続けたのか、そもそも、なぜヒットラーは野心をもって政治家を志したのか、彼の中でどんな心の動きがあったのか、など疑問は尽きません。同じことは戦前の日本にも問えるかもしれません。はっきり言って私たちにとりまして、天が何層あるのかはあまり問題ではありません。しかし、今も、問題解決のためには、戦闘やむなし、という話がこの日本社会でもちらほら出てきているのもまた事実です。もう少し軽い話としては、少し前にテレビで西武鉄道のコマーシャルを見ました。秩父の観光名所を紹介する場面で「パワースポット」という言葉が登場していました。そうしますと、私たちは、半分冗談のようにしながらも、なんとなくゲンを担ぐような、この世でうまくやっていくためには、運も必要だ、それには得体のしれない霊的な世界の力が働いている、といったことを漠然と感じているような社会に生きている、ということになります。
強くしっかりと立つ
このような中で、教会は、あるいは教会だけが、別の霊の支配、神様の霊の支配に立っています。それは、このところの言葉では平和の福音に立っている、と言い換えられます。ですからパウロは私たちに、悪の力に対抗するために「強くなれ」と最初に宣言していました。そして、これに続く13節では「邪悪な日に抵抗して、すべてを成し遂げ、しっかりと立つことできるように」といいます。この「邪悪な日」とは、特別な悪いある一日ではありませんし、そもそも、だれか特定の人物が邪悪だというのでもありません。当たり前の社会の中の当たり前の人たちの中に、邪悪さが働いているという意味です。その中に強化が存在しているのです。ところで以前にもお話ししましたが、私たちの教会イメージは、どちらかといえば小さい教会というものかもしれません。確かに社会的には誠に小さな教会です。そのわたしたちが社会の流れにさおさして、平和を実現する、というととても大きなことなどできるのだろうか、と思えてしまうかもしれません。しかし、そのために、ここでは、武具を手に取るようにと勧められています。「神の武具を身につけなさい」とあるとおりです。命令の「武具」という言葉は、完全武装という意味があるようで、当時のローマ軍の装備が意識されているようです。もちろん、これもたとえです。このところでは、六つの装備が、挙げられていますが、五つは守りのため、そして、唯一の攻撃のための武器が剣に譬えられた「み言葉」です。そして、重要なのは、これらは、みな、イエス様から私たちに差し出されていて、わたしたちが身に着けられるものだということです。
この世界のため強くなる-既に強い?
本来であれば、この一つ一つの武装について、その言わんとするところを丁寧に考えてみるのがよいかもしれません。しかし、今日はただ一つの言葉を注目します。それは、ここで「信仰の盾」とある言葉です。これは、新解釈聖書では「信仰の大盾」と訳されていました。この言葉はどちらかというと全身が隠れることのできるような盾の意味のようです。私たちを覆うのです。信仰とはそのようなものだというのです。わたしたちが、信仰を投げ出さない限り、この大盾の陰にあって守られるというのです。この盾は、ものすごい性能を持っています。なにしろ「悪いものの放つ火の矢をことごとくけすことができる」と16節に書いてあります。先ほど、この一見何でもないように見える世界の中で働いている邪悪さが、一番恐ろしいということをお話ししました。それは、もっと具体的には、小さなことから、大きなことまで、私たちには、危機的な出来事として現れてくるものです。そこで私たちがどうなるのか、と言いますと、実はこの盾によって既に守られている、というのがパウロの結論です。苦難は誰にでもやってきます。その時に私たちは、どうして、と疑いの思いを持ちます。そのような疑い迷いこそ、このところでいう「悪いものの放つ火の矢」です。しかし、子の大盾の中にいる限り、そのような疑い迷いの火の矢はやがて消し止められるというのです。
しかし祈りこそ
それで私たちは、具体的な生活の中で出会う様々な困難や、この世界の中でかかわりを持つ困った状況の中でも耐えていくことができます。その場合に、私たちにただ一つのことが求められています。それは、18節以下に書かれています祈りです。そしてこの祈りもまた、霊に助けられて、とありますから、神様に助けられてということです。そのうえで、私たちに求められているのは、どのような時にも、ということであり、たえず目を覚まして根気よく、とある通りです。もちろん、これは、休んではならない、睡眠をとってはならない、という意味ではありません。そうではなく、わたしたちが、日常で出会うすべてのことにおいて、神様との関係で考え、神様との関係で祈っていく、というその態度です。そこがはっきりとしていることが、目を覚ましている状態です。逆に、神様を忘れて、祈ることを忘れている状態が眠っている状態です。それでもし、一つだけわたしたちが注意すべきことがあるとすれば、漫然と祈ることを忘れて生活してしまう状態です。
互いのために祈る
それゆえに、私たち教会に集まるものの闘いは、祈りの戦いです。そこでは、肉体の強さは求められません。向こう見ずな勇敢さも求められません。そうではなく、むしろ、自らの弱さに気づき、率直に認める素直さ、また、お互いの弱さに思いを寄せあう愛が求められます。そして、自らの弱さを認め、他者への配慮を忘れないということこそが本当に勇敢な心なのではないでしょうか。しかも、パウロは、このところで、そのようなそれぞれの勇敢さを求めることで終わっていません。彼は、まさに率直に自分のために祈ってほしいと願っています。20節を見ますと、「鎖につながれている」とあります。「福音を語るものとして」、とありますから、伝道の中でのトラブルによってということです。使徒言行録では、21章でエルサレムに言った時に神殿で逮捕される様子が描かれていました。犯罪ではなく福音のためにとらわれることがしばしばあったようです。しかし、そのような状況でも、パウロは語るべきことは大胆に語ることができるように、祈ってください、と頼んでいます。
祈りの力
それはパウロがとりなしの祈りの力を信じていたからです。そしてこれは、わたしたちが、困ったときにまず何をするのかということとそのまま結びついています。問題が起きたときにどうするのか、とりあえずスマホで検索してなのか、専門家に相談にいくのか、もちろん、それもありでしょうけれども、パウロの口をついて出たのは「祈ってください」との一言です。それは決して空しい期待ではありません。ただし私は、祈ればなんでもたちどころに解決する、というようなことを言いたいのではありません。祈っても、応えられないことがあります。応えられないこと自体が、祈りの応えという場合もあるかもしれません。しかし、思い出していただきたいのは、信仰が盾と言われていたことです。そしてこの盾には、悪いもの放つ火の矢、それは、放っておけば、不信仰、疑い、神への怒りとなって燃え広がり、その人ばかりでなく、周りの仲間までおかしくしてしまいかねない、危険な炎ですが、それを消してしまう力があるのです。そして、その力によって、私たちは、15節にあるように、どれほど邪悪な日に思える時に至っても、不信仰に抵抗して、すべてを成し遂げてしっかりと立つことができるのです。
教会の闘いとは
祈りとは、何かを手に入れたり、自分の望みをそのまま叶える戦いではありません。むしろそれよりももっと大切なこと、わたしたちが、いつでも神様との関係に生き、神様への信仰に生きていくためになされるものです。そしてその祈りが続く限り、私たちは、しっかりと立っていることができるのです。私たち教会に集まるものの闘いは全くこの意味で祈りの戦いです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、すでに主イエスによって、大きな守りの中に入れられていますから感謝します。なお、この世界には、悪の働きがあり、私たちにもその力が及んでいます。どうぞわたしたちが、この悪しき力に取り込まれるのではなく、硬くあなたのものとして立つことができますように、私たちに祈りの力を与えてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。