11月7日説教原稿

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11月7日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿です。朗読などで用いてください。

エフェソ6:1-9 「主イエスに結ばれて」
説教題の意味
今日の説教題は「主イエスに結ばれて生きる」としました。よく言えば教会らしいと言えますが、一方で月並み、ありがちな題にも思えます。しかし、そもそも、「主イエスに結ばれる」という事態は、決してありがちでも、退屈なことでもありません。むしろ、私たちの生き方そのものが、全く変わる、ある意味では、私たちの人生、人間関係をリセットするようなことであるはずです。その場合に、リセットといいましても、ゲームのように、すべてをゼロにして、最初から始める、全く知らない所に行って一からやり直す、といったことではありません。

人間関係のリセット?
むしろ、先週もそうですけれども、今日の聖書で扱われておりますのは、当時の全く平凡な家庭の中での生き方です。結婚をして、やがて親子になって、財産を築いていく、そのような家には、使用人もいるかもしれません。そのような当時としては当たり前、よくあるような家庭の中での人間関係のそのまさに現場で、具体的にどう生きるのかをこのところは教えています。それも、妻と夫、子と親、奴隷と主人とそれぞれに、基本的には利益が相反する、対立が生まれやすい関係を取り出して、その関係が決定的に変わる、もう、今までのような生き方をしない、するべきではない、と言っているのが今日の所です。そのような生き直しの土台は、間違いなくイエス様です。このところで「主」と書かれているのは基本的にイエス様のことです。ですから、1節では早速「主に結ばれているものとして」とはじまっています。イエス様と一緒に生きている人は、今までとは違う、一味違う生き方をする、それが親子関係なら、両親に従うようにする、今まではそうではなかったかもしれないけれど、ここから変わる、というのです。

現代との関連
ただし、このようなところを読む場合に、時代性というのでしょうか、当然現代から見ると違和感を覚える言葉はあります。最もそれを感じるのは、奴隷という言葉です。当然ですが、奴隷とりわけ、かつてのアメリカで見られたような黒人奴隷、人ではなく持ち物、家畜のように人が扱われ、何の抵抗もできず不当な仕打ちを受ける、といったことを、私たちは認められません。そして、この手紙が書かれた時代の教会は、奴隷制度廃止を声高に主張したわけではない、と言えるかもしれません。ただそれは、奴隷制度をよいものだと考えていたわけでも、無関心であったわけでもなく、むしろ、教会が社会への影響力を持たない中でしかし、ただ手をこまねいているのではなく、むしろ積極的に教会から新しいことを始めようとしていたと言うことはできます。その新しさとは、最初にお話しした通りですが、わたしたちが普段味わっている対立する人間関係において、その対立そのもの、もっとはっきり言えば、相手に言うことを聞かせたい、相手の言うことを聞きたくない、そのような感情のせめぎ合いに切り込んでいって、それをひっくり返してしまう、そんな新しさです。それは、子と親の関係にしましても同じことです。このところでは律法が登場しますけれども、それは機械的に律法に書いてあるから子は親に絶対服従しろというたぐいの教えではありません。そうではなく、むしろ、神様と私たちの関係からすべてを考えていく、という私たちの信仰の形を問うというやり方です。

戒めと約束
その際、私たちがまず確認すべきなのは、当然と言えば当然ですが、神様を信頼する、という私たち自身の信仰です。例えば、2節には「約束」という言葉があります。これは、「契約」と言い換えてもよいのですが、いずれにしましても、旧約聖書の創世記、出エジプト記、あるいは民数記、申命記を含め神様がノアやアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人たちとの間で祝福と共に「あなたの神になる」と言ってくださったことを指しています。さらに言いますと、この約束は、イエス様によってイスラエルだけのものではなく、私たちのものとなっているという事実があります。ここもまた、私たちの物の見方が問われます。聖書に書いてある言葉、これは誰に対するものか、というところで、これは私のことだ、私のものだ、ということへの気づきが大切です。なぜなら、このところがはっきりしませんと、このエフェソ書で語られております生き方は、それこそ絵空事になってしまうからです。では、もう少し具体的に神様を信じるとはどのようなことでしょうか。

詩編73編から考える
例えば、このところの8節には次のような言葉があります。「良いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」。あるいは9節はこうです。「同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」。言わんとすることはほぼ同じです。神様はすべてのことをご存じで、すべての人に対して公平に見ておられ、また、公平に報いて下さる、という意味です。しかし、まさにこのことが、信仰者にとっても、なかなか腹に座らない、とも言えます。例えば、有名な詩編73編はこう語ります。「神に逆らう者の安泰をみて、わたしは驕るものを羨んだ」(73:3)。信仰者の言葉です。エズラ記2章には「詠唱者。アサフの一族」(2:41)とあります。当時の指導者ゼルバベルらとともに、神殿再建をするためにペルシャから進んでエルサレムに帰っていった人たちの中でも礼拝の賛美を担当するいわば主要メンバーです。そのアサフが、神様を無視している人たちが、勝手気ままにふるまっているにもかかわらず、豊かに面白おかしく暮らしていて、それだけではなく、弱い人たちを虐げているのに、特に悪いことが起こることもなく安穏としているように見えて、羨ましいというのです。ずいぶんな本音ですが、これが詩編になっていることもまた、ある意味ではすごいことです。そして私たちもまた、このような思いにさいなまれながら、生きてしまうことがあるかもしれません。

イエスのみ前で
しかし、詩編73編には続きがありました。アサフはひどい心の葛藤の中で、神様を見出しています。そしてこのように語っています。「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので常にわたしは御もとにとどまることができる」(73:23)。すでに私たちは、今日のところの1節の言葉を確認しました。それは「主に結ばれている者」でした。私たちは主イエスに結ばれています。それは、アサフと全く同じです。「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので私はみもとにとどまることができる」神様とイエス様と一緒にいることができる、というのです。そしてこのエフェソの勧めの個所を見ますと、この「主」、あるいは「キリスト」という言葉がちりばめられていることに気づきます。先ほどの1節を筆頭に、4節では「主がしつけられるように」とありますし、5節では「キリストに従うように」、6節では「キリストの奴隷として」、7節でも「主に仕えるように」、8節では「主から報いを」、9節では「主人が天におられ」とあります。これらのことは、私たちの日常生活の一切のあらゆる場面に、イエス様が一緒におられるという意味です。あなたたちは、いつでも神様の前に、イエス様の前に生きている、あなたたちが人を見ているように思っているその所で、あなたたちが人にしていることは、実はイエス様の前にしていることだ、というのです。

すべてに共通すること=人を恐れないへつらわない
そこで私たちに求められていることが一つだけあるとすれば、それは、人を恐れないことではないか、と私は考えています。先週は連合長老会、連合執事会の例会がそれぞれにありました。わたしはZOOMを通してですが長老会の方に出ました。坂井先生が講師に立たれて、説教を聞くことについて語って下さり良い示唆をいただきましたが、その中で、かつて神港教会の牧師であり名説教者と言われた田中剛二先生から、東京恩寵教会の吉馴姉、この方も、大学の先生ですが、その姉妹にあてた手紙を紹介してくださいました。その中の一文にこうあったのが印象に残りました。細かな表現は違うかもしれませんが「教会には、神を畏れ、人を恐れない牧師が必要なのはもちろんだが、同じように、神を畏れ人を恐れない長老たちが居なければ立たない」ということを書かれたそうです。念のために、この場合の「人を恐れない」というのは、人を見下したり、他人に対抗して我を通すという意味でないのは当然です。或いは、人に勝とうなどと考えているのは、まさに人に振り回されている証拠です。それは、このエフェソ書の言葉では、例えば6節にある「人にへつらおうとして、うわべだけで」とあることです。あの人は、こういっている、あるはあの人はこういいそうだ、だからご機嫌を取って、ここは一つ下でに出て、うまく乗り切ろう、といったようなことです。その場合に、最も気にしているのは、人です。相手の出方です。

心から御心を
そうではなく、6節では、目の前の人がどうであろうと、あなた方は、キリストの奴隷として、心から神様の御心を行え、というのがこのところで勧められています。目の前の人に振り回されないのです。むしろ、目の前の人を恐れるのではなく、今このところで私を見てくださっているイエス様を畏れて、神様のみ旨、イエス様の望まれることがなんであるかを考えて生きていく、ということです。これを指して、ルターは「キリスト者の自由」ということを言いました。私たちは、全くこの意味で自由なものです。なぜなら、ただイエス様を根拠として、人の目から自由にされているからです。一方で、私たちは、すべての人たちから自由ですが、イエス様の御心を実現する義務がある、という点では、イエス様とそしてすべての人の僕の位置に立っている、とも言えます。しかし、いずれにしても、大切なのは、目の前の人のご機嫌ではなく、イエス様を見上げて生きているというその視点です。

畏れおののきは期待の意味
それは具体的には6節にあるような状態です。これは奴隷に対する教えです。でも、私たちにもそのまま当てはまります。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」。肉による主人ですから、具体的な人間です。人間を目の前にして、立場上、その人の言うことを聞かなければならないという場面で、しかし、私たちの目は、その人を透かして、イエス様を見ているというのです。それから、恐れおののき、という言葉は、目の前にいる人を、イエス様のように恐れなさい、ということではありません。そうではなく、私たちを生かしてくださるのはイエス様である、という意味での恐れをもって、そのイエス様の前で何かをすることに恐れをもって、真心から、という意味です。

主イエスに結ばれて生きる
しかし、いずれにしても、私たちにとって肝となるのは、このイエス様のみ前で、ということです。イエス様と結ばれているという事実です。わたしたちがこのことを体得していく場こそ、この世界での具体的な人生です。そして、そこでイエス様と結ばれて生きていくこと自体が、実はこのところにある、幸福になるという約束の実現です。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、あなたが定められた主イエスの贖いによって、全く自由なものとなっておりますから感謝します。しかし、私たちは同時に、あなたの僕、主イエスの僕です。わたしたちが、このことをますます知って、人を恐れることなく大胆にあなたに仕えていくことができますように。この週のあゆみにおいても、あなたのご支配がますます鮮やかになりますように、私たちの歩みを整えてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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