10月31日説教原稿

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10月31日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿です。朗読などで用いてください

エフェソ5:21-33 「最も大切なこと」
大切なのはお互い様
今日の説教題は「最も大切なこと」としました。「最も」ですから、これが一番、これ以外にない、ということは何か、という話です。それを一緒に探してみましょう、という意味でこの題をつけました。それで、今日のところは主に結婚について教えているところ、というように理解されてきました。確かに、先週も少し確認しましたけれども、このところが結婚について、それから6章の最初の二つの段落は、子どもと親、奴隷と主人、現代で言えば、従業員と雇用主といった具体的なことが語られているのは間違いありません。ただ、その場合にこれも先週もお話ししたかもしれませんが、このようなところを読みます時に、それぞれを、こういう場合はこうする、例えば結婚なら結婚生活ではこうするべきだ、いわゆるハウツーのように、こうすれば夫婦円満、といったものとして読むこともできますが、多分それだけでは十分ではありません。むしろ、大きな流れの中でここを読みたいのです。その場合、大切なのは前の段落で2回も登場しました(10,17節)「主の御心」、イエス様が何を望んでおられるかです。実際に夫婦として生きる、家族として生きる、企業のメンバーとして生きる、その具体的な生活の中でキリスト者として「御心を訪ねていく」という方向で読みたいのです。

キリストを畏れる
それから、このところを読みます時に、やはり、といいますか、少々時代を感じますのは、最初に妻に対して、夫への服従が命じられているような書き方です。日本でもようやく、男女平等についての議論が盛り上がってきているところですが、そのような中にあって、まず妻に対して夫に服従せよ、と説き始めるこのところの言葉は、まるで時代に逆行している、あるいは、こんな言葉があるから、男が勘違いするのだ、差別を助長する言葉だ、と批判されても仕方がないかもしれません。また、確かに、この22-24節の妻への勧めの部分だけつまみ食いして、都合よく解釈されてしまう可能性はいつでもあります。しかし、もちろんそのような読み方は正しくありません。そして、このところを正しく読んでいくときに大切なのは何といっても21節の言葉です。この結婚について、その後に続く親子関係について、職場の関係について語る聖書を読みます時に、どうしても忘れてはいけないことのかなめが、21節にあるとすらいえます。そこで言われていることはすべてのキリスト者に言われていることです。ところで、私たちもそれぞれに立場があります。夫、妻、親、子、上司、部下、先生、生徒、医師と患者、客と店員その他さまざまな顔を持っていますが、そういったことを超えて、どのような立場であろうとも、イエス様を信じた人は、こうありたい、という言葉です。それは、「互いに仕え合いなさい」という言葉です。このところを聖書協会共同訳では「互いに従いなさい」と訳しています。こちらがほぼ直訳です。もともとの言葉は、「服従する」という意味です。相手よりも自分を下に置くのです。そしてこれがキリスト者の基本的態度なのです。

イエスを畏れる
しかも、ここには一つの具体的な例が付いています。それが「キリストに対する畏れをもって」です。このところの畏れは、字の通り、敬う方の「畏れ」です。イエス様に裁かれるかもしれないから、びくびくと恐れで、怖がって、という意味ではなく、むしろ、ああ、イエス様は素晴らしい方だな、という意味で、本心から敬う思いで、そのようなイエス様への尊敬から出る態度と同じようにして、お互いに従っていくように、というのが、このところの言葉の意味です。ところで私たちには、それぞれ、恩を感じる人がいるのではないでしょうか。この人にはお世話になった、自分が今こうしていられるのもこの人のおかげだ、と思えるような人です。或いはそこまでいかなくても、この人はいい人だな、いつもよくしてくれる、この人のためなら、何か力になってあげたいな、と自然に思える人がいるのではないでしょうか。イエス様を畏れるということは、このような心の動きであるはずです。イエス様のして下さったことが、自分にとってとても素晴らしいので、自分もイエス様に何かして差し上げられれば、と自然に思わされる、そんな思いです。

キリストは何をしてくれているのか?
いわゆる自然な感情、ふつふつと私たちの中で、湧き上がる思い、ということですが、この自然に湧き上がる思いということこそ、服従の前提です。もっとも、その場合、わたしたちが、ああ、ありがたいなあ、イエス様のために何かしたいな、と思えるためには、そもそも、イエス様は私たちに何をしてくださっているのか、について身に染みてわかっていることが前提です。それで、イエス様が何をしてくださったのか、については、今日のところの夫たちへの言葉のなかに、これでもか、としつこいくらいに書かれていますので、いくつかの言葉を読んでみます。決定的な言葉は25節です。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。となっています。このところではっきり知りたいのは、この夫婦関係について語っている箇所は、同時に、あるいは、根本的には、夫婦の話を借りて教会について語っているということです。イエス様は、教会のために、すなわち、私たちキリスト者のために、私たち一人一人のために、ご自身を与えつくしてくださった、自分の命を削るどころか、命そのものを丸ごと投げ出してくださったのです。その目的は、26,27節にある通り、教会をきよめて、栄光に輝くイエス様の教会として、イエス様の前に立たせるため、です。

問題は相互性
私たちは、日ごろ私たちの教会をどのようなものと見ているでしょうか。一つ気になるのは、多くの場合、「この小さな教会」と祈ることです。確かに、人数や経済力を含めた社会への影響力という見方をすれば、「まことに小さな」となるかもしれません。しかし、同時にこの教会は、イエス様がたてた、「栄光に輝く教会」でもあるのです。そしてそれは、ただこの教会堂で日曜日に何をしているのかで、どうこうなるという話ではないのです。目指すべき方向ははっきりとしています。私たちは、栄光の教会を目指します。そして、それは教会での活動というよりは、私たちの一週間の暮らしにかかっているのです。そこで、夫婦、親子、職場、その他社会関係において、このエフェソ書に書かれた言葉にどれほど生きられるかです。そして、すべての関係においては、お互い様、ということが重要になります。最初に、このところは前時代的な、妻が夫に服従することが最初に出てきて、なんだかなあ、というような話をしました。しかし、そこで勘違いしてはいけないのは、夫には多分妻よりも厳しい義務が与えられていることです。それは、先ほど確認した、イエス様が、教会にご自身を与えつくされた、それと同じ愛を、妻にそそぐように、とここで勧められている事実です。改めて、25節を読みます。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。これは自分を丸ごと妻に与える、与えつくす、それほど愛する、ということです。そしてこのことと対応して、初めて妻の夫への服従があるとも言えます。

どちらの責任かではない
しかし、さらに言いますと、そもそも、夫と妻、どちらが、有利か不利か、どちらが先に責任を果たすか、といった議論自体が無意味だというのがこのところの結論です。じつは、今日の所では、夫への勧めの方が長くなっています。難しいことではなく、分量を見ますと、ページの左端の22節から24節まで5行が妻たちへの勧めであるのに対して、その後25節から29節まで、このページの一番長いところは夫への勧めとなっています。ただし、これは、夫の方が義務が多いから、とは言えません。むしろ、そこで語られていることが重要です。先ほどもお読みしたように、夫への勧めは、基本的にイエス様のように、ということだったわけですが、それが具体的に語りなおされるのが、28節です。イエス様が花嫁である栄光ある教会、とても美しい花嫁のような教会をご自身の前に立たせてくださろうとしている、それと同じように、妻を愛するということでしたが、例えば私が妻をイエス様がするように愛するとはいったい何のことか、と思ったとします。その答えは、28節です。

一体性に生きる
「そのように夫も」とあります。これは明らかにイエス様がするように、という意味です。では何をするのかといいますと、「自分の体のように妻を愛さなくてはいけません」と続きます。念のために言いますと、これは、妻を自分の持ち物のようにする、という意味ではありません。むしろ、29節にあるように、だれでも、自分の体を一所懸命ケアするはずです。熱い、寒い、かゆい、痛い、といったことに私たちはとても敏感で、それを解決するために、薬を買ったり、病院に通いつめたりします。病気の症状が少しでも良くなるのならと、かなりの高額な治療でもお金を払います。その自分の体に対する敏感さ、気配り、配慮、愛を、自分の体の延長であるように、妻にも向ける、というのが、この29節の勧めです。そして、このところが目指していることを一言で示しているのが、31節の創世記の引用です。とりわけ「二人は一体となる」という言葉です。これは、互いを互いに、自分の延長のように感じ合っている、ということです。しかし、そこで思い出していただきたいことがあります。これは、あくまで、イエス様と教会の譬えであった、という事実です。

そこに神秘が
ですから、32節で、「この神秘は偉大です」とありますのは、もちろん、理想の夫婦愛のすばらしさ、をも含んでいることでしょうけれども、むしろ、頭であるイエス様と、からだである教会の結びつきが、この互いに互いのことを思っている状態であること、を指しているのではないでしょうか。そして、まずはわたしたちが、イエス様との間に、このような意味での一体感、強い結びつきを持つことが、目指されているはずなのです。しかし、それで終わりではありません。最初にも確認しましたように、そのようなイエス様とのつながりを持つ人は、本当の意味で、イエス様を正しく畏れる人になります。そして、イエス様を正しく畏れる、イエス様への感謝と、服従の思いにあふれている人同士が、互いに仕え合うことをこのところは求めていました。

最も大切なこと
それで、私たちに求められているのは、この関係性に生きることです。まず、私たちとイエス様との関係がしっかりと結ばれていること、そして、それを土台として、互いに教会員同士が、イエス様に対する態度をもってお互いに服従していくこと、そこにおいてはじめてキリストの体が地上で実現するのです。それゆえ、いずれにしても、最も大切であり、すべての原点となるのは、イエス様の愛を知ることです。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、互いを、兄弟姉妹と呼び合います。さらに私たちは、お互いを尊敬し仕え合うものとなることが教えられています。その土台はキリストの愛です。わたしたちが、このキリストの愛に励まされて、この週のあゆみにおいても、与えられた関係の中で愛に生きることができますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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