毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
お気軽にお問い合わせを
「一度礼拝に出席してみたい。」
「教会に行ってみたい。」
「でもどうしたらよいかわからない。」
そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
エフェソ5:15-20 「喜びは無限に」
教会の楽しさ?
今日は「喜びは無限に」という説教題です。ほかでもない、教会には、あるいは教会にこそ、私たちの人生に喜びをもたらすものが無限にたくさんある、それによって私たちの人生が豊かになる、という意味です。それを、今日のこのエフェソ書から読み取っていきたいのです。ただ、このところの文を読みますといわゆる「命令」と思われる言葉が並んでいます。例えば、「細かく気を配って歩みなさい」といった感じです。いつも、細かく気を配っていて、うれしいかな、と思われる方もあるかもしれません。しかし、私たちは、例えば楽しそうな情報に気を配るのは苦痛になりません。どこそこの店はおいしい、ですとか、誰それのコンサートはいい、といったことに気を配るのは別に苦痛ではないはずです。同じようにこのところを、面白くない命令の塊としてではなく、教会において楽しく生きる生き方のコツとして読んでいきたいのです。
たのしく生きるためのガイド
ところで先週は新座志木教会として半日修養会を開催しました。と言いましても残れる人たちだけでこじんまりと、中会75周年記念宣言の学びを行いました。その中でぽつりと出た言葉の一つが「ここに書いてあることは当たり前では」というものでした。わたしも作成に深くかかわったものとして、このような反応が出ることは予想していました。あるいは、してやったりではないですが、最初からその線を狙っていた、と言ってもよいのです。数年前、まだ文書を作る前に委員会内で申し合わせたことの一つに、「原点回帰」というキーワードがありました。当たり前のことを当たり前にする、くらいの意味です。そして、実はこの当たり前のことを当たり前にするのが、簡単なようでなかなか難しいのかもしれません。それから、修養会で印象に残った言葉として、「教会は楽しいところだった」という言葉があります。教会とは本来楽しいところ、これもまた大切であり、忘れてはならない体験です。一方で、この楽しさがなんであるのか、について私たちはひょっとしてあまり深く考えていないのかもしれないのです。すでに「喜び」ということを言いました。そして、この喜びを大切にする生き方にこそ、教会らしい「楽しさ」の源がある、私はそんな風に考えています。
悪い時代?
それから、このような「楽しさ」ですとか「喜び」ということを考えます時に、それは教会の中だけで終わる話ではないと私は理解しています。考えてみるまでもなく、私たちは、教会の中に四六時中隠れていられません。私たちは日常へと派遣されています。そしてその日常は、必ずしも順調な時ばかりではありません。今日の聖書には、とても特徴的な言葉として16節に「今は悪い時代なのです」とあります。これは何もパウロの時代が特別に悪い、という意味ではないはずです。また、特別な出来事を指して「悪い」と言っているのでもありません。例えば、日本では第二次世界大戦前と、戦中特に昭和20年に集中して大量の死者が出た、ということで言えば、確かに悲惨な時代のピークはあそこだった、というように言えるかもしれません。しかし、世界的に見れば、今も戦闘は、アフガニスタンで、ミャンマーでその他さまざまなところで続いていますし、難民となって何十年、行く当てのない生活をしている人もいます。さらに、身近なこととして、日本でもネットいじめで、こどもの自死が何件も報告されています。それから最近驚いたのは、日本の預金総額が1800兆円に達している事実です。この数字を見てすごい、お金持ちだとばかり言っていられないのかもしれないのです。
二つの生き方
なぜなら、この預金残高の多さは、個人にしても、企業にしても、先行きに多くの不安を抱えていることの裏返しのように見えるからです。いささか単純化しすぎかもしれませんが、このままやっていってもあまりいいことにならなさそう、とにかく生き残るためには、お金を積んでおくしかない、と多くの人が感じていて、実際にそのように行動しているからこそ、異様に大きなお金が積みあがってしまう、というようにも見えるのです。そこで見えてくるのは、不安です。恐れです。楽しくないのです。この先生きていても、大変そうだ、と考えていたら、当然ですが、あまり楽しくありません。では、そのように一見楽しくなさそうな見通しのなかで、私たちができることは何かあるのか、と考えたときに、実は、二つのコースがある、と今日の聖書は語っているように見えます。例えば15節では「愚かなものとしてではなく」とあり、続けて「賢いものとして」とあります。この場合の「愚かさ」と「賢さ」は、いわゆるIQであったり、弁護士のような高度な資格を持っているかどうか、あるいは有名大学の大学院を出ているかどうか、といったことではありません。むしろ、神様の前で何が正しいかを知る知恵です。しかし、私たちには、もう一つの可能性あるいは選択肢もあります。今目の前にある不安に対処するのに、結果として、二つの生き方があります。すなわち、「とりあえず逃げる」生き方と、先ほど確認した「しっかり気を配って生きる」生き方のどちらかになっていく、というのです。
酒のコース
そこで注目したいのは18節の「酒に酔いしれてはいけません」という言葉です。これはお酒の好きな人にとっては、ちょっと厳しい言葉かもしれません。ちなみに、ここで「酒」と訳された言葉は、本来ワインです。聖餐はそもそも、ワインで祝うものですし、イエス様は婚宴で水を葡萄酒に変えて人々にふるまわれました。その意味では、飲酒自体が全面的に否定されているとまでは言えないかもしれません。しかし、聖書全体から見て、飲酒がそれほど勧められていないのもまた事実です。例えば、箴言にこんな言葉があります。「強い酒は没落した者に/酒は苦い思いを抱く者に与えよ。飲めば貧乏を忘れ/労苦を思い出すこともない。」(31:6,7)。ここで気になるのは、「飲めば貧乏を忘れ、労苦を思い出すこともない」という部分です。基本的に、酒は、神経を緩ませる、麻痺させるものであることは医学的にわかっています。そうしますと、酒を飲む、という行為は、とりあえず、今の様々な不安を忘れて、ひと時慰めを得る、という方向になります。そして、これは明らかに、「細かく気を配る」ですとか「時をもよく用いる」という前向きな生き方とは逆で、むしろ、いろいろなことを忘れて、とりあえずホッとして、そこでなんとか活力をとりもどして、つらい日々に備える、という生き方になっていくはずです。そして、このような生き方は、ごく普通に世間で見られる生き方、と言えるのかもしれません。つらい浮世に耐えて、たまに飲む酒に慰められて、なんとかかんとかやりくりしていくうちになんとなく年を取る、それを全面的に否定することはできません。これでいいんだ、という方にそれは違う、とおせっかいを焼くことはできないのではないか、とすら私は考えています。
聖霊のコース
けれどもそれとは別に、キリスト者には、キリスト者としての生き方がある、というのがこのところの言わんとすることです。イエス様を救い主と信じたものとしての生き方があるのです。それは、先ほどから確認していますように、「時をよく用いる」ということです。それも、基本的には、「悪い時代」一見しますと、神様の御心の通りになっていないように見える、この世界の様々なところで、罪から出る悪い出来事で満ちているように見える、この時代において、しかし、その中で、あなたたちは、この世に生きて、その与えられた場所を、用いていくことができると、このところは言っています。その場合に、私たちの生き方の規準は、すでに先週の個所である10節でも同じ言葉がありましたが、17節にあります「主の御心がなんであるかを悟りなさい」という言葉です。10節では吟味しなさい、とありましたが、ここでは悟りなさいとあります。いずれにしても、これはよく考えて結論を出していく、という意味です。それも、この世にあってです。世との、具体的なかかわりの中で、細かく気を配って、よく考えてしっかりと生きていくというのです。
互いに語り合う
その場合に、この聖書の言葉は、私たちが、それぞれ孤独に、自分の責任で、このような生き方を貫いていけと機械的に命令しているのではありません。そんな生き方は、おそらくただ大変なだけで、楽しくもうれしくもありません。そうではなく、私たちには、私たちをしっかりと支えるものがある、とこのところは語っています。そこで何といっても注目したいのが、19節の一つの言葉です。そこに「語り合う」とあります。私たちが相互に語りあうということです。このところを、新しい協会共同訳聖書ではこのように訳しています。「互いに、詩と賛歌と霊の歌を唱(とな)え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい」。やはりお互いなのです。一人ではないのです。このところにある、詩編や賛歌、霊的な歌、といったものは、特定の言葉、例えば詩編、あるいは、それにメロディーをつけた、詩編歌に限りません。もちろん、詩編歌はいいものですが、それだけではなく、もっと広い、神様に向かう言葉を、お互いに唱え、また、歌っていこう、というのです。その際、霊に、すなわち、聖霊なる神様に導かれてそれをしていくというのです。
感謝に変わる
他でもありません。この礼拝に集まって、わたしたちが、言葉を唱えて、また、賛美を行う、今は、讃美歌を短くしか歌えませんけれども、しかし、歌を歌う、これは、ただ、そう決まっているから、礼拝の順序がそうなっているから、仕方がなく歌う、というものではないのです。そうではなくて、むしろ、これは、神様とそして、私たちお互いのための歌なのだというのです。そこに、神様との交わりが生まれていくというのです。その意味では、この礼拝は、もちろん神様のためでもありますが、私たちお互いのためでもあるのです。お互いがお互いにエールを送る、お互いがお互いに、お疲れ様、あなたは神様に愛されていて、大切な人です。とお互いを喜んで歌いかわす、そして、実は、このことにこそ、私たちは、細かく気を配って歩むようにと、このところは命じているのです。
喜びは無限に
そして、わたしたちが礼拝に気を配ることによって何が起きるかといいますと、大変なことが起きるのです。それが20節です。あらゆることについて、父である神に感謝するようになるのです。これもまた命令のように書かれています。けれども、本当の感謝は、いやいやするものではありません。そうではなく、わたしたちが、聖霊に導かれてお互いを認め、お互いを励まし合うときに、ああ、こんな時代だけれども、やっぱり感謝だなあ、という思いが与えられて、神様をほめたたえるようになるのです。そして、もし、教会が楽しいところであるとすれば、その理由は全くこのことによります。わたしたちが、互いに褒め歌を歌いかわすその所にこそ、楽しさがあり、無限に広がる喜びがあるのです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。私たちは、すでにあなたによってとらえられ、あなたにあって、互いを兄弟姉妹と呼び合うものとなっております。ここに愛があります。わたしたちが、あなたからいただいた愛に押し出され、互いの愛に励まされて、この週のあゆみに勇気をもって踏み出していけますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。