毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ5:6-8 「光の中をあゆむ」
光の中を光として
今日は、先週一度読みました6節から始めて、14節までを区切りとしました。この6,7節は警告の言葉になっていました。元に戻るな、という呼びかけです。それで私たちがもともとなんであったのかというと闇だったわけです。それは8節にはっきりと書いてあります。「あなた方は以前には暗闇でした」。これは事実です。しかし、私たちにはもう一つの事実があります。それは、わたしたちがイエス様を信じたときに、私たち自身が、光の子であり、光そのものになった、という新しい事実です。今日の説教題は「光の中をあゆむ」としました。これは、光であるイエス様の中をあゆむという意味では全くその通りですが、実はちょっと失敗したかなと後から思いました。なぜなら、私たちは、イエス様との関係の中を歩んでいるだけではなく、私たち自身が、この世において光になっている、とこのところは語っているからです。
闇から光へ
そしてそれは、とても大きなこと、私たちにとって人生そのものが変わるような出来事だったはずです。エフェソ書にはこんな言葉があります。2:1以下を読んでみます。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェ2:1-3)。このところでは、私たちの以前の生活が死んだようなものだった、というとこから始めています。この場合の死んでいるとは、神様の前に死んだも同然だ、という意味です。いないに等しい、神様と何の関係もなく生きている、そんな状態です。しかし、それが決定的に変わってしまった、というのです。ですから、先ほどの続きのエフェソ2:4以下はこうでした、「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――」(エフェ2:4,5)。ある意味では、私たち一人一人は、洗礼を受けたときに、あるいは信仰告白をしたときに、もう一度生まれた、本当に生きるものとして新しく生まれた、パウロはこういいたいのです。
光の子
そういうわけですから、このところの8節にある「光の子として歩みなさい」にある「光の子」は、幼い子どもたちのことではなく、イエス様によって新しく生まれたものである、私たち自身のことです。そして、私たちは、イエス様がそうであったように、私たちも光として地上の生涯を歩んでいくのだ、本当に具体的な人生の、様々な出来事において、その場その場で、光として生かされていく、今日のところで言われているのはそのような私たちの生き方です。その場合に私たちのよりどころとなるのは、9節にある三つの言葉です。ここでは「善意と正義と真実」と続いています。さらにそれは、光から生じるとあります。この場合の光とはイエス様ご自身でした。そうしますと、この「善意、正義、真実」はイエス様が持っておられるもので、しかし、そのイエス様の持っておられる特徴が、私たちにも表れてくる、実際の生き方というのでしょうか、私たちの存在そのものに現れる、というのです。そしてこのところでは、もっと具体的に、わたしたちが、地上において、ということは、この社会において、今ここでの人生において、職場でも街角でも、ということですが、光としてのあり方を示していく道筋があると語られています。
吟味して歩む-我々が光に
そのような光としての生き方の始まりは吟味することだと言います。10節に「何が主に喜ばれるか吟味しなさい」とあります。この「主」はイエス様のことですから、イエス様が喜ばれる道は何か、その時々に、正しく判断していこう、という意味です。ただし、このところは一見しますと、あまり具体的なことが書かれていないよう見えます。例えば、11節を見ましても、「実を結ばない暗闇の業」とだけしか書いてありません。ただし、これは決して小さな手掛かりではなく、大きな手掛かりです。何が主に喜ばれるかという問いに対しては、この「実を結ばない暗闇の業」というものの逆を常に考えればいいからです。そして、そのような光の業は、先ほど登場した「善意、正義、真実」とも一致するものです。そしておそらく、私たちは、人生の様々な判断、本当に小さなこと、拾った百円をどうしよう、とか、ああ、友達に手紙の返事をまだかけていないけどいつだそう、というこまごまとしたことから、どの学校に行こう、どの職場を選ぼう、誰と結婚しよう、あるいは結婚しないでおこう、といった大きなことまで、すべてをこのイエス様が何を望まれるか、という光に照らして、考え抜く、というのです。そのようにして、わたしたちが考え抜いて選んだ行動は、それ自体が、この世界にあって光になっていく、とこのような仕組みになっているのです。
明るみに出す
しかし、このところは11節が一つの区切りになっていて、そこで更にもう一つ大変なことが命じられているように思われる言葉がつづいています。もう一度11節を読んでみます。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」。これをそのままにとりますと、ただ、わたしたちが、暗闇の業、おそらくは12節で言われているような、口に出すのも恥ずかしいような行いを含むでしょうが、それだけではなく、明らかにイエス様が喜ばない、先ほどの言葉で言えば、「善意、正義、真実」から遠いものすべて、例を挙げればきりがないかもしれませんが、「善意、正義、真実」を単純にひっくり返せば「悪意、不正義、偽り」になりますから、そのようなもの全般です。そして、これを明るみに出す、とは、それが悪いことであるとはっきりさせる、という意味です。私たちは、日常の生活の中で、このような悪い言葉や行い、心無い言葉、人をののしったり、だましたりする言葉、に出くわすことがあるはずですし、もっとはっきり言えば、特殊詐欺もまさにこのような言葉の一つです。そのような悪意ある言葉を、悪であるとはっきりさせることがここでは命じられていると言えます。明るみに出すとはそのような意味のはずです。
光にさらすとは矯正ではない?
しかし、それでは、と私たちが、街に出かけて行って、警察のまねごとをして、これは、悪い言葉です。あなたは今、人を傷つける言葉を語りました、だます言葉を語りました、といって告発することをこのところは求めているのでしょうか。そのような可能性を完全に否定するつもりはありませんが、しかし、おそらくここで求められているのは別のことではないかと私は考えています。そもそも、箴言にこのような言葉があります。「 不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。」(箴言9:7)不遜な者とは、ただ態度が大きいというよりは、神様を馬鹿にしているという意味で尊大な人間です。そのような人を相手にしても仕方がない、と言ってしまうと身もふたもないのですが、この言葉は確かにそういっています。また、もう少し積極的な言葉としては、ローマ書にこんな言葉もあります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(12:19)。これはとても大切なことで、私たちは人を変えることはできませんし、人を完全に正しくさばくこともできません。しかし、神様にはできます。そして人を本当に悔い改めさせるのは神様ご自身です。
まず光をえらびとる
では、このところで言われている、「明るみに出す」ですとか、あるいは13節の「すべてのものは光にさらされて明らかになります」というのはいったい何のことを言っているのでしょうか。これは私の理解ですが、このところの明るみに出すとは、わたしたちが目の前で行われている出来事を、それは先ほどお話ししたように、大小さまざま、いろいろな場合があり得ますが、あくまで例えとして、何人かの人たちが、人の悪口を言っているように見えるところにたまたま居合わせてしまったとして、私たちがまずするべきは、それが先ほどの規準、「善意、正義、真実」に照らして正しいかどうか、吟味をすることが必要でしょうし、その結果、それらの言葉が正しい批判ではなく、ただの悪口でしかないことが明らかであるのなら、それは間違っていると伝えること、そして、何よりも自分自身が、そのような言葉を口にしないことです。暗闇の業に引き込まれないようにするのです。ほかでもない、キリスト者である私自身が、闇の業に参加しないこと、これこそが、このところで光として歩むというあり方です。
新たに立ち上がる
そのようにして、わたしたちが光の子としての立場を明らかにすればするほど、このところで書かれている「すべてのものはひかりにさらわれて明らかにされます」という言葉が実現するのです。それは決して消極的ではなく、積極的な生き方です。なぜなら、自分の出会うものをすべて光の中で吟味していくからです。わたしたちが吟味したものは、光となると、14節にある通りです。わたしたちが、目の前にある言葉や出来事を、ぼんやりと見逃してしまうのではなく、吟味するのなら、それは光になるのです。さらにこのところでは、もっと大切なことが語られています。それは、14節のカギ括弧の中の言葉です。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすればキリストはあなたを照らされる」。これは、何も、遠い将来の復活のことを言っているのではありません。そうではなく、これは、言葉と行いを吟味する私たち自身に起きることです。
光の中をあゆむ
すでに確認しました通り、私たちは、以前は闇の中を歩くものでした。そして、そのような生き方の残りかすは、まだ私たち自身の中にあります。しかし、その私たちが、何がイエス様に喜ばれるだろうか、と吟味を始めるその時に、わたしたちが立ち上がっていく、立ち上がらされるのです。闇の業のしっぽを引きずっている私たちにキリストから光が射してくるのです。「キリストはあなたを照らす」とは、今このところで私たちに起きることです。私たちは、キリストに照らされて、その光の中を、光の子として、光そのものとして、歩んでいくのです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、私たちを主イエスにおいてご自身の愛する子としてくださいました。あなたによって私たちは光の子となっています。ですから私たちが、光の子として、また水から光として輝いて生きていくことができますように、正しく吟味する力と思いを豊かに与えてください。どうぞ、この週の歩みもキリストの光の中にあって守られますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。