9月26日説教原稿

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9月26日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ4:25-32 「嘘のない言葉、生かす言葉」
キリスト者として
エフェソ書の4章は教会を励ます言葉だと言い続けてきましたが、このところからいよいよキリスト者としての具体的な生き方が語られていきます。今日のところは一言で言えば愛あるいは赦しについてとなるでしょうし、5章からのところでは性にまつわることが取り上げられています。しかし、いずれにしましてもこのところで問われているのは、まずは教会の中でのことのようです。25節で「互いに体の一部なのです」とある通りで、これはその前の議論で語られていた、一つの信仰に結ばれた体全体としての教会、ということが前提になっています。さらには24節で「新しい人を着る」という言葉もありました。いわば新しくされた人間、教会人としてのキリスト者としてどう生きるかです。

新しい人の生き方-偽りを脱ぎ捨てる
もっともその場合に、ちょっと混乱してしまうのは、わたしたちが正しく生きる、ということと信仰の関係です。私たちはイエス様を救い主として信じると神様の前で、正しいものと認めてもらえる、というのがキリスト教信仰のイロハのイです。その場合に、わたしたちが正しいとされるのは、わたしたちが何かをしたからではありませんでした。例えば、ある時にたまたまある人に親切にしたから、といったこととは全く関係なく、あるいはむしろ、そのような意味では、私たちは自分の力でどれほどよいことをしたと言い張ったとしても、それ自体では、神様の前で正しいものと認めてもらえることはないのでした。その場合に、こんな反論が心に浮かぶかもしれません。そんなのヘンだ、いいことをしたら、その分はちゃんと評価してくれなくちゃ、しかし、もし、そのようにして神様が私たちがしたことをいちいち見ておられて、というよりも隠そうとしても知っておられるはずですが、いちいちここは良かった、ここは悪かった、として採点したら、どうなのか、という話になるわけで、おそらくこの試験には誰も合格できないのです。そうしますと、私たちは神様の前で正しいと認めてもらうことは基本的にできない、ということになります。ところができないはずの赦しが与えられているのが私たちでした。このことは今日の個所を考えるうえでどうしても外してはいけないことです。赦されないものが赦されている、実はあちこちダメなのだけれども、そのダメさを受け入れてもらっているのが私たちです。それを言い換えると恵みとなります。恵まれたものがこれから正しく生きよう、という順序です。

神様を悲しませてはいけない?
ということを前提として、今日の聖書にそのものずばりの言葉があります。「神の聖霊を悲しませてはいけません」。これは何も、わたしたちが思わしくないことをしていると、私たちの中に住み込んでいてくれる聖霊なる神様が、ああ、なんてことだ、悲しいなあ、と嘆き始める、心を痛める、といったことを言っているのではないはずです。あるいは、そのようなこともあるかもしれませんが、本筋はそのような感情的なことではありません。むしろ、もっと怖いことです。それは、27節にあります通り、私たちの心の中身を整えずにおくことは、そのまま、悪魔に居場所を与えることになる、とある通りだからです。先ほどの、30節では、贖いの日に対して保証されている、そのしるしが聖霊なる神様だ、と言っていたのですが、せっかく、わたしたちが神様のもの、とスタンプを押してもらって、世界を神様が裁かれる日、終末の日、とよく言われるようなときに至るまで、もう大丈夫な身分になっていたにもかかわらず、もし、サタンに居場所を与えてしまうのなら、このような神様に向かう人生そのものが、おかしなことになっていくというのです。そして、とても不思議なことですが、このようにして、神様の子としてもらった私たちキリスト者が、その後の人生をどう生きるのか、ということについては、私たちはほったらかしではなく、それぞれに責任がある、とこのところは言っているのです。

怒ってもよい?
そして繰り返しになりますが、このところの教えは、極論しますと怒りから始まって、赦しにいたる、という流れになっています。途中で、28節の盗みの問題や、29節の無駄口、悪い言葉の問題も扱っていますけれども、おそらく、その根本にあるのは他の人、それもここではキリストの体である教会員同士の間での怒りの問題が中心に来ている、とみてよいでしょう。そして、開口一番で言われているのは、「怒ってもよい」という意外な言葉です。「怒ることがあっても」というのは、怒ること自体を全部禁じる、というのではなく、怒ることがある、その事実は仕方がない、とある意味では譲歩しているのです。教会の中で、キリスト者同士の中で、感覚の違い、といったことから、誤解、思い違いが生まれ、怒りが生まれることがある、という事実はそれとして認めるのです。しかし問題は、その怒りの取り扱いだというのです。怒っても罪を犯してはならない、と続いているのはそのことです。日が暮れるまで、というのは、直訳しますと、怒ったまま日暮れを迎えてはならない、となりまして、これはルールや規準といったものではなく、怒りをずっと抱えていてはならない、という戒めです。そこでさらに注意したいことがあります。それは、怒っているのは誰で、それはだれの責任なのかです。

自分の責任としての戦い
ここではっきりと記されているのは、怒るのも、怒ったままでいるのもほかでもない、私たち一人一人であるという事実です。怒ることを選んで、それを続けているのは、自分自身だ、ということです。そしてこのところは、そのようにして怒り続けるのを自分の責任でやめなさい、と命令しているのです。ここに私たちの戦いがあります。もちろん、実際にはいろいろなことがあるのです。それこそ、自動車事故のように、こちらの過失がこのくらいで、というようなことを言おうとすれば、いえるかもしれないのです。しかし、ここで問題になっているのは、どちらがいい、悪いの話ではないのです。なぜなら、これは教会をたて上げるという文脈の中で語られているからです。繰り返しになりますが、24節の最後はこうなっていました。「各々の部分は」すなわち教会に属する私たち一人一人は、「分に応じて働いて体を成長させ」これは、わたしたちが神様から与えられた役割、それは、どのような小さなことでも大切で、例えば他の人のお世話になる、ということ自体もすでに大切な役割ですが、そのような役割に生き切って、からだを成長させ、すなわち教会の交わりを豊かにして、自ら愛によって造り上げられる、互いに愛し合うことによって教会はますます教会らしくなっていく、このように語られていました。

怒りと悪魔-盗みと無駄話
私たちは、教会に属するものであるのなら、誰であっても、この道筋の中で生きる、それが信仰に生きることだ、というのがパウロの勧めです。そのような生き方の中で、致命傷となるのが、怒りだ、というのです。そしてそれは、まさに、「悪魔に隙を与える」ことになるのです。悪魔の目標は単純です。私たちを、神様から、イエス様から切り離して、教会員同士を切り離して、教会が教会として成長できなくなれば悪魔の勝ちです。そして、そのような悪魔の戦略は、具体的な私たちの信仰生活の中で一つの具体的な現れがあると、このところは語っています。一つは、盗みとその対極にある施しです。もう一つは、悪い言葉と、その逆の造り上げる言葉です。このどちらにも共通するのは、自分のため、という考え方と、他者のため、という対立する考え方です。今日はもう、盗みや悪い言葉について詳しくお話しする時間はありません。ただ、この場合の盗みとは、具体的にものを奪い取ることだけではなく、周りを犠牲にしてでも自分を富ませる、そんな心の態度全般かと思われます。その逆が施しです。そして私たちは、このような全く逆の態度のどちらにでも行く可能性があって、それを自分で決めなければならない、とこのところは教えています。

無慈悲をやめる
そしてそのカギになるのが、おそらく31節の、無慈悲という言葉です。この言葉を新しい協会共同訳では「恨み」と訳しています。ほかにも「苦々しさ、辛辣、過酷、悪意と怒り」とも訳せるようです。いずれにしましても私たちの心の中身です。心の真ん中になにがあるのかです。そして、このような恨みを抱いた心から、その後に続く、「憤り、怒り、わめき、そしり」人を攻め立て、殺していくような言葉の働きが出てくるとこのようにパウロは、私たちの現実の教会で起こりうる事柄を具体的に示しています。そして、ただ単に示すだけではなく、この「恨み」を捨てることを命じています。「すべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」とあります通りです。その意味で、私たちは自分自身と、そして悪魔との戦いの中にいます。この事実について同じエフェソ書6章では「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(12節)と記しています。人と戦っても仕方がないのです。悪魔と、そしてその働きにさらされている自分と戦うように、とパウロは勧めています。

赦し合う
そして、そのための具体的な戦い方の手掛かりは31節と対になった32節にあります。ただし、それは、おそらく、何度でも何度でも、自分を見つめ直す、そんなところから始まる、戦いです。ここで語られているのは「赦し」です。それも、イエス様を土台に持っている「赦し」です。それは、わたしたちが人間離れした克己心、自己克服をして無理をして人を赦す、といった考え方の対極にあります。むしろ、私たちは一人一人、自分の原点がどこにあるのかを問われます。その点では、これは、私自身のことですが、私の信仰の原点は、イエス様がイスラエルの民が飼い主のいない羊のようであるのを見て深く憐れんだ、と福音書にある(マタイ9:36)あの状態にあったのではないかとの思いがあります。いろいろなものにとらわれて、全部を自分でしょい込んで、実はどうしたらいいのかわからない、そこに声をかけてくれたのがイエス様だった、それでもういいと、言ってくださったのが、イエス様だった、というように後から気づかされたわけです。それが最初にお話しした赦しの体験です。この赦しを一言でまとめたのがこの32節の「神がキリストによってあなた方を赦してくださった」という言葉の意味です。この事実、わたしたちが自分自身深く憐れまれたものだと知っていくほどに、おそらく、私たちはより深く人を憐れみ赦せるものとなるのです。そしてこれは私自身にとっても、生涯の目標です。少しでもこの方向で、日々生きていきたいのです。

生かす言葉
この原点を土台として、毎日、偽りを捨て、悪い言葉と、悪意を捨てる、戦いをする、その所から始めてみてはどうかと、パウロが語りかけているのです。日常生活で、私たちはだれでも、世に遣わされています。普段着の生活を持っています。家庭で、職場で、買い物に出た先で、遊びに行った先で、旅の途中で、どこであっても、悪意から出る言葉ではなく、その人を造り上げる言葉を探すこと、それを語ること、これを選び取る責任はあなた自身にある、イエス様に生かされるとは、そのような生き方だ、とパウロは言うのです。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、私たちを主イエスにおいてご自身の子としてくださいました。それゆえ私たちは、あなたの子にふさわしく歩むように期待されています。私たちの中にある古い人を脱ぎ捨て、新しい人としての歩みをますます確かにしてください。わたしたちが赦されたものとして、地に赦しを打ち立て歩めますようにお導き下さい。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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