9月12日週報

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9月12日週報

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ4:17-24 「神を知る生活」
信仰者の生活?
今日は私たちの生活についてです。このエフェソ書では、4章から勧めの言葉、私たちを励ます言葉に入っていました。しかし、ここまでの所、あまり具体的な話にはなっていません。それで例えば先週読みました7節から16節のところでは、私たちは教会として一つの存在だ、ということが確認されていました。イエス様をかしらとして、私たち全員が体として一つに結び合わされて成長していくというイメージです。私たちは、どちらかといいますと、こういう時にはこうする、といったような具体的な話が好きかもしれません。しかし、今日の個所ではむしろ、もっと根本的なこと、すなわち、私たちはいったい何なのか、何者なのか、といったことを明らかにしようとしているように見えます。

あなた方という問い
特にこのところの始まりの17節では改めてパウロが私たち一人一人に呼び掛けているように見えます。ここではまず彼自身が「私は勧める」という言葉を語ります。しかも、「主によって強く」ですから、これはかなり力の入った勧めの言葉です。それに続いて、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」となっています。ところで、このところを新しい協会共同訳では「あなた方はもはや」としています。もともとの言葉に忠実なのはこちらです。当然ですが、私は、あなた方に勧めると言いたいわけです。おそらく新共同訳は日本語の癖として「私」とか「あなたがた」といった言葉をなるべく省略するという方針なのかもしれません。しかし、ここで覚えたいことが一つあります。それは、このところは「私」と言っているパウロから、「あなたがた」といって、私たち一人一人が呼び掛けられている、という事実です。そしてなんでこんな当たり前のことわざわざ確認しているかといいますと、当然理由があります。それは、このところで「異邦人と同じように」とある言葉をいったい誰のこととして聴くのか、ということです。すなわち、このパウロの言葉は一般論として理解するのか、それとも、私のこととして理解するのかです。

自分ごととして
そこで大切なのが、ここで、パウロから呼びかけているのは、私たち一人一人という事実です。この場合、極端なことを言いますと他人はどうでもいいのです。もっと言えば、他の人のことについて、この人はいかにもキリスト者らしい、とか、この人は異邦人みたいだ、というように簡単に判断しないほうが良いのです。これもまた、極端な話かもしれませんが、例えば、これは実際の話ではなく、あくまで例えばですが、私にひどい態度をとっている人がいたとします。しかし、その人が本当にひどい人であるのかどうか、実は私にはわからないのです。たまたま、その人の機嫌が悪かっただけかもしれませんし、あるいはその人は、他の人や家族にとってはとても良い人かもしれないのです。そのような意味でも、簡単に他の人を、この人は悪い人だ、と決めつけるべきではないのです。同じように私たちは、イエス様を信じ、洗礼を受けた人、本来であれば仲間同士である人を、簡単に、この人は異邦人みたいな人だな、と決めつけてしまってはいけないのです。なぜなら、そこにはすでに一つの危険があるからです。すなわち自分を神様の位置において、他人の良しあしを判断する、という心の欲望が現れているからです。しかし、繰り返しますが、このところで問題となっているのは、パウロから、あなたと呼びかけられた、キリスト者としての私がどうなのかです。この私が、果たして異邦人のようになっているかどうか、まず自分のこととして考えてみてはどうだろうか、とこのようにパウロは言うのです。

以前の自分を問う
ところでエフェソのキリスト者たちは、もともと異邦人であったようです。そうであれば、パウロがここで「異邦人」という場合には、以前の自分はどうだったか、といった意味合いで使っているはずです。その場合に、カギになる言葉は、22節にある「以前のような生き方」、「古い人」といった言葉です。かつて自分がどうであったのかです。このところから考えるべきはまず自分自身の過去と今、です。そしてこれはそのまま、私たちにも当てはまるのです。とりわけ私などは、20代半ばまで信仰を持っていませんでしたから、まさにここにある通りの古い人としての生き方を長らくしてきた、ということになりそうです。或いは例えば二世のキリスト者、幼児洗礼を受けている、という方は確かに教会のこども、契約の子として育ちますけれども、やはり、自分からイエス様を信じると告白する以前の状態があったはずです。そこでも人によって信仰の濃淡があったことでしょう。そのような時に、どのように歩んでいたのか、ということを思い起こしていただいてもよいかもしれません。しかし、いずれにしましても、まずは、自分自身のことです。その意味で私も以下では自分のことを振り返りつつお話ししたいと思います。

虚しさとは=神がないこと
それで、異邦人的な生き方の特徴として最初に挙げられているのが「愚かさ」、あるいは「空しさ」です。17節の後半「彼らはおろかな考えに従って歩み」とあります。こちらもまた、新しい訳では「異邦人が空しい考えで歩んでいるように歩んではいけません」となっています。翻訳としてはどちらでもよいようですが、わたしは「空しい」という言葉の方が実感があります。うつろなのです。大切な何かが「ごろん」と抜けしまっている状態だから「空しい」わけです。そして、大切なものがなくなってしまっているから「愚かな」状態になってしまう、とも言えます。そして、そのような状態で抜けてしまっているものが何かといいますと、もうお分かりかと思いますが、それは神様です。18節の最後に「神の命から遠く離れています」とある通りです。私の若い時に、私の中に神様、特に聖書の神様という意識はほぼありませんでした。しかし問題は、そもそも、この神様の命から、遠く離れている、ということ自体が本人にはピンとこないことです。私自身もまったくそうで、むしろ、神様が存在しないのが当たり前で、自分が神様になってしまっていたのだな、と今振り返るとよくわかります。パウロはローマ書で人の罪の状態について、こんな言葉を書いています。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(1:23)。

神の栄光を捨てる=道徳的不安定さ
これは何を言っているのかといいますと、単純に偶像礼拝をしてけしからん、ということだけではないのです。人間は本来、神様の栄光を感じる者であったはずなのに、神様をほめたたえることを忘れ果てて、代わりに、人間、自分であったり他人であったり、あるいはその他の被造物、といったものにばかり夢中になり、大事に思うようになってしまった、やがてそのようなものに支配されるようになった、ということです。ここまでのことをまとめますとこうなります。神様がすっぽりと抜けてしまうと、目で見えるもの、自分や他人や、その他の生き物や、物質といったものばかりに目が行くようになってしいそれを中心に生きるようになるということです。そして、確かに、私の以前の生き方はそのようだったなあ、と思えるのです。いつも、自分が大切だと思っていました。一方で矛盾するようですが、人の目ばかりを気にしていました。そして、自分を慰めるような趣味の世界に没頭して生きていければ幸せなのではないか、とばかり思い詰めていました。しかし、その行き着く先は「放縦な生活だ」と19節でパウロは指摘しています。この放縦には、性的な意味での奔放さ、も含まれますが、同時に限りない物欲も含まれます。貪りです。自分を楽しませるもの、より正確には楽しませてくれるだろうと思っているものをむさぼり、いくら貪っても満足しない、そのような在り方です。しかし、その先には決して幸せはないのです。とこれは私自身の経験です。

学び、そこに入ってくるものとしての言葉としてのキリスト
しかし、あなた方はそこからもう抜け出している、とパウロの言葉が響きます。20節をもう一度読みます。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」。ここで学んだ、とありますが、これはぼんやりと講義を聞いたり、家で「がり勉」をしているといったことではありません。そうではなく、このところで言われている学びは「知るにいたる」ということです。キリストを人格的に知るのです。そうであるからこそ、21節では、二つの言い方で学びの中身が記されています。それは、具体的に説教などを通して人から「キリストについて聞く」こと、そして、キリストに結ばれて「教えられ」とありますから、こちらもまた、人とひざを突き合わせて、教えてもらっている様子を表しています。それは例えば、洗礼を受けるために、ウエストミンスター小教理問答を牧師と対面で学んでいるような状況です。ちょうど今日から、信仰告白準備会を始めますが、私も今から30年ほど前に、牧師の前に緊張して座ってウエストミンスター小教理問答を学んでいました。このようにして繰り返される教会の営みの中で、人と人との関係の中で、生きたイエス様とのつながりの中に入れられていることを少しづつ知っていく、それがこのところでいう学びです。

私の中で起きること
そうして、学びをなしていくのなら、真理がイエスの内にある通りに学ぶ、すなわち、イエス様の真理を知るにいたるのだ、とこう続いています。そこで何が大切かといいますと、イエス様が私たちの中に入ってくるということです。先ほど、古い人の特徴は、大切な何かがスコンと抜けている状態のようだと言いました。そこに埋め合わせとして自分やその他もろもろの役に立たないものが入ってしまい、カチカチにかたくなになっていたのが(18節)、古い人の状態でした。そこが変わるのです。全く新しくされるというのです。それが、23節の「心の底から新たにされ」という言葉の意味です。これもまた、新しい翻訳では「心の霊において新たにされ」となっています。これは神様の霊というよりも、私たちの人格の一部としての体と霊という場合の霊です。そこが新しくされていくのです。それで正直なところをお話ししますと、私は洗礼の時には、ある種の感動はありましたけれども、この意味で私の存在の奥底にある霊が全くその瞬間に変えられたというようには感じませんでした。そして、生き方自体も特に変わったつもりもありませんでした。しかし、後から振り返りますと、やはりあそこから変化が始まっていたのだろう、とは思います。

新しい人を着る=神を知る生活へ
だからパウロはここで言います。あなた方はもう新しい人を着ていると。これが私たちの現時点であり出発点です。私たちは、もはや新しい人を着ています。そして、ただそのことを根拠にしたときにだけ、このところで勧められている努力をすることができます。すなわち「真理に基づいた正しい清い生活を送る」という当たり前といえば当たり前のことを、日常に取り込んでいくのです。さらに言えば、私たちはまだこのような生活を今現在に至るまで完成させていません。しかし、そうだからこそパウロはこのように勧めているのです。あなた方は新しい人をすでにきている、その先には、新しい人としての生活、神様を知る人としての生活があると。

祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、私たちを主イエスにおいて贖って下さり、罪を赦し、またあなたの前に正しいものとしてくださっております。しかし、なお私たちには古い人の影響が働いているのかもしれません。どうぞわたしたちが、すでに新しい人を着たものとして、ますますあなたをたたえる生き方へと、私たちの中にあなたの霊を持つ者としての生き方へと整えてください。この週の歩においても、あなたの恵みと一緒に歩めますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈します。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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