毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ4:7-16 「一つの信仰」
信仰について
今日の説教題は「一つの信仰」です。すでに先週このところの前半を中心に、特に13節の「信仰と知識において一つに」と書いてあることを確認しました。ですから、もう一度この題でお話しするのは、ちょっとしつこいかな、と思わなくもありません。しかし、多分このことはとても大切なので、しつこいくらいでちょうどいいかもしれないのです。しつこいと言えば、そもそも、このまとまり、すなわちこの7-16節自体ある意味では、いくつかカギになる言葉がしつこく繰り返されています。その中でも私が気になっているのは7節と13節と16節でそれぞれ「はかり」、「成熟」、「分に応じて」と訳されたところの言葉です。それでちょっと面倒なことを言います。これはもともと、「量り、分、限度」といった言葉です。13節では出てこないじゃないか、と思われるかもしれませんが、実は「成熟」と訳されたところに隠れているのです。ここを直訳しますと「キリストの充満の大人としての量りへと」となんだかわけがわからなくなりますが、やはり13節に「はかり」が隠れています。これをもう少しわかりやすく言い換えますと、キリストの充満という身の丈にまで届く、といった感じになります。それで何が言いたいか、と言いますと、教会がそこに属する一人一人を含めてキリストの豊かさ、あらゆる意味でイエス様の豊かさに届くほどまで、成長するんだ、とこういいたいわけです。そしてそこで成長の規準になるのが、私たちそれぞれの信仰とこのような位置づけです。
私は不信仰?
そこで改めて、「信仰」について考えたいのですが、私は正直に言いますと、自分自身は「不信仰」な人間だと思っています。牧師がそんなことを言っていいのか、と思われるかもしれませんが、これが本当に正直な気持です。ただ、あえて言いますとその場合の不信仰とは、信仰が全くないということではありません。イエス様がしばしば弟子たちに「信仰の薄い者たち」(マタイ8:26など)と言われました。信仰はあるのです。私もあるつもりです。イエス様こそ救い主だと、信じているのです。しかし、それではと自分の生活を振り返りますと、いつでもイエス様のことを考えているのか、と問われれば、どうもそればかりではないと答えざるを得ません。普通に生活をしている、何気ない瞬間の、その時々に、いつも神様との温かいつながりを感じて、心満たされているのか、と言われれば、どうもいつもそのような穏やかさに包まれているばかりではない、と正直に言うしかない、という現実があります。先ほど、イエス様の身の丈、というようなことをお話ししましたけれども、聖書を読む限り、イエス様は、基本的なところで、いつでもこの神様との温かいまじわりの中に身を置いておられたように見えます。それがギュッと詰まった言葉が神様に向かってたびたび発せられる「父よ」(マタイ26:39他)という呼びかけです。ある意味では、これがイエス様の信仰です。そして、私たちは、このイエス様の身の丈へと成長するようにと、パウロはこのところで語っているのです。
未熟な者?
その一方で、このところでは気になることが語られています。改ためて14節を読んでみます。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、」これは、「なくなり」ですとか「ことなく」とありますから、こういうものでなくなっていこう、という前向きの言葉であるのは間違いありません。一方で、目につきますのが「未熟な者」という言葉です。ある意味では、私たちは、このところにあるような未熟さを多かれ少なかれ、持っていると私は見ています。それから、このようなところを読みます時に大切なのは、ここで問題になっている成熟、未熟、というのは、教会全体、私たちでいえば、この新座志木教会全体が問題になっているということです。ある人が、成熟しているとして、ある人が未熟なままでいる、ということではないのです。少なくともここで語られている成長とは、16節にあるように「各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ」というイメージです。体全体で成長するのです。極端な言い方をしますと、頭だけが、目だけが、手だけが、足だけが異様に成長したとしても、それは成長ではないということです。
木の葉の舟ではなく
それで話を元に戻しまして、この14節はある意味では、わたしたちのスタートラインです。先ほどイエス様が弟子たちに「信仰の薄い者たち」と言われたことをたとえとしてお話ししました。その時私の中で思い浮かんだのは嵐を鎮められるイエス様の有名な場面です。マタイですと8章になります。一行が船に乗っている時に嵐になってしまいますが、イエス様は寝ておられました。弟子たちは怖くなって、「私たちが死んでもいいのですか」(マルコ4:38)とイエス様を起こします。するとイエス様は嵐を叱って静められた後で、弟子たちに「信仰の薄い者たち」と言われたのでした。この14節でも「風のように変わりやすい教えに、もてあそばれ」とあります。ここでは、多分当時すでにそれなりの勢力を持っていた、間違った教えを語る人たち、いわゆる異端的な教え、のことが念頭にあるようですが、そこで問題は、それに振り回されてしまう状態が、「未熟なもの」とあることです。これは信仰において、こどもの状態とは、その時々に、あちらこちらと、周りに振り回されてしまう状態だという意味です。そして、実ははっきりといいますと私たちはこの状態に近いのかもしれません。それは、一人一人がどうということではないのです。誰かが私は信仰が強い、と言っていても仕方がないのです。それは先ほどお話しした通りです。問題は教会全体で、教会全体としてこどもではなく大人の信仰を持つようになろうという話です。
キリストに向かう
そしてパウロはこのところで、どうやって教会が群れとして大人になっていくのか、そのあり方をはっきりと語っています。それが15,16節です。例えば、この15節を少し言い換えますと、「愛にあって真実を語るなら、私たちは頭であるキリストへと成長する」となります。では、愛とは何か、真実とは何か、というように言いたくなりますが、この二つは、ばらばらの哲学のテーマではありません。「愛」なら、「愛」について「うーん」と考えてみても始まらないのです。実はこのエフェソ書ではすでにこの「愛に根差し」という言葉が3章で語られていました。そこを読んでみます。17節です「信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」こうなっています。そもそも私たちは信仰が成長するためには、信仰が大人になるためにはどうするのか、ということを考えていたのですが、その答えとして「信仰によって」が来ています。その場合の信仰はどこから来るかといいますとイエス様からです。そのイエス様からもらった、小さなかけらのような信仰があるのなら、そこにイエス様が一緒に住んでくださっている、と続いています。そして、そのイエス様によって私たちは、愛に根差し、愛にしっかり立つ者へと変えられるのだ、このように3章で見通しが語られていました。もし私たちの中にほんの少しでもイエス様がいて下さって、そこに愛が育ち始めているのなら、自分と向き合っている人に嘘偽りは言えないのです。それが「真実」です。教会員同士で、このような言葉のやり取りをしていくのです。そして、そのようにして生きていくことによって、私たちはキリストの充実したあり方へと成長していくのです。そして、このことをもっと具体的に語ったのが16節です。
関節と体
ここで言う体全体は、とても大きなもの、広い意味を含んでいるかもしれませんが、とりあえず具体的な各個教会、たとえば私たちでしたら新座志木教会と考えてみます。そこで、節々という言葉があります。これは、おそらく牧師のことです。これは牧師に求められている働きが、からだの各部分が十分に動けるように、また、十分に成長できるように支え続けることにある、という意味です。しかし、そこで忘れていけないのは、すでに確認した通りですが、ここでもまた、問題は体全体の成長だということです。牧師は体の一部でないということは全くあり得ません。牧師は働きとしては、独特であるかもしれませんが、そうだからといって、体の一部でなくなるのではありません。むしろ、牧師を含めた体全体が結び合わされることが、ここでは言われています。「しっかり組み合わされ、結び合わされて」とある通りです。
キリストにより
そして、この16節を読みます時に、何よりも忘れてはいけないのはすでに先ほど確認した通りですが、最初の「キリストにより」という言葉です。この関連では7節を思い出したいのですが、あのところは「一人一人はキリストの賜物の量りに従って、恵みが与えられています」でした。それはそのまま、このところの関係でも当てはまります。すべての恵みは、イエス様から来ます。そのイエス様から来る恵みは、丁度体の中を栄養が駆け巡るように、結び合わされた体の中を、駆け巡って、そこで、わたしたちが成長することが起きるのです。しかもその時、私たちはすでに体の一部であるということで、独特の働きをしていると、続いています。16節の言葉では、「組み合わされ」に続いて、「各々の部分は分に応じて働いて」と続きますが、これは何か特別な仕事をする、ということではないはずです。むしろ、教会にい続け、仲間と向き合い続けること自体がこのところでいう働きです。皆さんがお互いに、あるいは私とも、向き合い続けている、そこで言葉を語っていく、その中ですでにこの働きが始まっていくのです。
自ら愛によって
そこで注目したいのは、このところの最後がやはり愛で終わっていることです。「自ら愛によって」とあるところです。この場合の自ら、とは教会全体のことです。教会全体は自らの愛の働きによってこそ成長するのだ、このように言います。しかし、それは私たちが独特の愛を持っている、ということではありません。先ほどもお話ししました通り、私たちの中に働いてくださっているイエス様こそが、この愛の源です。そして、たとえどれほどわずかであっても、私たち動詞の中にこのイエス様の働きがあるのなら、たとえ私たち自身がそれと気づいていなかったとしても、ここにある通り「自ら愛によって造り上げられていく」ということになるのです。教会はキリストの体です。キリストの体は、頭であるキリストと結ばれていて、自ら成長していくのです。
一つの信仰へ
そこで、結論めいたことを言いますと、信仰が育つとは、一つの教会が、教会全体としてキリストの体となることです。一つの信仰とは、一体的な交わりのある教会が、実際に実現していくことです。私たちが目指すのもまた、このような意味での教会形成です。それは、どれほど時代が代わっても、また教会に集う人びとが入れ替わっても変わることのない目当てです。一つの信仰という言葉が目指すもの、それは、この地上において、わたしたちが教会としてキリストの身の丈にむかって成長していくその姿そのものです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、私たちを愛して下さり、御子イエス・キリストによって、一人一人に信仰と愛という恵みを賜っておりますから感謝します。私たちはこのキリストの愛に促されて、お互いに真理を語り合うものとして召されています。さらに私たちは、このイエス・キリストを目当てとして、信仰において成長していきます。これからも私たちが、真のキリストの体として成長していくことができますように、また、この週の歩においても、あなたの恵みによって歩めますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。