毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
お気軽にお問い合わせを
「一度礼拝に出席してみたい。」
「教会に行ってみたい。」
「でもどうしたらよいかわからない。」
そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。
電話でのお問い合わせなら048-474-9237まで。その際「ホームページを見たのですが」とお伝えくださると話が通じやすくなります。
エレミヤ書32章16-25節「不可能を可能にする神の力」
2021年8月15日
ジョ ジェウ
「私は主に祈った」という内容で始まる、本日の箇所には、エレミヤの祈りが記されています。エレミヤの祈りの内容は、大きく3つにわけることができます。
3つにわけることのできるその基準となるのが、二つの接続詞です。
一つは、23節の「ところが」という接続詞。そしてもう一つが、25節の「それにもかかわらず」という接続詞です。
「ところが」という接続詞も、「それにもかかわらず」という接続詞も、前の内容とは反対のことを述べる時に、あるいは、前の内容に反する事柄が起きた時に使う、接続詞です。エレミヤの祈りの内容を、「ところが」、と「それにもかかわらず」を使って、短くまとめると、次のようになります。
神様はイスラエルの民を守ってくださる恵みの神様である。ところが、その恵みの神様は、イスラエルの民に災いを与える神様でもあり、今その災いを、イスラエルの民は受けている。それにもかかわらず、神様は災いを与える方であるにもかかわらず、その神様は、災いの真っただ中にいるイスラエルの民に、希望を与える神様でもある。
恵み、災い、そして希望という言葉で表すことができる、神様の力が、エレミヤの祈りの中に現れています。恵みを与え、災いも与え、そして、希望を与える神様。
神様が与えてくださる希望というのは、本日の説教題にもありますように、不可能を可能にしてくださる、そういう希望です。不可能を可能にしてくださる神様の力に期待する、そういう希望であります。神様は何を可能にしてくださったのか、どのような希望を与えてくださったのか、そのことを、エレミヤの祈りを通して、見てみたいと思います。
16節には、エレミヤは、祈りをささげる前に、「購入証書をネリヤの子バルクに渡した」と、記されています。つまり、エレミヤは、何かを購入したんですね。そして、その何かを購入したことを証明する書類を渡した、完全に購入の手続きを終えたということが、16節に記されています。
エレミヤが購入したものは、土地でした。今でも、土地を購入することは、とても大きな買い物ですけれども、エレミヤが生きていた時代も、土地の購入は、とても大きな買い物でした。ですから、軽率に、土地を購入することはできません。
利用できる土地であるのか、価値のある土地であるのか、将来性のある、可能性のある土地であるのかを、綿密に調べて、また、いろんな情報を集めて、慎重に、購入するのが、土地であります。いろんなことを調べて、将来を見据えて、慎重に購入するのが土地の購入ですけれども、エレミヤの土地の購入は、慎重に調べたうえで、購入したものではありませんでした。
エレミヤが置かれていた状況から考えれば、エレミヤの土地の購入は、ありえない、絶対購入してはいけない、非常識で、とても愚かな購入でした。なぜなら、エレミヤが購入した土地は、将来性のない、全く利用の価値もない、可能性も希望もない、そういう土地だったからです。
私は日本のバブルを、直接経験したことはないんですけれども、景気がとても良くてですね、土地の価格が、どんどん上がっていく、そういうバブルのような時には、借金をしてでも土地を購入するのが理解できなくもないんですね。
しかし、バブルがはじけて、土地の価格が下がり続ける、これからもずっと下がることが予想される、そういう時に、土地を購入するのは、常識的に考えれば、ありえないことだと思います。
エレミヤが土地を購入した時というのは、バブルがはじけた時のように、これから土地の価格が下がり続けることが予想される、そういう時でした。エレミヤが置かれていた状況は、バブルがはじけた時よりも、もっと深刻で、絶望的な状況だったんですけれども、そういう時に、エレミヤは、将来性も、希望もない、可能性もない、そういう土地を購入したのであります。
エレミヤがどのような状況に置かれていたかというと、悲惨な戦争の真っただ中に置かれていました。もともと一つの国であったイスラエルは、北イスラエルと南ユダの二つの国にわかれます。北イスラエルは、アッシリアという国によって滅ぼされ、エレミヤが活動をしていた南ユダは、バビロンという国によって滅ぼされます。エレミヤが土地を購入した時は、南ユダがバビロンによって滅ぼされる2年前でした。バビロンの攻撃が最も激しかった時だと言われています。
バビロンの攻撃によって、エルサレムの町は廃墟となり、社会全体が混乱と試練、また不安に包まれた、そういう時でした。バビロンによって滅ぼされるのが目に見えている、そういう時に、神様がエレミヤに土地を購入しなさいと命令を出しました。エレミヤが置かれた現実から考えれば、土地の利用価値など全く期待できない、そういう時に、神様は土地を購入しなさいと命令を出したわけです。
土地の購入を命じられたエレミヤは、その命令が現実にそぐわないものだったから、恐らく非常に困惑していたと思われます。しかし、二度にわたって命令が出されていたので、土地の購入が神の御心であることをエレミヤは確信したと思います。神様からの命令に従って土地を購入すると、神様は、エレミヤに約束の言葉を与えます。その約束のことばが15節に記されています。
イスラエルの神、万軍の主が、「この国で家、畑、ブドウ園を再び買い取る時が来る」といわれるからだ。
今廃墟となっているこの土地に、再び家が建ち、人が住み着くようになる。再び作物が実り、この土地の価値を取り戻す時が来ると、神様は約束のことばを、エレミヤに与えました。今は何の価値もない土地だけれども、将来、価値あるものになると、約束のことばを与えたのであります。この約束のことばは、エレミヤが置かれた状況とは矛盾するものでした。現実からは、考えることのできない約束でありました。この神様の不思議で、理解できない、命令と約束に答える形で、エレミヤの祈りは始まります。
導入のところでふれたように、エレミヤの祈りの内容は、3つにわけることができます。17節から22節までは、神様の力への讃美と、神様がイスラエルに与えてくださった恵みが語られています。
「ところが」で始まる23節と24節においては、神様による災い、つまりバビロンの攻撃によって、エルサレムが崩壊する、ということが語られています。
「それにもかかわらず」で始まる25節で、神様が与えてくださる希望、つまり、エレミヤが購入した土地に、再び家が建ち、人が住み着き、作物が実り、土地の価値を取り戻す時が必ず来るという、神様の約束への期待が語られています。
エレミヤが、なんの価値もない土地を購入したのは、神様の約束への、希望と期待を持っていたからこそ、できたことです。エレミヤが、神様が与えてくださった約束への希望を持つことができたのは、祈りの前半のところに述べられている、神様の大いなる力を信じていたからです。エレミヤが信じていた神様の力、エレミヤが抱いた希望の源となる神様の力への賛美が、最もよく表れているのは、17節です。
ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばないことは何一つありません。
天と地を造られた神様の偉大なその力が、及ばないことは何一つないと、エレミヤは神様の大いなる力を、たたえています。
「あなたの御力の及ばないことは何一つありません」という、エレミヤの告白は、「あなたに不可能なことは何一つありません」という意味でもあります。この表現は、神様の御使いがアブラハムに言われた言葉と同じ表現です。
年老いたサラとアブラハムに、息子を与えるという約束がされたときに、神様の御使いは、「主に不可能なことがあろうか」と、アブラハムに言われました。サラとアブラハムに息子が与えられるという約束は、サラが89歳、アブラハムが99歳の時でした。
常識的に考えれば、サラとアブラハムに息子が与えられるのは、あり得ないことです。だから、サラは、息子が与えられるという約束の言葉を聞いた時に、ひそかに笑ってしまいました。89歳の自分に子供ができるはずがない。それは、ありえないこと、不可能なことだと思ったからです。
そのように思っていたサラとアブラハムに対して、神様の御使いは、「主に不可能なことがあろうか」、「主の御力の及ばないことは何一つない」といわれたわけです。神様の約束通り、1年後、サラとアブラハムには息子が与えられます。御使いが言われた言葉通り、神様にできないことは何一つなかった、神様の力の及ばないことは何一つなかった、のであります。
エレミヤの希望は、まさに、ここにありました。
「主の御力の及ばないことは何一つない」、「主に不可能なことは何一つない」。今は何の価値もない、そういう土地だけど、いつか、神様が再び価値あるものにしてくださるに違いない。今は、人が住めるような土地ではないけれども、作物を育てることのできる土地ではないけれども、しかし、神様は、再び、ここに人が住めるようにして下さり、作物が実るようにしてくださるに違いない。
バビロンの攻撃によって、エルサレムは崩壊し、バビロンによって国は滅ぼされるけれども、にもかかわらず、いつか、再び、イスラエルの民は必ずこの土地に戻ってくることができる。
なぜなら、神様がそれを成し遂げてくださるからです。神様にできないことは何一つないからです。このような、神様の力に対する絶対的な信頼にこそ、エレミヤの希望は支えられていたのです。
バビロンの攻撃によって、エルサレムは崩壊しました。イスラエルは、希望も将来もない、そういう状況に置かれていました。それにもかかわらず、神様は、エレミヤに土地を購入せよと言われました。
バビロンによって国が滅ぼされたにもかかわらず、何の価値もないそういう土地であるにも関わらす、神様はその土地を購入せよとエレミヤに命じました。エレミヤは、不可能を可能にする神様の力に希望をもって、その命令に従ったのであります。
エレミヤが捧げた祈りに対して、神様からの応答が26節から続きます。そこにおいて神様は、「私にできないことがあろうか」といわれ、再び人々をここに呼び戻し、彼らに新しい心と新しい道を備え、永遠の契約を結び、この土地にイスラエルの人々を植えると約束します。
その約束は、バビロンによって滅ぼされたエルサレムが置かれた現実に反することです。現実からは、考えることのできない約束です。しかし神様は、現在の状況にもかかわらず、約束をなしとげることができる方であるます。
マリアが天使から、「あなたは身ごもって男の子を産む、その子をイエスと名づけなさい」と言われた時、マリアは、「結婚もしてない私に、どうしてそのようなことがありえましょうか」といいました。すると天使は、「神にできないことは何一つない」とマリアに告げました。ゲッセマネで、イエスさまも「父よ、あなたは、何でもお出来になります」と祈られました。
神様にできないことは何一つありません。神様は不可能を可能にすることのできる方であります。エレミヤの祈りは、現状を超える希望によって支えられた大胆な祈りでありました。エレミヤが抱いた希望は、現実的なものではありませんでした。現実を見れば、エレミヤのような希望の祈りをすることはできません。現状を超えて働かれる神様の力、不可能を可能にすることのできる神様の力にこそ、私たちの希望があるのです。不可能を可能にする神様の力に希望をもって、いつも心を神様に向けて、祈りつつ、歩んでいきましょう。