毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ3:14-21 「愛に生きるために」
パウロの願い、我々の願い
今日の説教題は「愛に生きるために」としました。これは、私が何となく思いついた言葉ではありません。むしろ、今日の14節にパウロが「御父の前に跪いて祈ります」とあるように、パウロの祈りを一言で言えばこうなるだろうという題です。この3章14節以下は、エフェソの人たちが、愛に生きるものであってほしい、そのように真剣に祈っているパウロの祈りの言葉です。しかもそれは明確な目的を持っています。例えば20節では「私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり」とあります。パウロが目指しているのは、このことです。端的に言いますと、一緒に祈ろう、ということです。それもあえて言いますと、神様の中で、神様とのかかわりの中で、一緒に祈ろう、という誘いです。そしてそれは、一緒にキリスト者として生きよう、という誘いです。そして私たちもまた、この言葉によって、パウロの生き方に誘われています。
跪いて、すべての家族
その場合に、まずはっきりしたいのは、先ほども確認しましたように、パウロの姿勢です。パウロは跪きます。それは、決定的に神様に信頼している姿です。そして、このことが、これ以降の祈り全体の方向を、そしてパウロの考え方、信仰全体を表しています。それは、願うべきは、頼るべきは、神様なのだ、という確信の表明です。そして、この点において、パウロには迷いがありません。それはまた、私たちにしましても、たとえばこの世の様々なことがあった時にどうするのか、という問いかけです。そして15節では、この世について、それもまた、神様の支配のもとにある、ということがはっきりと語られています。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」とあります。この場合に、すべての家族とありますのは、神様を父とするもの、神様に由来するもの、という意味です。それは、当然ですが、私たちを含みます。神様を父とするものは、すべて神様によって名を与えられたもの、神様のご支配のもとにあるもの、という意味です。その点では、エフェソの人たちばかりではなく、今ここにいる私たちにとっても、神様は、父なる神様だ、とパウロは指摘していることになります。そのうえで、このところでは、一つの方向が示されます。それは、16節にある、「内なる人を強めて」という言葉や、17節の「愛に根差して」という言葉によく表れています。
神の力
しかし、それは、いわゆる、道徳的教え、愛に生きましょう、という呼びかけではありません。もちろん、人を愛する、より具体的には、出会った人に親切にする、家族や友人がよりよく生きられるように支える、といった具体的な行動には意味があります。しかし、ここでは、それが実現するための、いわば土台の部分、私たちのあり方を決める、人間としての土台のところが問われています。そして、そもそも、このところのパウロの祈りの前提は、先ほども確認した通り、私たちが信仰者であるということです。神様の民であるということです。そのうえで、16節はこうでした。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、」。ここですでに多くのことが言われています。例えば栄光とは、わたしたちが神様から良いものをいただいて褒めたたえる、といったことを含みます。実際に神様は、私たちに働きかけられる、ということがこの言葉の前提です。その場合、神様は霊において、すなわち聖霊において、私たちに働きかけられる、ということになります。ちなみにそれは、わたしたちが、聖書の言葉を本当だ、と信じられたり、祈りが神様に聞かれているとわかったりすること、そのような信仰のあらゆる事柄において今すでに働かれている、その事実です。それが神様の「力の表れだ」とパウロは言います。
内なる人
しかし、話はそれで終わらないというより、これからが本番です。この16節で最も大切だと思われる言葉が一つあるとすればそれは「内なる人」です。これはいわゆる、私たちの心の中にもともとある働き、例えば、漫画で心の中で天使と悪魔が対決しているような、自分を客観的に見ようとする理性の働きではありません。そうではなくてむしろこれは、「新しい人」といったほうが良いものです。神様の霊の働きを受けて、私たちの中で、神様によって作られていくのがこの「内なる人」です。その意味ではそれは神様によって始まるもので、いわば神様と私たちとの合作と言ってよいかもしれません。そのような内なる人が「強められるように」とパウロはこのところで祈っています。そして、わたしたちが、普段何気なく、信仰が強いとか弱いとかいう場合の、その強さ、弱さは、私たち自身の心の強さ、思い込みの強さ、ではなくて、この神様によって造られた「内なる人」の強さ、弱さです。さらに言うのなら、パウロは、この「内なる人」は、基本的に弱く、不十分なので、強められ続けなければならないと、言っているのです。それに例外はありません。私もそうですし、皆さんもそうです。誰でも、この「内なる人」が強くされなければならない、とパウロは言います。そして、その方法は、最初にも確認した通り、祈りです。私たちが神様にまず願い祈るものがあるとすれば、この内なる人が強くなるように、という祈りです。
信仰によって、愛に根差す?
そして、このような祈りは聞かれて、私たちの中にイエス様が住むようになるというのが、その次の17節前半の言葉です。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」。これは16節から続いていますから、16節の最初にあるように「父なる神」がしてくださることです。父なる神様が、イエス様を、聖霊を通して、私たちの心の中に住ませて下さるのです。それが、私たちの「内なる人」が強くなる、具体的なイメージです。そして、イエス様が私たちの中におられる、ということ自体が、じつは、17節後半の、愛に根差し、愛にしっかり立つものになること、です。このことはどうしても、切り離してはならないのです。愛に根差して生きるとは、最初にお話ししたように、出会った人に親切にする、家族や友人がよりよく生きられるように支える、といった具体的な行動を、自分の決意や決断として、場当たり的にやっていこう、ということではないのです。そうではなくて、イエス様に住み込んでいただいて、そのイエス様の愛に促されて、イエス様のように生きようとしていくことこそが、愛に根差し、愛にしっかりと立つ者になっていく、という意味です。そしてそのような中から、愛の業が出てくる、という順番です。その場合大切なのは、愛そう、という決意自体が、すでに私のものではなく、私の内なる人、私の内なるイエス様の決意になっていることです。
広さ深さとは?
しかし、それは、一度にそうなるのではなく、少しづつ、変えられていく、知らされていくものだ、ということを言うのが、今日のところの18,19節です。例えば18節では「理解」という言葉があります。あるいは19節では「知るようになり」ともあります。しかし、これらの「理解」や「知る」という言葉は、ただ、本を読んで知識を得るというようなものではありません。このところでは、あなたがたが、すべての聖なるものたちと共に、とはじまっていまして、これが、個人的なことではなく、教会全体、場合によっては、キリスト者全体の問題であることがわかります。そのうえで、そのような関係の中で、私たちは、イエス様の愛について知っていく、と続くのですが、そこで少々面倒な言葉があります。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言い方です。これはすべて、測れるものです。そうしますと、イエス様の愛もまた、わたしたちが測れるものだ、とはならない、と私はこのところを読んでいます。おそらく私たちはイエス様の愛について、計測することはできません。しかし、あたかも計測したかのように、理解できるようになる、ということをこの言葉は表しているのではないでしょうか。
愛を知る
それは、イエス様の愛を、実際に味わって、それがどれほどすごいことなのかを、実際に体験していくときにはじめて理解されるものです。そしてそれは、矛盾するようですが、19節に「人の知識をはるかに超えるこの愛」と続いています。イエス様の愛は、わたしたちが、予想したり、想像したりすることでは、どうしてもわからないのです。しかし、それを知るようになる、というのが19節の言葉です。そして、実際に、そのようなイエス様の愛にあずかるのだ、と続き、さらん、それによって満たされると、続いています。これは全部私たちが、今このところで、すなわち、教会で、礼拝で、知っていくこととして語られています。では、それは具体的には、どのようにして起こるのでしょうか。それが、最初にお話ししました、祈りによって起きることです。
祈りの中で豊かさにあずかる
20節にはこうあります。私たちの内に働く御力によって、というのは言うまでもなく、私たちの内なる人、私たちの内なるイエス様のことです。聖霊のお働きです。その働きは「私たちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる」と続きます。これは全く現実的なことです。例えば、Aというものが欲しい、と願っていたとします。しかし、神様の御心は、そこにはなく、むしろ、Aよりももっと良い、もっと自分に、あるいは自分たちにふさわしいBというものが与えられる、というように、あるいは、自分では遠回りだ、災いだ、と思っていた事柄が、実は、最善のものだったというようなことが、後から分かって、それで、世世の教会が神様をほめたたえるようなことが、これから何度でも起きていく、とパウロは言うのです。21節の栄光が世世にあるようにとはそのような意味です。私たちは、そのようにして、ああ、このところに神様の愛が、イエス様の愛が、働いていた、と知らされて、神様をほめたたえるようになる、体験的に、愛を知るようになる、というのです。
愛に生きるために
そして、愛に生きるとは、その意味です。神様の愛、その豊かさにあずかって、それがどのようなものかを体験して、そして、確かに神様の愛は、私にまで届いていると知らされて、納得する、その生き方全体です。パウロは、わたしたちが、この生き方に入ってきてほしい、ぜひ、この愛を体験し、それに生きてほしい、と祈り、それだけではなく、そのように生きられるように、一緒に祈ろう、ぜひ私たちの祈りにしていこうと、招いているのです。
祈り
父なる神様、み名を賛美します。あなたは、測りがたいみ心によって、それぞれの時にかなって、私たちをあなたのものとして下さり、また、それだけではなく、私たちにキリストの霊を遣わし、私たちを育ててくださいますから感謝します。私たちはなお、内なる人の弱い者であるかもしれません。しかし、あなたに信頼し、あなたに祈り求め、あなたの愛を勝ち取るものとさせてください。この週の歩も、ますますあなたと共に歩むものとなりますように、また、私たちが遣わされていく先でも、愛に生きられますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。