毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ3:1-6 「明らかになっている恵み」
パウロの振り返り
今日からまた新しい章に入ります。「こういうわけで」とありますように、前のところのことばをうけて、しかし、ここからはさらにエフェソの人々を励ます言葉を語ろうとしているようなのですが、しかし、パウロは「あなた方異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている私パウロは」、というところまで書いてふと、自分の人生、その歩みに思いをはせているようです。キリスト・イエスの囚人というのは実際にパウロが何度か捕らわれ、まさに、使徒言行録の最後はローマにおいて軟禁された状態で人々に福音を語っていた、という終わり方であったのですが、それを含めて、神様がどのように物事を計画され、また、それがどのように実現したのか、ここでもう一度、神様の恵みが実際に人生の中で与えられているとは、どういうことなのか、改めて書いてみようとしているように見えます。苦難を含めてそこに恵みがあるというのです。
恵みの計画-そこに核心が
そこで2節を見ますと、「あなた方のために神が私に恵みをお与えになった次第」という言葉があります。このところを新しい教会共同訳は「あなた方のために私に与えられた神の恵みの計画について、確かにあなた方は聞いたはずです」と訳しています。こちらの方が正確な訳です。これは、おそらくパウロのダマスコでの回心の体験のことです。それこそ何度もお話ししていますけれども、ユダヤ教徒パウロがキリスト者を迫害しようと出かけて行ったダマスコ途上で起きたあの事件、イエス様との出会いの事件のことです。そこでパウロは一言で言えばまったく変えられてしまったのでしたが、話を元に戻して、2節で特に重要な言葉は「計画」です。ほかでもなくこれは神様のご計画です。まずは神様のご計画が先にあって、その計画の中に、パウロもエフェソの人たちも組み込まれている、こんな見通しです。この神様のご計画は、このところの3節の秘められた計画、や5節の計画という言葉とも結びついていてこのところの中心的な言葉です。さらに言うのなら、5節の人の子に知らされていなかったとあるように、その計画はずっと覆い隠されていたのです。それが明らかにされた、全く知らなかったことを教えられたとパウロは言います。ではその場合にパウロが何に目が開かれたのかですが、その点でこの2節でのパウロの書き方は、ヒントになるかもしれません。パウロは、このところで「あなた方のため私に」、と言っています。自分のためではないのです。むしろ、あなた方のため、です。ある意味では、神様の計画、秘められてきたもの、の中心にあるのが、このあなたがたとわたし、という関係性です。それが恵みとして私に与えられた、というのです。ある意味では、私ではない他の人へと目が開かれたのです。
ユダヤ人パウロ
その関係で、パウロの苦難ということを先ほど少しお話ししました。コリント下11章には「ユダヤ人から鞭を受けたことが5度」(11:25)ですとか「同胞の難」(11:26)といった言葉があります。パウロは伝道旅行の中で、様々な困難にあったようですけれども、その中で最もパウロを苦しめたのが、おそらくはこの同胞であるユダヤ人からの難です。パウロが裁判のためにローマに護送されるきっかけとなったのも、エルサレムにおけるパウロ反対派のユダヤ人たちが巻き起こした騒動によるものでした。それで、今日はこのことを詳しくお話しするのではなく、むしろ、一つのことについてみていきたいと思っています。それはユダヤ人たちの世界の見方です。彼らは神様が与えて下さった契約、約束、の相手は当然、我々だ、自分たちだ、と考えていたということです。これはパウロも全く同じでした。神様の民とはユダヤ人のことだ、と固く信じていたのでした。しかし、この点でまさにパウロは「変わった」のでした。そして、神様の約束は、我々だけではなく、神様がこれと思ったすべての人に開かれている、ということに目が開かれたのです。いわば、我々だけ、からあなたたちも我々も、に変わったのです。ここに神様のご計画を知る手掛かりがあります。わたしだけ、私たちだけ、というのはご計画に外れている、ということです。しかし、それは、他のユダヤ人たちには理解されませんでした。むしろ、これはとんでもないことをいうやつだ、それでもユダヤ人か、となったわけです。そこには深い理解の壁があります。
パウロへの啓示
そこで改めて確認したいのが5節の言葉です。そもそも秘められた計画は5節にある通り「人の子らに知らされていない」のでした。この言葉は、特に重要で、基本的に神様のご計画は、生まれたままの人間には、全く覆い隠されているのだ、誰もそれを知ることはできないのだ、とこのところは言っています。まさに理解の壁です。例えば先ほどの、パウロと彼に反対していたユダヤ人たちの間には、決定的な理解の違いがありました。多くの人はパウロの言うことがわからなかった、ただパウロだけがわかっていたのでした。他の人が見えないものをパウロは見ていたのです。しかしパウロは、根拠もなく、訳の分からないことを言っていたのではなく、むしろ、そうとしか思えないことを語っていたのでした。3節の「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」とあるのはそのことです。理解できないことへと目が開かれるのです。理解の壁が乗り越えられるのです。そしてそれは、自分の力で知ったのではなく、神様から「知らされた」のです。そしてこのことは、そのままエフェソの人たちにも、そして私たちにも当ては丸とパウロは言っているのです。そもそも神様を知る、神様を信じる、イエス様を救い主として信じる、といったこと、聖書の言葉をよんで、そうかもしれない、とわかるということ、それは、全部神様から目を開いて下さっているということだ、それがもう、あなた方には知らされているとって励ましているのです。
一人ではだめ
そして、それと同じくらいに大切なことがあります。それは、パウロが神様から何を教えてもらったのかです。そのことは6節に書かれています。もう一度読んでみましょう。「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐもの、同じ体に属するもの、同じ約束にあずかるものとなるということです」。神様の約束ということは、古くはアダム、ノア、アブラハムにまでさかのぼることができるかもしれませんが、この約束ということで大切なのは、いずれにしてもそれは神様と人間との間に関係がある状態だ、ということです。そのうえで、もう一つ大切なのは、この約束は、一人ではなく、みんなで参加するものだ、ということへと目が開かれていることです。ここで「一緒に受け継ぐ」ですとか「同じ約束にあずかる」といったことは、一人ではない、ということです。神様のご計画においては、ご計画の中に入っているみんなが一緒に目が開かれ変えられ、みんなが一緒に神様の約束にあずかるものであって、そこでいなくてよい人はない、ということがわかるのです。むしろ、それこそが神様のご計画の実現です。
同じ体に属する
そこで今、あらためて私たちは、周りを見回してみたいのです。今は、コロナの影響で、それぞれのご家庭において画面を見ている方もあるかもしれませんが、しかし、そうであっても、私たちは、一つの同じ時に、同じ言葉を共有しています。そして、このことは、たまたまそうであった、ということではありません。そこで、そもそも、このようにして説教が語られ、聞かれ、わかる、ということは、私と礼拝参加者の間の一対一の関係ではなく、たとえば私が何かすごいことを言って、それに感動して、ああ、わかった、というものでもないのです。そうではなくて、むしろ、ああ、このところにいるみんなが、一緒になって神様のご計画を今このところで実現している、ここにこそ、神様のみ旨が現れている、とわかることこそ、おそらく、この手紙がわかる、パウロの心がわかる、ということです。
短く書いた
このようにして、人は変えられることができる、いや、神様によって確かに変えられるのだ、そして、そのようにして、私が変えられたように、あなたも変えられる、ということころに、神様のご計画の実現があるのだ、ということこそ、パウロが福音としてエフェソの人たちに語り伝えたことでした。そして、その福音の中身を、私はこの手紙の中ですでに書いていると、3節では確認しています。「初めに手短に書いたように」とあるところです。初めにとありますけれども、おそらく、このところで意識されているのは、2章11節以下のところです。それはエフェソの人たちが、希望を持たない異邦人であったにもかかわらず、キリストのゆえに、神様に近いものとされ、一人の新しい人とされ、一つの体を作り出だし、神の住まいとなっていく、というあのことです。しかし、今日注目したいのは、このように書かれた部分を読むことで私たちにもパウロが何を言いたかったのかがよくわかる、と言っている4節の言葉です。これは聖書を読む、ということの意味を問う言葉です。
読めばわかる?ただ神が
「あなた方は、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかがわかると思います」。今、わたしたちは、こうして、エフェソの信徒たちに向けて書かれた手紙を、翻訳されたものではありますが、このように聖書を手にして読んでいます。そして、このようにして、パウロの手紙を読むのであれば、彼が体験し、神様から目を開いていただいてつかみ取った「私の理解」、神様のご計画とは、こういうものだ、という理解、世界観、考え方が、あなた方にもわかるはずだ、というのです。このパウロに与えられた理解は、パウロだけで終わらないのです。むしろ、パウロの手紙を読む人たちの中で働いて、後から後から、パウロの見たものを改めて、わかるようにさせるという仕方で働き続けていくのです。
明らかになっている恵み
その意味で、教会でみ言葉が読まれ語られ続ける限り、そこに集うメンバーがどれほど変わろうと、そこに集うものたちみんなで一緒に神様の秘められたご計画を現実の中で実現していくことにあずかっているのです。そして、そのようなこと全体が恵みです。あなたも私も、今すでにこのところで、神様の恵みの実現として、このところに集っているのです。
祈り
父なる神様皆を賛美します。あなたは、み旨にかなって、使徒たちや預言者、そしてパウロをご自身のものとして召して下さり、また、私たちをもご計画のままにご自身の恵みを受け、それを地上で表すものとして召し出してくださっておりますから感謝します。私たちはすでに、あなたのご計画にそって、新しい人として生きています。私たちの教会も、ますます、この一つとされた新しい人として歩めますように強めてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈ます。