毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ2:19-22 「満ち足りた家」
一緒に父の下へ
教の聖書箇所は私たち新座志木教会の年間目標「神の住まいとして生きる」のもとになりました22節のことばを含んでいます。神の住まいとはどのようなところかなあ、と考えました時に、やはりそれはうれしいところ、満ち足りたところだろう、と思いましたので今日の説教題は「満ち足りた家」としました。実際のところ、私たちは、もうそのような家に入っている、足を踏み入れている、それがこのエフェソの手紙では繰り返し語られています。例えば、19節の始まりはこうでした。「したがって」、したがって、というのはその前を根拠にしている言葉です。その前の段落は先週読んだところで、そこでいわれていたのは、あなた方は以前は異邦人だったが、今や、キリスト・イエスによって近い者になった、単に近いだけではなく、罪を赦されて、敵意が滅ぼされて、新しい人になっている、そうして新しい人になって、みんな一緒に、父なる神様に近付くことができる、このような流れでした。これがキリスト者の現実、私たちの現実だ、とパウロはすでに確認してくれていて、したがって、「あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属するもの、神の家族であり」と続いているわけです。
神様と住む-サグラダファミリア
何しろ神様の家族ですから、神様と一緒に住む、それも一人ではなくて、みんなで神様に近付き、みんなで一緒に神様と一緒に住む、ということになります。しかし、このところでは、私たちは、家の中に入る、というよりはむしろ、私たち自身が家になる、こんな語り方がなされています。少し前に知ったのですけれども、スペインのサグラダファミリア教会が、もう少し後、2026年に完成するかもしれない、ということがニュースになっていたようです。1882年から建て始めて、完成には300年はかかるのではないか、と言われていたあの建物ですが、このところの技術の進歩と、観光収入の増加で、いきなり半分程度の年月で完成が見えてきたとのことでした。しかし、私たちがたて上げる建物は、実はかなり先まで、と言い切ってしまってよいかどうかわかりませんが、といいますのも、この世界が終わる時には、私たちもまた、完成の時を迎えますので、その時には否応なく、私たちがたてている建物もまた完成する、ということになるのですが、そしてそれが、明日のことか、千年先のことかは、私たちには全く予測ができないことです。これは大切なことで、私たちは神様のされることについて、あれこれと詮索することはできないので、それははっきり覚えておくべきですが、一つ確かなことは、この私たちも組み込まれている建物は、これから、どこまで大きるなるのかはわかりませんが、とにかく成長していく、成長し続けていくということです。
成長する家
その場合の成長とは、これも当たり前といえば、当たり前のことですが、それは、私たちのこの教会が、この場所で、数が増えるですとか、経済的に豊かになるですとか、新しい会堂を立てるですとか、そんなことがあればいいなとは思いますし、ことさらにそれを否定するつもりもありませんが、しかし、成長のイメージは、もっと、もっと大きなものです。さらに言いますと、歴史を貫くものです。このところで語られております成長は、はるかに前の時代から始まっていて、この時代を超えて先に進んでいく、そんな成長です。それはこのところに書いてある通りで、例えば20節では使徒や預言者という土台とあります。いうまでもなく、使徒とは、あの12弟子のことです。或いはパウロを含めてよいかもしれませんし、もう少し広く、初代教会で、パウロと協力して教会に仕えた人たちとしてもよいかもしれません。それから預言者というのは、旧約の大預言者たち、というよりはむしろ、当時教会にそのような特別な働きがあった、ということのようですが、いずれにしましても、それは2000年以上前、教会が生まれたときのことです。その人たちがまずはあなた方の土台だ、というのです。
要石としてのキリスト
でも、それもまた、家の土台というだけで、さらにその下でがっちりと支えている方があると、このところはつづきます。それが「要石はキリスト・イエスご自身」というところです。旧約聖書のイザヤ書には「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。」(28:16)という言葉があります。これは、イエス様のことを預言した言葉と言われています。神様ご自身が一切の基になり、また、中心になる石を固く据える、という言葉です。先ほど土台は使徒たち、という言葉がありましたけれども、家の土台である使徒たちをさらに下からしっかりと支えている、そういう存在として、イエス様ご自身がいて下さる、こんなイメージです。しかし、ある意味ではこれは当たり前のことです。何しろ、使徒にしても預言者にしても、彼らが行動し語った言葉はすべて、イエス様のことであり、イエス様のして下さったことでしかないのです。イエス様がしてくださったことがなんであるのかは、すでに前の段落で丁寧に語られていましたが、それは一言で言えば、私たちを平和にしてくださったのでした。それを言い換えれば福音となります。そして、おそらく大切なのは、私たちが、具体的にこの世の歩において、イエス様を土台にしてたて上げられていくことです。それは、21節にこのようにある通りです。
建て上げられる我々
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し」。ここでは大きく分けて二つのことが語られています。一つは、イエス様が一切の土台なのですけれども、今でもその上に建物がたて上げ続けられていて、今でも、その建物は組み合わせられ続けている、という事実です。わたしたちが、どのように洗礼に導かれたのか、あるいは、すでに二代目、三代目のキリスト者だ、という方でしたら、信仰告白をするに至ったのか、ということは人それぞれでしょうが、いずれにしましても、イエス様を救い主として信じます、と告白しました時に、私たちは、この建物の一部になったのです。はるか昔から積みあがってきて、組み合わされてきて、今もなお、次から次に組み合わされる大きな大きな建物にカチンとはめ込まれて、一緒に生きるものになったというのです。そして、ある意味では、そのようにして、なお建物が積みあがっていく、ということがこのところでいう成長であるかもしれません。しかし、私はそれだけではないだろう、と考えています。それは、建物がただ数が増えて大きくなるということだけではなく、むしろ、組み合わされた一人一人もまた、その建物に欠くことのできない一人の人として、成長するものだろうと考えているからです。
成長する
その時に特に覚えたいのは「組み合わされて成長し」とあることです。一人がどんどん大きくなり、他の人が隅に追いやらされる、というのではないのです。むしろ、組み合わせにおいて成長していくのです。そして、全体として、神殿になっていく、というのです。それこそ先ほど、サグラダファミリアのお話をしましたが、私たちは、あの建物よりももっと大きくて、もっと輝かしい、神殿を形作っていく、その中の一人として、今このところに生かされていることになります。そして基本的な方向性は、神殿形成なのだ、ということもすでに確認した通りです。私たちは聖なる神殿、神様の住まれるところとなります。それは22節にある通りなのですが、最後に二つのことを確認したいのです。一つは、わたしたちが成長するという場合のその成長の方向性です。それからもう一つは、私たちが具体的にこのところにある教会としてどのように成長するのかです。
キリストへ
それで、実はこのことは後でこのエフェソ書に登場する箇所で語られていますのでその時に詳しく見るべきかもしれませんが、成長の方向性ということでは決定的な言葉として、4章15節があります。「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」あらゆる面で、ですから、私たちの全人格的に、と言ってよいはずです。もっとはっきりといえば、私たちが目指すのはイエス様ご自身だ、ということになります。そんな無茶な、と思われるかもしれませんが、実はそれ以外にはありえないのです。わたしたちが、この週末まで続く全歴史を貫く教会全体としてはもちろん、個別の教会として、あるいは、その教会に属する一人のキリスト者として、どのように成長するのか、という答えはすでに出てしまっているのです。それは、教会の土台そのものを下支えするイエス様のようなものになるように、それを目指して、成長するという以外にないのです。しかし、その場合に、では、イエス様のようにとは具体的にどのようなことか、と思われるかもしれません。もちろん、福音書を紐解けば、イエス様がどのような方であったのか、を様々な角度から語ることができるかもしれません。
愛に根差して
しかし今は、やはりエフェソ書の言葉から聞いてみます。3章にある言葉です。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(3:17)。ここで大切なのは、心の内にイエス様が住んでいる、ということです。私たちが神殿であること、神殿になっていくこと、神殿として組み合わされて成長すること、それはただただ、神様がいるところになるためです。イエス様がいるところになるためです。わたしたちが成長するとは、私たちの中にイエス様が十分に、たっぷりといて下さるようになることです。そして、それがかなえばかなうほどに、私たちは、イエス様のように、愛に根差して立つ者に変えられていくのです。それが、イエス様のようになるということの意味です。
満ち足りた家
最初に、神様がいて下さるところは、いいところだ、とお話ししました。神さまがいてくれるところとは、そのまま、イエス様がいてくれるところです。そして、イエス様がいてくれるところは、イエス様の持つあらゆる恵みがみられるところです。今、わたしたちがどのようなものであったとしても、目指すべき方向はすでにはっきりとしています。それは、このイエス様によって満たされた家、満ち足りた家になることです。そして、私たちはすでに、この歩みの中に入れられているのです。
祈り
神様、あなたは私たちをご自身のものとして下さり、今も変わらぬご計画によってあなたの住まいとしてたて上げ、成長させてくださっていますから感謝します。私たちはすでに新しい人として生き始めました。さらにわたしたちが、一つの教会として組み合わされ、豊かにあなたのご栄光を表すものとしてくださいますように。この週もあなたの祝福の内に歩めますように。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン