6月27日説教原稿

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6月27日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ2:11-18「大胆に神に近付く」
思い起こすこと-昔と今
今日の聖書の最初のところの呼びかけは「だから、心に留めておきなさい」という命令です。これを新改訳聖書では「ですから、思い出してください」と訳しています。どちらも間違いではありません。思い出し、しっかりと覚えることが命じられています。何をかといえば、エフェソのキリスト者たちの、昔と今です。特に今なんであるのかです。今日の説教題は「大胆に神に近付く」としました。このところでパウロが特に覚えるように、と強調していることを一言で言えば、これになります。私たちもまた、このこと、かつてどうであったのか、そして今はどうなのかを、このところをたどりながら、一緒に確かめたいのです。ところで、このところは大きく分けますと11から13節が昔のこと、特にエフェソの異邦人キリスト者たちがどのような者たちであったのかをまず語り、次の14-18節で今はどうなっているのかを語る、というまとまりになっています。それで、まずは最初の塊から読んでいきます。この最初のところは、先ほどもお話ししました通り、「心に留めなさい」で始まりますが、それに続いて、エフェソの人たちが、異邦人であった、という断りが語られます。特にそこで、「肉によれば」とあります。これは生まれながら、とか人間の規準によれば、というくらいの意味でよいと思いますが、ようは区別されていた、というのです。誰からといいますと、いわゆる手による割礼を身に受けている人たち、ですから、これはユダヤ人です。しかも、ただ区別を受けていたのではなく、もう一つの特徴として、キリストと関係のない者だった、と続いています。さらに、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、というようにどうも散々な書かれ方をしています。

異邦人だけが悪いのか
それに対して、では異邦人ではないイスラエルの民はどうなのか、ということについて、このところではあまり多くが語られていないように見えます。しかし、例えば11節の「いわゆる手による割礼を身に受けている人々」という言い方にすでに、イスラエルに対する批判があるように見えます。割礼とはそもそも、契約のしるしでした。創世記15章では、アブラハムとその子孫について約束が与えられ、その約束の中にあるもののしるしとして割礼を受けるように、という神様の命令が語られたのでした。そこで大切なのは、まず約束が先にあった、ということです。神様のとの約束が本体なのです。しるしはあくまでしるしにすぎません。約束のほうが忘れられてしまったり、また、約束に生きていないのなら、それは、ただしるしがあるだけということになります。形になってしまうのです。その関連で言いますと、例えば15節の「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」という言葉も気になります。そもそも、律法自体は、すたれないもののはずです。ではここで何が言われているのかですが、問題は規則と戒律とある部分です。律法を解釈するのです。そして、このようにしなければいけない、こう生きなければイスラエルではない、この規則通りに生活しない者たちは、ダメな奴らだ、というようにがんじがらめになっていた、ということです。そうしてがんじがらめにして、人間同士を区別し、あれは異邦人だから、と言って壁を作っていくということになります。そしてまさに、自分でこのような壁を作ってしまっていることが大問題なのです。そしてこの心の壁はやがて現実の壁になります。

根本問題は敵意
トランプ大統領の公約の一つは、メキシコとの間に壁を作ることでした。しかし、それよりも一歩先に、パレスチナのガザ地区は、イスラエルによって封鎖されています。あのところに住む人たちは、誰もイスラエルの許可なしに、この壁の外に行くことができないそうです。そこで注目したい言葉があります。それは、14節の「敵意という壁」という言葉です。人間同士が他の人を敵とみなし、区別し排除しようとする意識そのものです。そして、実は、私たちは、多かれ少なかれ、この「敵意」を持つ者として、生きているのかもしれません。その場合に、敵意は、一人では当然ですが持てないのです。具体櫃な関係の中で敵意が生まれます。そして、このエフェソ書の場合の敵意は、ユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者の間の関係として、描かれているように見えます。しかし、おそらくそれだけでは不十分です。もう一つ、そして最も大切な関係があります。それは、神様と人間の間の関係です。実は、以前は、という最初の書き出しでまず確認することが望まれていたのは、おそらく、このこと、すなわち、私たちは誰であっても、もし、敵意をもって生きているのであれば、実は神様との間にもまた敵意をもって生きてきたのではないか、という問いです。そしてこれは例外はないのです。そして、おそらく、私たちもまた、この問いから逃れられないのです。

この世で希望を持たず-逆転がある
そしておそらく、12節でいわれている「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」。という言葉が言うのはその状態です。根本問題は、神様との間の隔てがあることです。そして、神様と遠い状態にある人は、この地上で敵意をもって、生きていくのです。その先には、人間同士、心の中の壁をもっているだけではなく、先ほど見ましたように、現実に壁を作って暮らしていく、ということにもなりかねないのです。しかし、それが全く逆転したと、13節で語られます。「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、近いものとなった」。イエス様が、来られたことによって、近づくことができない者から、近いものとなった、大逆転がすでに起きているというのです。それは、すでにお話ししました通り、二重の意味です。イエス様によってまず何といっても、神様に近い者、神様との間が親しいものになっているのです。さらに、そのような者同士であれば、人間同士の間もまた、近しいものになっているのです。これは、なるだろうとか、なるはずだ、ということではありません。もう今すでに、そのようになっているという意味で、「今は」というのです。敵意という昔は去っているのです。これもやはり、どうあっても覚えるべきことです。

キリストは平和
もはや、うんざりするような現実は過去のものとなった、今やイエス様によって新しい生き方の中に入っているというのです。それがどのようにして起きたのかを、丁寧に語りますのが13節の終わりから16節です。その冒頭でいわれておりますのが、「実に、キリストは私たちの平和であります」という言葉です。これも決定的な言葉です。あえてキリストと言われています。油を注がれた方、救い主、という意味です。何から救うのか、それは言うまでもなく、私たち自身からです。私たちの中に働く、敵意からです。どのように救うのかといいますと、平和を実現することによってです。その平和とは、まず何といっても神様との間の平和です。世界を治めておられる方との間に、平和がもう来ているのです。そして、これがすべての土台になることです。そこでは、新しい動きが始まるのです。その新しい動きとは「二つのものを一つに」という動きです。それはすでに確認しました通り、神様と人間、人間と人間、両方の意味で、二つのものを一つにという動きです。そのためにこそ、イエス様は、ご自分の肉によって、すなわち、ご自身を十字架でささげものとすることで、私たちの中で働く身勝手さ、から出てくるあらゆる罪に勝利をされたのです。その時には、私たちの中の隔ての壁、自分と人とは違う、自分だけがかわいい、自分だけが良ければいい、というあの隔ての壁が、見事に解きほぐされるというのです。

一人の新しい人
そのようにして、イエス様が十字架で罪に勝利されたことによって、起きることを改めて語りなおすのが、15節です。ここでは二つのことが言われます。まずは律法の廃棄です。しかし、これはすでにお話ししましたように、おそらく律法そのものというよりは、律法を解釈した上のルール人間の定めのことです。そのような差別、区別は廃棄されたのです。そして、何が起きるかといいますと「一人の新しい人に造り上げ平和を実現し」とある通りです。これもまた、真剣に聞きたい言葉です。私たちは、キリストに結ばれて新しい一人の人になっているというのです。そして何よりも確認したいのは、これが、自分たちでこれから作り上げていくと書かれていないことです。そうではなく、イエス様が、私たちを造り上げて下さっていて、私たちを一人の人につないでくださっていて、そして、それ自体が、平和の実現になっているのです。いうまでもなく、この一人の新しい人とは、わたしたちの教会のことにほかなりません。もちろん、この教会だけではなく、すべての正しい信仰を持つ協会が含まれますが、私たちの群れもまた、この新しい一人の人なのです。そして、それは、今すでにそうなっている、そのようなものとして形作られているのです。そして、わたしたちが、この事実に即して歩んでいくことにおいて、今このところで、この現実の中で「平和が実現」していくのです。

敵意は破られた
その一切の土台は、すでに確認した通りですが、16節で改めて強調されております通り、キリストの十字架です。このところに「十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」とある通りです。これが私たちの現実です。もちろん、私たちは、もう一つの現実、弱肉強食の現実、それを前提とした社会にも属しています。しかし、ではその中で、どちらのルールで生きているのかといえば、それは、イエス様の作ってくださった現実なのです。そうであるからこそ、このところの冒頭は、とにかく「心に留めなさい」だったのです。あなたたちは、もう平和にされた者となっている、神様との間に平和があり、敵意がなく、お互いの間にも敵意がないそんなものになっている、だから、そのことを覚えて、たえず心に留めて生きてほしい、このように呼びかけるのです。あの十字架において、すでにあそこに勝利があるのです。

大胆に神に近付く
そして、それゆえに、平和の民である私たちは、大胆に神様に近付いていくことができるのです。それがもうできるようになっているというのです。私たちは今すでに大胆に「神様に近付くことができる」者たちです。わたしたちは「一つの霊に結ばれて」「御父に近付くことができる」そのようなものに今すでになっています。この事実を思い起こし、思い起こしつつこの週を歩みたいのです。

祈り
父なる神様。あなたは、ご自身の深い憐れみにより、私たちをキリストにおいて、新しい一人の人として、生かしてくださいました故に感謝します。私たちは、すでにこの新しい一人の人として、大胆にあなたに近付くことのできるものとされ、そして、平和を生きるものとされています。どうぞわたしたちが、これから遣わされます日々の生活においても、この平和に生きることができますように、どうぞ、この週日の歩みにも、あなたがともにいてくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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