毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ2:1-10「新しく生きるために」
新しく生きたい
今日の説教題は「新しく生きるために」としました。このエフェソの個所を読みまして、単純に「新しく生きたいなあ」と思わされましたのでそのように付けました。そしてそれは、私自身の生き方の問題ではありますが、それにとどまらず、教会の問題でもあると考えています。実は私自身、あるいは皆さま一人一人もそうなのですが、このところの言葉に聞いたときに、新しい生き方とはこういうことか、というような発見を手にできればいいと願っています。そして、実はそのことが、具体的な教会、この新座志木教会をしっかりと作り上げていく基礎になっていく、そんな見通しを持っています。
死んでいる?
ところがこのところの書き出しの言葉は、なかなか大変です。「あなた方は死んでいた」とあります。いや、そんなこと言っても昔も今も生きていますけど、と言いたくなるのですが、しかし、まさにそのように、口答えしたくなる、その所にこの言葉の意味があるのかもしれないのです。それで、この場合の死んでいる、というのは文字通りの意味でないのは確かです。生き物として、生きているか死んでいるか、という話ではない、ということです。何度もたとえとして引いていて、またか、と思われるかもしれませんが、ルカ15章の放蕩息子のたとえと呼ばれる話で、財産を食いつぶした弟息子が帰ってきて大喜びで迎えた父親は、この子は死んでいたのが、生き返った(ルカ15:24、32)というところがあります。あの例えでは父親は神様のことでした。神様の前に、あるいは神様と共に歩もうとせず、むしろ、逆らっている状態、それを指して「死んでいた」神様的には死んだも同然だった、というように言っているわけです。それで、どのように生きていたのかというと、2節にあります通り、神様ではないものに支配されていたというのです。「空中に勢力を持つ者」、「不従順なものたちの内に今も働く霊」とあります。これは端的に言いまして、悪魔とか悪霊といったたぐいのようです。ただ、詳しく描かれていません。むしろここで大切なのは、神様に逆らっている状態というのは別の霊、別の考え方に支配されている状態だ、という指摘です。
性だけではなく
そこで問題なのは、このような霊の影響を受けているということ自体実は私たちにはわからないらしい、ということです。むしろ、人間は自分に正直に生きている、自分が望んで選んでそうしている、と考えておかしな方向に向かっていくわけです。それは、例えば、まさに放蕩息子のたとえの弟息子が、自分の望み、願望で、放蕩三昧をした、ということによく表れています。あるいは勝手気ままな生き方、ということでは性的なことに典型的にみられるかもしれません。性は自然の欲求だ、という主張をよく耳にします。やりたいように恋愛することを、自由とか自然とか言ってみたりするのです。そのようにして好き放題にすることを権利だ、と息巻いているような言葉はそれこそ昔からありました。そして実際のところ、日本においては、世間から後ろ指さされない限り、特に支障もなく生きられる、といえば生きられるのです。けれどもそれは、3節にあります、「肉の欲望の赴くままに」といった状態ではないかとパウロは問うのです。そのようにして好き勝手に生きたい、それで何が悪い、と開き直っている状態こそ、キリストに救われる前の異邦人的な生き方そのものなのだというのです。しかし、ここまで聞かれて、いや、私はそんな性的な堕落とは関係ない、キリスト者としてはもちろん、キリスト者になる前だって、そんな生き方をした覚えはない、と思われる方もあるかもしれません。
パウロのあり方
それで3節をよく見ますと、私たちもみな、とあります。これは、ユダヤ人を含んだキリスト者はみんな、ということです。そうしますとパウロもこの中に入っていることになります。パウロは、幼いころから律法を学んだ人で、いわゆるエリートですから、異邦人的な生き方をしていたわけではありません。しかし、それでもやはり、「こういうものたちの中にいた」というのです。それは神様に逆らって、この世の霊に従って、「肉の欲望の赴くまま」、「心の欲するままに行動して」いた、とはっきり書いてあります。おそらく、パウロは性的不品行や、お金の上での不正といったこととは無縁な人です。では何が問題だったのか、といいますと、それは彼のかつての生き方に現れています。例えば使徒言行録では3回もパウロの回心について描かれていますが、その中にこんな言葉があります。「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」(26:9-11)。
キリストとの結合
神様に大真面目に仕えているつもりで、イエス様に対して怒りを燃やし、キリスト者たちを追い詰め、転向させようと暴れまわっていたのです。そのころはそれが、全く正しいことだと信じていたのです。しかし、後になると、それが全く自分の身勝手な思い込みから出ていたのだ、ああ、これでは堕落した生活をしていると見下していた異邦人と変わるところがない、結局自分勝手にふるまっていただけだ、自分もまた、死んだ者のようだった、神様に逆らって粋がって怒りを買うようなものでしかなかった、ということが、後から分かったのですね。わからないものがわかるようになる大転換があった、ということです。その大転換の様子を描いているのが、4-6節です。これはそのまま続けて読んでみます。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」読むだけでも十分ですけれども、あえて言いますと、私たちは、神様によって、その力によって、イエス様と一緒に復活させられていて、今すでに、天の王座についているのだ、そういうものになっていることが、わかるものにされたのだ、というのです。そして、このことがわかるようになったものから見ると、以前の自分が死んでいたことがよくわかる、とこういう構造になっているのです。
造られたものとして
それでそのことを、例えば10節では「私たちは神に造られた」といいますし、さらに「キリスト・イエスにおいて造られた」となっています。いわば、私たち一人一人は、イエス様の作品だ、というのです。キリスト者になるとは、言い換えますと、このようにして、人間として、新しく作り替えられること、そして、それまでとは物の見方が全く変わることであって、当然ながらものの見方が変わるのですから、生き方も変わっていくことになります。私が、最初に新しく生きたい、とお話ししたのは、このことです。この新しい作品としての生き方に変わっていきたい、ぜひそちらで生きていきたい、と願わされたからです。そして、また、それこそが神様が願っておられることです。7節にこのような言葉があります。「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」私たちは、死んでいたところから、イエス様と一緒に生きるものに変えられたのですが、それはそれだけでおしまい、ではないというのです。わたしたちが、イエス様と一緒に生きている、そこに豊かな恵みが現れている、それを、これから来る時代、すべての時代に見せつけようではないか、そのように考えておられる、というのです。
我々を通して
しかし、それは何も、わたしたちが、鯱張って、証しなくちゃ、模範的にふるまわなくちゃ、と言って無理に何かをすることではないのは、このところに書いてある通りです。わたしたちが、新しい生き方で生きるということは、まったく、私たちの力によらず、むしろ、神様からの贈り物です。8節に「神の賜物です」と書いてある通りです。そこで、もし、一つだけ注意するべきことがあるとすれば、それは自分を誇ることの禁止です。そして、行うべきことは、神様が用意してくださった「良い業」です。とはいえ、この場合の良い業とは一体なんであるのか、このところでは全く書かれていません。しかし、おそらく、この後で登場します、教会のあり方、例えば二つのものが一つになるような、互いに愛し合うような、愛に根差して、教会をたて上げていくような、そのような生き方全体を指しているはずということはできるかもしれません。
良い業に生きる=神に生きる
しかし、とにかく今この言葉と向き合って大切にしたいのは、「私たちはその良い業を行って歩むのです」という言葉です。この場合の歩む、とは生きる、ということです。なにげない普段の生活において、どこにいるときにも、神様が用意してくださった生き方に沿って生きる、という意味です。それは最初に確認しました、好き勝手に生きる、自然に生きる、神様抜きで生きることとまさに正反対の生き方です。わたしたちは日々神様抜きで生きるか、それとも、神様が用意してくださった生き方、神様とイエス様と共にある生き方でいきるか、問われていると言えるかもしれません。そして、そこで私たちを導くものがあるとすれば、それは、自分が何者になったのかを、確かめることです。
新しく生きるために
このところに書いてあることを正しく知ることです。何度でも、何度でも、改めて、このことをかみしめることです。わたしたちが、死んだようなものであったところから、イエス様と一緒に復活し、すでに天に着座しているという、その事実を、わたしのこととして、知ることです。その驚きと、喜びがある限り、私たちは新しい生き方において生きていくものであり続けるのです。
祈り
父なる神様。あなたは、ご自身の深い憐れみにより、私たちをキリストと共に復活させてくださいました。それは、あなたを知らない生き方からの解放です。私たちは、今、すでにこの生き方に入れられておりますから、感謝します。わたしたちがあなたを礼拝することにおいて、また日々祈り賛美することにおいて、ますますこの私たちに与えらえた身分を味わい、喜ぶことができますように。どうぞ、この週日の歩みにも、あなたがともにいてくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。