6月13日説教原稿

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6月13日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ1:15-23「今ここにある幸い」
元気でいるために?
私たちにとっては当たり前になっていることですが、キリスト教信者ではない方たちから見たときに、このようにしてわたしたちが教会に毎週集まって礼拝すること、というのはちょっと不思議な、あるいは、大変そうにみえるようです。その一方で、とにかく教会に来たい、教会で礼拝したい、という方が多くおられることもよく知っています。そして、それはただ、それが習慣になっているから、というだけではないのです。ここに何かがあるから、熱心になるのです。では、私たちが行っているこの礼拝に何があるのでしょうか。おそらくそれは目に見えないものです。眼に見えないけれども確かにあるもの、例えば、今日の聖書の言葉は、明らかに励ましの言葉です。礼拝では、このパウロの励ましの言葉を聞いて励まされるのです。

パウロがみているもの
その場合にパウロは、ただ、他人事のように、横でガンバレ、と言っているのではありません。パウロ自身がまず喜んでいるのです。エフェソの人たちのうわさ話を聞いただけで「感謝している」と言っています。以前開拓して、今は遠く離れている教会の良いうわさが聞こえてくる、聖なるものたちが、互いに愛し合っているらしい、そんな話を聞くとうれしくなって、祈りの度に、エフェソの教会の人たちのことを思い出して感謝して祈っている、というのです。これは本当にパウロ自身がしみじみと感じたことを素直に語っている言葉のはずです。「ああ、よかった」と実感して、神様に感謝しているのです。そしてその「良かった」という思いの更に奥に、おそらく、パウロは直接目には見えない神様のお働きを見ていたのです。神様が確かに働いてくださっている、このことを、確認して、喜んでいるのです。そしてパウロが今日のところで伝えたいのも、この「神様のお働き」です。なぜなら「神様のお働き」こそが、18節にある「希望」という言葉の中身だからです。「ああ、私に希望がある、ああエフェソの人たちの上に、希望がある」こんな感じです。一言で言えば、「私たちには希望がある」、「とっても大きな希望がある」となります。「だから、みんな、もっともっと、その希望を知ってほしい、決して忘れないでほしい」というのです。パウロの励ましとはこのような意味です。信仰の先輩としてのパウロは、自分のみている、味わっている希望、それを、エフェソの人たちにももっとはっきり、もっとしっかりと、肌身て感じてほしい、伝わってほしい、開眼してほしい、と願って呼びかけているのです。

すべてにおいてすべてを
そして、エフェソの人たちが、あるいは私たちもまた、同じであるはずですが、目が開かれていくべきこと、そのゴールはひとまずこのところでは、23節の言葉です。これは、教会がなんであるかを語る言葉です。ここでは二つのことが語られています。まず「教会はキリストの体」ということが一つ目です。それからもう一つは、その体の中に、イエス様ご自身が満ち満ちている、ということです。さらに言いますと、「イエス様」とは「すべてにおいてすべてを満たしている」方なのだ、といいますので、そのような方としてのイエス様が満ちているところだ、とこうなるはずなのですが、これはちょっと抽象的かもしれません。イエス様が教会に満ちているってどんなことだ、ですとか、イエス様がすべてのものを満たす方だ、とはいったい何を言っているんだ、そもそも、すべてとはなんだ、ということになります。それで、結論から言いますと、これはまとめの言葉ですから、その途中が重要で、ようは、17節から22節に至る各節で書かれていることが、いちいち分かれば、この結論に至る、とこういうことになるのですが、今日は一つ一つ確認していますと、かなりの時間になりそうですので、要点だけお話しします。

キリストの支配
22節では、途中からですが、このように書かれています。「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」。この場合の「すべてのもの」とは、この世界にあるあらゆるもの、と考えてよいはずです。その場合には、霊的なものも、物質的なものも、ありとあらゆるものが含まれます。その場合には、もちろん、悪しき存在、聖書で、悪魔ですとか蛇と呼ばれているようなもの、また、その働きに屈してしまっているような世界の様子も含めて、ということです。しかし、そうしますと、私たちは、たちまち、そうはいっても、と言いたくなります。現実に、思わしくないことがあるではないか、理不尽なこと、残念な事件が、たくさん起きていて、戦争のうわさも伝わってきて、と思わないではいられません。ミャンマーでは相変わらず、国軍による圧政が続いていますし、イスラエルとパレスティナの応酬も記憶に新しいところです。毎日事故や事件によって、痛ましい犠牲者が出た、という報道が繰り返されています。私たちは高級娼婦といった言葉は、せいぜい19世紀のフランスの小説とか、戦前の日本のことだろうと考えてしまっているところがありますが、いわゆるパパ活と呼ばれていることの実態は、かつてのお妾さんのあり方とあまり変わらないようです。現代の東京の街中でそんなことがまかり通っています。一方その横で、生活保護者数は過去最高を記録して、それからもこぼれてしまう人たちが存在しています。何かがくるっているのではないか、という現実が一方では確かに存在しています。

復活によって
しかし、パウロは言います。「神の力は働いている」と。20節はこうでした。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ」。わたしたちがイエス様を信じる、という場合に、その中心にあるのは、この復活です。それは、死に打ち勝つ力です。否定に打ち勝つ力です。神様の愛を認めようとしないあらゆる考え方に打ち勝つ力です。神様が、この世界を、ご自身の良い計画に従って秩序あるものとして創造されたこと、罪が入り込んで、その秩序が乱れてしまった後でも、それを修正するご計画を持っておられて、時いたってイエス様の十字架によってすべての罪を処罰し、新しい人間のあり方を示すものとして、イエス様を復活させられ、それを弟子たちにあらわされた、というのは最も素朴で単純で、しかし、一番大切なキリスト教信仰の核です。そして、私たちの希望は、全くこのところにかかっています。本当にイエス様は復活してくださった、そして、私たちもまた、このようにして、イエス様と同じものにしていただくことができる、少なくとも死の先に、この復活の時が待っている、これが私たちの持っている希望です。たとえこの世界が、どれほど悲惨でめちゃくちゃに見えたとしても、しかし、すでにこの事実は起きています。そして、イエス様のご支配は始まっているのです。天においてイエス様が神様の右の座に着いたときに、新しい支配がはじまった、ということを言うのが21節の言葉です。今やすでにイエス様はあらゆる名の上におられる方となったのです。

我々が受け継ぐもの
それで、例えば18、19節でいわれていることは少しも大げさではありません。もう一度読んでみます。「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」神様に招かれた私たちは、希望を持っている、とある通りです。そして、その希望は、栄光に輝いているのです。また、私たち信仰者には「絶大な働きをする神の力」が今すでにある、というのです。そして、私たちは、実は、このことを確認するために、毎週、毎週、飽きもせず、教会に来るのです。毎週淡々としているようにも思える、礼拝をささげ、毎週聖書の言葉に聞いているのは、ただ、このことを自分のものにするためです。毎週礼拝に集まるための何かがあるとすれば、この希望、神様の力が私たちのものとなっている、このことを確かめるためです。そして、パウロもまた、このことを強く進めているのです。このところでは、一つの傾向を持つ言葉が繰り返されていることに気づきます。それは、例えば、先ほどの18,19節では「心の目を開いて」ですとか「悟らせてくださいますように」といった言葉です。あるいは17節では「知恵と啓示との霊を与え」「深く知ることができるように」とある通りです。知ってほしいのです。届いてほしいのです。

霊を与え
最後に一つのことを確認します。私たちに神様の力という希望を知らせるのは、キリストの霊、聖霊なる神のお働きです。そして、そのお働きは一度では終わらないのです。すでに先週確認した通りですが、わたしたちが、キリスト者になるということは、聖霊において、神様のものという証印を押されることでしたし、更には、聖霊そのものが、私たちが神様によって買い戻されている、この世のあらゆるしがらみから買い戻されているという保証金、手付金なのだ、ということが書かれていました。しかし、この聖霊のお働きは、そのようにして、一度限りに終わってしまうものではないのです。そうではなく、毎週の礼拝において、このような説教を通して、私たちの目を、その時々に改めて開いて下さり、希望をなくしそうでいる時にも、現実という言葉にあまりに深くとらわれてしまっている時にも、本当は自分は何者なのかを、そして、私たちには確かに希望があることを教えてくれるのです。だからパウロは改めて、「知恵と啓示の霊を与えて」というのです。そしてそれが与えられるところこそこの礼拝の場です。

今ここにある幸い
わたしたちがこうして礼拝に集まるのは、あるいは、たとえ中継であっても、礼拝にあずかろうとするのは、意地でも習慣でもありません。そうではなく、私たち自身が、強く生きるためです。あるいは、少なくとも、負けてしまわないためです。そして何よりも、心の目が開かれて、今ここで、すでに幸せになっていると知るためです。私たちはキリストによって満たされているという現実を見つめ、幸いにされた者として、この週も歩み始めます。

祈り
父なる神様。あなたは、キリストを復活させられました。それは、あなたの力のしるしであり、愛のしるしです。そして何よりも私たちの希望です。私たちにこの希望が与えられております。このことをますます、自分自身のこととしてとらえ、喜ぶものとさせてください。また、この喜びをもって、週日の歩みをなすことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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