毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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エフェソ1:7-14「確かにされた者として」
先輩は偉大?
もう少ししますと、教師学科試験というものがあります。牧師を目指している方たち、私たちの教会では教師候補者といいますけれども、神学校を卒業して、現場で働きながら牧師になろうとしている方たちの試験が今年も7月に行われます。わたしも一応、試験委員の一人として問題作りに関わっていまして、今ここで、何が出るか言ってしまいますと、大変なことになりますから、あまり詳しくお話しできないのですが、ただ、回答例を作るために、様々な書物に改めて目を通しています。そこで、はるかな信仰の先輩たちの歩み、例えば私たち改革派教会でしたら、何といってもカルヴァンを思い出しますが、念のため言いますとこれはカルヴァンを必ず出すぞ、という意味ではありませんので一言お断りしますが、彼の歩みもまた、一筋縄ではいかなかったのだ、ということがわかります。ジュネーブでだいぶ苦労して、一時は追い出されていたりしたのは有名な話です。ああ、昔の人たちもやはり苦労されたのだなあ、と思わされます。しかし、そうであるにも関わらず私たちは、カルヴァンという名前から、偉大な指導者、私たちとは違った人、信仰の人、信念の人、とにかく困難な事業を成し遂げた人、といった見方をしてしまうかもしれません。確かにいろいろあったかもしれないけれどもやっぱりすごい人、というような見方です。
先輩たちの信仰
一方で、私たち自身の歩み、現代の教会の歩みについて考えてみますと、コロナの影響が色濃くあるということはともかくとして、とりあえず、こうやって集まる場所としての会堂があって、毎週礼拝をすることができて、というように、ある意味では恵まれています。しかし、その一方で、様々に問題がある、困難がある、というのもまた事実です。日本という土地の問題として、そもそも、伝道が思い通りには進まないということがあります。そんななかで、そもそも、自分たちは、カルヴァン先生、ルター先生、とは違って、あのような信仰の信念にしっかりと立って生きているとまで言い切れない、そんな思いを持つかもしれません。私自身、先ほどお話ししました通り、信仰の偉人とも呼ぶべき人たちの歩みを本でたどりながら、ああ、まだまだだなあ、問題としているところ、目指しているところからして、ずいぶん差があるなあ、この人たちには到底かなわない、と思わなくもないのです。ところで、このエフェソの教会もまた、あまり自信のない教会であったようです。ほとんどが異邦人のキリスト者であっただろう、と言われていますこのころ、特別な知恵ということを言う、異端の教師たちが、エフェソの教会に近づいて、神秘的な知識について、教えようとしていた、ということもあったようです。このままではだめだ、あなたたちには欠けているものがある、そんなことをいう人たちの言葉を真に受けてしまったのかもしれません。そのような人たちにむかって、このエフェソ書の今日の個所でパウロは、二つの言葉によって、そうではない、と言っているようです。そこで私たちは、この手紙の書き出し部分、そしてとりわけ12節の言葉からパウロの言うところを聞き取りたいのです。
わたしたちとあなた方
その場合の大切な二つの言葉、というのは、「私たち」と「あなた方」です。なんだ、そんな言葉、と思われるかもしれません。確かに、これだけなら大したことのない言葉です。しかし、パウロはこのところで、この二つの言葉を微妙に使い分けているように見えます。例えば、7節の書き出しは、こうでした。「私たちはこの御子において、その血によって贖われ」とあります。これ自体、イエス様の十字架を指していて、とても胸に迫る言葉ですが、とりあえず、ここで「私たち」と言っていますのは、パウロとその仲間たち、そして、エフェソの教会の異邦人を中心としたメンバーたち、全体のことだと思われます。ある意味では、キリスト者全体といってもよいでしょう。その意味では、私たちもまた、このパウロの言う「私たち」に含まれます。イエス様の十字架のことですから、これは少なくともキリスト者であれば当然誰でも関係すること、いわば自分事になるのです。ということはいいとしまして、もう一か所を読んでみます。
以前からの「わたしたち」
一方12節にも同じ「私たち」が登場します。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」。実はこの「わたしたち」を、7節と同じだ、ととる立場と、そうではない、これは別の意味だ、という二つの立場があるようです。それで私は、これは違う、というほうがいいな、と思っているのですが、それはここで言う「わたしたち」とは、「以前からキリストに希望を置いていたわたしたち」で、おそらくここで意図されているのは、パウロと、その仲間たち、すなわち、ユダヤ人キリスト者のことではないかと考えています。それは、例えば、ペテロをはじめとした12弟子たちですとか、その他の弟子たちを含め、あのペンテコステの日に洗礼を受けて、教会に加わったような人たち、後のエルサレム教会の会員になった人たちや、そこから迫害を逃れて、サマリアやアンティオキアに向かった人たちや、その人たちから信仰を聞いて、信じた人たちを含むでしょうし、さらに言えば、神様に希望を置いて歩んだ、と言われるアブラハム(ヘブライ11:4以下)といった族長たちの流れに含まれる人たちを含めて、主の選びの民、イスラエルに関わるような人たち、のことをいっているという立場です。いわば、信仰の偉人として評価の決まっている人たち、と言い換えてもよいかもしれません。そのような人たちは、神様の栄光をたたえるのだ、そのような時代がもう来ている、とまずパウロは言うのです。しかし、それだけではありません。さらにパウロは13節でこのように続けています。
あなたたち
「あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて…」と続きます。この場合の「あなた方」とは、エフェソの教会に集まっていた人たちのことです。ほとんどが異邦人のキリスト者であっただろう、と言われています。最初に確認しました通り、自分たちには何か足りないものがあるのではないか、という不安があった人たちです。特別な知恵ということを言う、異端の教師たちに振り回されそうになっていた人たちです。せっかくキリスト者になったのに、不安が尽きない状態であったこの人たちに対して、パウロは「あなた方」も私たちと同じだ、と呼びかけられています。あなた方は「私たち」と、何か違うのか、全く違った方法で信仰に入ったのか、そうではないだろう、とパウロはいうのです。そうではなくて、パウロ達と同じように、真理の言葉、福音を聞いて、信じて、しかもただ自分でなんとなく信じようとしたのではなくて、「約束された聖霊で証印を押された」というのです。この約束されたというは、おそらく二重の意味です。神様がそのように計画してくださったこと、そして、イエス様が遣わすと約束されたということです。例えばヨハネ書では、「別の弁護者」といった言葉で(ヨハネ14:16,26等)あるいは、ルカ書や使徒行伝では「父が約束されたもの」(ルカ24:48、使徒1:4)とありますが同じことです。この聖霊なる神によって、あなたたちは、もうバーンとしるしが押されているというのです。
聖霊の証印と手付
そして、続く14節では、「この聖霊は、わたしたちが御国を受けつぐための保証であり」と続きますが、ここでは再び登場したこの「わたしたち」はパウロや、その仲間たち、またイスラエルの偉大な信仰の先輩たちと、後からキリスト者になって、どちらかといえばおどおどしていた、エフェソの教会の異邦人キリスト者たち、両方を含みこんだ「わたしたちたち」です。ここで、私たちは再び7節と同じように、一つの「わたしたち」になっているのです。あなたたちも、私たちも、聖霊なる神によって、同じ立場に立っている、というのです。なぜなら、この聖霊こそは、神の国に入っている保証、もう少し別に訳せば、手付金なので、それが支払われている以上、神様によって、あるいは、もう少し正確に言いますと、7節に書いてあります通り「私たちはこの御子において」すなわちイエス様において、「その血によって贖われ」すなわち、代価をもって買い戻されていて、「罪を赦されました」とあります通り、色々と不自由だったり不都合だったりしている状態から、自由の身分にされている、ということにおいて、実は、パウロとエフェソの人たちと、この私たちとは、全く違ったところがない、みんな同じ恵みを受けた私たちだと、こう言いたいのです。
すべては一つに
さらに言えば、神様の目指しているところは、わたしたちが、どのような立場にある人であっても、信仰ということ、また、その基本的な知識においては、全く一つになっていくことだといいます。10節にある通りです。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」。時が満ちる、とあります。準備の時は過ぎたのです。あのイエス様の十字架と復活以来、もう新しい時が来ている、と言いたいのです。そして、そこにおいては、完成の時が始まっていて、イエス様の下に、色々な違いが乗り越えられて、一つのキリストの体が現れ始める、そこにおいては、隠されている知識、特別な人にしか分からない知識などない、誰かが誰かを区別したり、差別したりするようなそんな違いはなくなっているというのです。
教えて下さる
もちろん、この世の知識において、さとい人、そうではない人の区別はなおあります。能力の違いはあります。特に勉強することが得意な人と、苦手な人の差はあり続けます。しかし、ここで問題にされているのはそのことではありません。9節にはこのようにあります。「神はこの恵みを」すなわち、わたしたちが買い戻されて自由にされている、という事実ですが、そのことを、「私たちの上に溢れさせ」とあります。それは具体的には「すべての知恵と理解とを与え」と続いていますから、イエス様のして下さったことを知る知恵と理解一切を与えてたというのです。とくにここで秘められた計画、というのは、もともと、神様の秘密の御心、という意味ですが、それは、秘儀、奥義とも訳せますが、一言でいえば神秘です。神秘ですから、普通にしていたら分からないのです。イエス様によって救われていて、もう、どのようにこんがらがって道を踏み外してきたとしても、大丈夫なものにされている、ということは、当たり前には納得できないのですが、それが、もうわかるようにされている、というのです。わたしたちの物事の理解が神様によってもう変わっている、だからその点で差別は全くないので、大丈夫だ、とパウロは言うのです。
確かにされた者として
さらに、9節では続けて「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです」と続いています。わたしたちが、信じて、私たちの頭の中身、心の思いが作り変えられること、それは、あらかじめ、神様がイエス様についての計画と一緒に決めていたことだった、それほど確かなことだった、というのです。今日は、確かにされた者という説教題をつけました。私たちは、たとえどれほどぐらぐらとした歩みをしているようであったとしても、全くこの意味で、神様の御心に生きるもの、確かにされた者です。
祈り
父なる神様。あなたは、永遠のご計画によって、御子において、私たちを選んで下さり、また、そればかりではなく、私たちが救われるのに必要な知識をも、誰にでも分け隔てなく与えてくださいますから感謝します。わたしたちがすでにあなたのご計画を知ることができ、それを自らの喜びとする知識をも与えられております。この事実を覚えてこの週も歩めますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。