5月30日説教原稿

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5月30日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

エフェソ1:1-6「すべての土台」
パウロのいう御心
今日から当分の間、おそらく11月末のアドベントの前まで、このエフェソの信徒への手紙を、続けて読んでいこうと考えています。今日の説教題は「すべての土台」とつけました。これは、今日のこのところが、エフェソ書の土台、これからこんな感じの話をしますよ、ということを言っている、という意味もありますけれども、それだけではなく、そもそもエフェソ書で語られていることが、私たち、すなわち、教会に集まるもの、イエス様を信じるもの、これから信じたいと願っているものにとって、生活の土台になっていると考えたからです。では、その土台とは何か、といいますと、実はいくつかあるかもしれませんが、とりあえず、今日の挨拶部分に書いてあることに注目します。このところは「神の御心によって」で始まります。パウロの手紙の書き出しでは、このような挨拶の仕方、すなわち、差出人がパウロで、受け手が、どこどこの教会、という形で始まるものは多いのですが、ここでは、まずパウロ自身の身分が御心によるのだ、という書き方です。しかし、それは何も、パウロが自分を権威付けたいから、私は特別に神様に選ばれているんだぞ、といいたいのではありません。

神の御心
例えば、今日のところの5節でも全く同じ言葉「御心のままに」という言葉が出てきます。これは、エフェソの教会の人たちもやはり、神様の御心のままに選ばれている、ということを言っているところです。そうしますと、むしろ、パウロにしても、エフェソの教会の人たちにしても、およそ、キリスト者であるのなら、それは私たちにしましても全く同じですが、信仰を持っている、ということは、それじたいが御心によっているのだ、ということになるのです。先ほどの1節では「聖なるものたち、キリスト・イエスを信じる者たち」とエフェソの人たちに呼び掛けていましたが、これもまた、ただ、彼らが信仰者だ、ということを言っているのではなく、神様の御心によってそのような信仰者であるあなた方、と呼びかけているのです。その意味ではパウロもエフェソの教会員も変わるところがありません。もっとはっきり言えば、信仰を持った、イエス様によって救われることが分かった、信じられるようになった、ということと、神様の御心とは、別々のことではなく、むしろ、そこにこそ、御心が現れていることになります。私たちは、すでに信仰を持っているというその一点で御心にかなったものですし、私たちは、いますでに御心が実現しているものとして、このところにいるのです。そして、この意味で、パウロと私たちの間にも、またすべてのキリスト者の間にも違いがありません。どちらも、御心にかなったものとして今を生きているのです。

聖なるものとして
そして、このところでまず前提となっているのが、先ほどの、聖なるものたち、という言葉であり、また2節の恵みと平和、という言葉です。イエス・キリストを信じた人とは、聖なるものたちだ、とパウロは言います。もちろん、その場合に、わたしたちが、どんな点でも品行方正、それこそ、4節で聖なるもの、汚れなきもの、という言葉が登場していますが、そのようなものに今すでに完全に変わっている、ということではありません。例えば、しばしば引き合いに出してしまいますが、コリントの教会は、ある意味では問題の多い教会でした。しかし、そのコリント書の書き出しにもこのところと同じように「キリスト・イエスによって聖なるものとされた人たち」(コリントⅠ1:2)という言葉があります。これはとても分かりやすい言葉です。わたしたちが、今完璧に清いということではなくとも、わたしたちがイエス様を信じている限りにおいて、そのイエス様によって、私たちはすでに聖なるものになっている、というのです。そしてまた、全く同じ根拠によって、すなわち、イエス様が一緒にいて下さる限りにおいて、あなたたちにはすでに、恵みと平和があるというのです。これが、まずは第一の土台です。私たちは、神様に選ばれて信仰を与えられ、恵みと平和が約束されているのです。

目標はある
そして、そのような私たちには、明確な目標があります。それは、3節の冒頭の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの神はほめたたえられますように」。これは、ほかでもない、私たちのなすことです。わたしたちが、神様をほめたたえるのです。同じことは、6節でも語られています。「輝かしい恵みを、わたしたちがほめたたえるためです」。もちろん、この場合の「ほめたたえる」は心からの賞賛です。「ああ、なんだかすごいなあ」と棒読みで済ませてしまうのではなく、本当に素晴らしいことだ、うれしいことだ、と思って、心から神様をほめたたえるようになる、この方向で一切は進んでいます、というようにパウロはこの出だしでいきなり語っているのです。イエス様を信じて、神様の子となって、本当にうれしい、喜んでいる、神様をほめたたえなければいられない、この状態にあなたたちはなれる、あるいはなってほしい、というのです。その場合に、大切なことがおそらく二つあります。それは、私たち、イエス様を信じたものの、考え方、神様と自分の関係についての考え方がまず一つ、そしてもう一つは、実際にそのように考えたことを、体験し味わっていくことです。そして、この二つのこと、考えること、体験し味わうことはすべて、当然と言えば、当然ですが、教会生活、ないし信仰生活を実際に生きることにおいて以外には成り立ちません。しかもそれは、特定の奉仕をするですとか、伝道するですとか、ということを含め、まずはこうして礼拝をして、日常生活を生きて、という繰り返しの中で、実際に味わって、考えていくものです。

愛により
その意味で例えば考え方についてですが、わたしたちが、一人の信仰者として生きていく場合でも、あるいは教会として、みんなで何かを考えて実行しようとするにしましても、やはり忘れてはならないことがあります。今日一緒に確認したいのは、4節の言葉です。もう一度読んでみます。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」。創世記の冒頭にある天地創造の言葉は有名です。「初めに神は天と地を造られた」ですね。それから、混沌でしかなかった地球に光がさし、水と大気が分けられ、水と陸地とが分けられ、というように続きますが、あのような出来事に先立って、神様は私たちを愛すること、ご自身のものとすることを、きめてしまっていた。というのです。私たち改革派は、予定ということを言いますが、これは神様の愛によるご計画です。しかも、ここでは、「ご自分の前で聖なるもの、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と続きます。先ほど、コリントの教会の例を出しました。確かに問題だらけの教会であったようです。しかし、どれほど私たち人間の側の問題が大きいとしても、大きな視点で見れば、もう、私たちの行く先、方向性は決まってしまっているというのです。それは、聖なるもの、汚れのない者、です。この汚れ、という言葉は、以前の口語訳では、「傷のない者」でした。これはいけにえとしてかけのない者、という含みのある言葉です。神様の前で、かけのない者、神様にささげられるのにふさわしい者、そのようなものになる、という方向が、もう決まっている、あなたたちはそういうものだ、とパウロは言うのです。

例えば伝道
このことは、すなわち、神様の予定、ご計画の中で生きているということは、実は私たちが物事を考えるうえで、どうしても知らなければならないこと、それこそ考え方の土台になる言葉です。そこで、もう少し具体的に、例えば、伝道ということについて考えたいのです。伝道ということについて、私たちは普段あまり組織だったことを行っていません。しかし、おそらくこのようなことだろう、ということは言えます。あくまでも一例ですが、まずは、イエス様を心から喜んで、イエス様の教え、愛の律法に即して生きていること、この世の人たちと関わる時においても、自分の態度として、そのような愛を基本とすること、さらに、イエス様について話す機会があれば喜んで話をして、キリスト教や、教会に興味がある人を礼拝に誘うこと、礼拝においても、まずはみんなで喜んで礼拝をして、新しく来た人たちを迎えること、というようなことになるはずです。しかし、そこでです。今、お話ししたようなことについて、これは、わたしたちが、努力に努力を重ねて、作り上げるものでしょうか。もし、わたしたちが、この一連のことを、自分たちの仕事として、苦労してやり遂げなければならない、そして、それをしなければ成果が出ないと考え、お互いに、もっと頑張れと言い合い、そして、もし教会に何らかの成果がみられないのなら、総括だ、誰がどう悪かったのか、しっかり対策をとって仕切り直しだ、というようなやり方をしたとしたらどうでしょうか。その場合には、伝道の業はすべて、人間の行動次第、良いも悪いも人間次第となり、また、互いに批判ばかりしている、というやり切れない状態にならないでしょうか。しかし、パウロはそのようなことを言っていません。

自分の力でなく神が定めた
それでは、とてもこのところで示されているような、「神をほめたたえる」(3節)ですとか「輝かしい恵みを私たちがたたえる」ということにはなりません。しかし、そこで、わたしたちが、どうしても知るべきことは一つだけです。それは、私たちのこの人生の中に、神様の力がもう働いているという事実です。それは、すでに、この世界の前から決まっていたことだ、とパウロは言いました。5節では、このように続きます。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」もちろん、この場合、イエス・キリストによって、という言葉には、福音書で記された、そして、わたしたちが、この春の間、受難節からイースターそして、ペンテコステに至る、イエス様の死とご復活、罪と死への勝利、そしてそれが私たち一人一人に聖霊において与えられている、ということ一切が含まれていますが、今日はそのことをあらためて確かめません。大切なのは、私たち一人一人が、神の子となることを神様が決めて下さっていて、いまも、その神様の御心の中に私たちが生きている、という事実です。たとえ目の前のあり方が、自分の置かれた立場が、どれほど悪いように見えたとしても、私たちは皆、この神様のご計画の中に生きているのです。

すべての土台
そしてこのことがわかります時に、パウロが2節で「恵みと平和があなた方にある」と言い切っていること、また、3節で「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」とあることの意味が分かります。天のあらゆる霊的な祝福とは、自分が神様の愛の計画の中に生きているとわかることです。神様と一緒に歩む人生だ、とイエス様によって知らされることです。そして、このことが、キリスト者の人生の土台です。

祈り
父なる神様。あなたはこの世界の始まりに先立って、ただあなたの愛だけを根拠に私たちを御心のままにご自身のものとして選んでくださいましたことを改めて知りました。このあなたの愛に行かされて、この週の歩みにおいても私たちがあなたを賛美し、喜びつつ、また喜べないことにも希望と忍耐をもち、愛に生きられますようお導き下さい。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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