毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ヨハネ20:19-23 ペンテコステ記念礼拝「神のしらべを携えて」
神のしらべ
今日の説教題もまた、というと毎度のことのようで恐縮ですが、ちょっとおやっと思われた方がおられるかもしれません。「神のしらべ」とはそもそも何のことだろう、と思われたかもしれません。今日はエゼキエル書を一緒に読みました。その中で、ダビデが登場します。これは、ダビデのような支配者の訪れを預言した言葉です。はっきり言いますとイエス様のことです。そして、そのリーダーであるイエス様に導かれた民はどうなるのか、といいますと、「私の住まいは彼らとともにあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」とあります通りで、神様と一緒に生きていく、ということになるわけです。さらに、そこで頭に浮かんだのが、サムエル記にある契約の箱を運ぶダビデの姿です。「ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。」(サムエル下6:15)ダビデは、契約の箱の前で、踊り舞ったとも書いてあります。音楽と一緒に進んだのです。こうやって、喜びの調べに包まれながら、みんなで進んでいく、そんな姿を思い描いたのが「神のしらべ」ということばです。私たちはイエス様と一緒に神様のリズムで進んでいく、こんなイメージです。
「罪が残る」とは?
とはいえ、このところで私が以前から引っかかっていることがあります。それは、最後のところの言葉です。「誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」。例えば、わたしたちが出会った人に罪がある、それをほったらかしにしたら、その罪はそのまま残る、あるいは、もっと積極的にと言いますか、お前なんか赦さないぞ、と言ってしまうと、本当にその人は罪が赦されないままに残る、というように読めてしまうのではないでしょうか。もちろん、これは表面的な読み方です。おそらく、このところはそのようなことを言いたいのではないはずです。では何なのかですが、そもそも、その場合に罪とは何か、からはっきりとさせる必要があります。そして、端的な罪の姿は、実はこのところでの弟子たちの姿と重なってくるかもしれません。ここでは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にカギをかけていた」とあります。人を恐れて閉じこもっている姿は、可哀そうではあっても、普通は「罪」とは結びつきません。そして、この場合のユダヤ人とは、ヨハネの独特の表現で、イエス様を十字架にかけた人たちのことです。そんな人たちが、少なくとも一時は、勝利をしたように見えていました。何しろ、イエス様は、処刑されてしまったのですから。そして、今度は弟子たちにも追及の手を伸ばすかもしれない、と恐れたとしても不思議ではありません。
罪の力
それはとても不安な状態です。もっと日本的に言うのなら、疑心暗鬼です。もっと悪いことが起きるのではないか、と思ってそのような考えから抜け出せなくなってしまうのです。そのような人は、どちらかといえば、可哀そうな人、というイメージであって、罪人、悪い人という感じは受けません。しかし、問題はそこです。そもそも、私たちは、罪人という場合に、人に暴力をふるったり、盗みを働いたり、というような乱暴な人、力ずくで人に迷惑をかける人、という印象を持っているかもしれません。しかし、聖書でいう罪とはそれとは別のものです。誤解を恐れずに言えば、キリスト教でいう罪とは、一切に背を向けて閉じこもることです。そのようなかたくなさです。ただただ、自分を守ることを目指して、身も心も閉じこもって戸を閉ざすこと、これこそが一番の罪です。そして、私たちは誰であれ、この罪の要素を持っているはずなのです。私自身も持っています。日常生活でそれがわかります。いつでも、心を開き、神様と人に信頼して喜んで生きるということがなかなか言葉通りに実現していないということを実感しています。そして、おそらく、私たちは、いわゆる自分の努力で、この罪の性質を乗り越えることはできないのです。そうしますと、この「赦されないまま残る」というのは、この閉ざされた状態に最後までとどまってしまった、という意味です。どれほど機会があっても、閉じこもったままなら、それは最終的にはそのままになってしまうだろう、というのです。
「赦す」とは?
ではこのところで語られております「赦し」とは何でしょうか。それは、罪の状態が逆転することです。それは閉ざされた状態が逆転することです。では、罪はどのようにして逆転するのでしょうか。それは、出会いによってです。そして、出会いとは、言うまでもないことですが、イエス様との出会いです。もちろん、私たちの場合、実際には人を通してイエス様と出会うのですけども、いずれにしても、この出会いは、イエス様によって一方的にもたらされる出会いです。例えば、このところで弟子たちは、すでに確認しました通り、戸を閉め切って閉じこもっていたのでした。しかし、イエス様は、まさに、その閉じこもった部屋の中の、弟子たちのいるその真ん中に入ってこられたのでした。これはある意味では、暴力的であるかもしれません。守ろう、守ろうとしている弟子たちのなかへと、押し入ってくるのですから。しかし、そのようにして、自分の力では、希望を見出せない人たちの中に、イエス様は、押し入ってこられるのです。そして、単に押し入ってくるだけではなく、ここに平和がある、と宣言されるのです。弟子たちの状況は恐れでした。そこには安心は全くありませんでした。しかし、イエス様は、そのような不安の中に、入ってきて、一瞬で平和を指し示されるのです。それは、完全な安心、かけたところのない、陰りのない、満たされた思いが、いまここにある、すでにあなたたちの中にあるという宣言です。周りの状況は何ら変わっていなくても、しかし、イエス様がそこにおられるという事実において、そこに、この平和がもう存在している、との宣言です。
主を見る
そして、このところで、ぜひとも確かめたいのは、弟子たちもまた、この平和をしっかりと受け止めた、という事実です。イエス様は、弟子たちに「手とわき腹をお見せになった」(20節)とあります。本来であればぎょっとすることかもしれません。なにしろ、十字架で受けた傷を見せた、という意味ですから。しかし、ここではむしろ、それにもかからわず、弟子たちは、一瞬で理解したのです。イエス様はとにかく死に打ち勝ったれた、復活された、そしてここにいて下さっている、とわかったのです。その点では、このところで、全く言葉少なく語られていることもまた、味わい深いことばです。それは、「主を見て喜んだ」という言葉です。いささか唐突にも感じます。しかし、弟子たちは、この時、イエス様こそ主である、自分たちが頼るべきお方である、ということが分かったのです。イスラエルでは伝統的に主とは神様のことです。ここでは改めて、弟子たちが、イエス様を主として、全く頼りになる方として、見ることになった、と言っているように聞こえます。この方と一緒にいれば大丈夫だ、そのような意味で、イエス様を主として見つめた、だからこそ彼らは、喜んだのです。
聖霊によって
イエス様が一緒にいる、ということこそが、喜びの根拠であり、平和の根拠です。そして、イエス様は、ご自身と一緒にいるようになったものを、この世界へと派遣されるのです。ただそれだけではなく、ここではもう一つ象徴的なことをされました。それは、息を吹きかけることです。「彼らに息を吹きかけていわれた。聖霊を受けなさい」。しかし、なぜ、このことがあえて言われているのでしょうか。それは、全くただ一つのことのためです。すでに確認した通り、神様がともにいて下さる、ということこそ、喜びの源です。そして、イエス様を主と見る、ということは、イエス様を通して神様を見る、ということでした。そして、わたしたちがイエス様を見るということは、聖霊においてこそ実現します。何度でも、繰り返し注がれる聖霊なる神が私たちの中で働くのです。そうして、イエス様が私たちともにいて下さる、ということを繰り返し教えてくれるのです。それゆえに、聖霊なる神様がいて下さる何よりのしるしは、わたしたちが聖書を読んで、あるいは祈ったり黙想したりしてもよいかもしれませんが、いずれにしても、イエス様がともにいて下さるとわかることです。そしてイエス様を見た人はイエス様によって派遣されるのです。
遣わされたものとして
「私もあなた方を遣わす」とある通りです。私たちは、普段、当たり前の生活を送っています。いわゆる社会生活があります。様々な仕事があります。家庭生活もあります。学校もあります。遊びも、趣味の集まりもあるかもしれません。そんなあれこれに出かけていく時、しかし、同時に私たちは、イエス様のものとして、イエス様によって遣わされたものとして出かけていくのです。そして行く先々で、色々な人と出会います。そのような一人一人に対して、私たちは自分で気づいていようといまいと、イエス様によって遣わされたものとして出会う、ということがここで言われていることです。何しろ、わたしたちが派遣されるのは、神様がイエス様を派遣するのと同じように、なのですから、私たちは、イエス様から一切を任されて出かけていく、こういうことになるのです。このようにお話ししますと、それは大変だ、重たい責任だ、と感じられるかもしれません。けれども、それは、自分で何とかそれらしくしなければならないのではありません。もちろん、一般的な意味で、あんまり変なことをしてしまってはいけないとは思いますし、犯罪行為、人を泣かすようなことをしてはいけないのは言うまでもありませんが、しかし、どうふるまうのかについて悩む必要はありません。私たちには主イエスがいて下さりその喜びがあるからです。
何度でも
そして、このことは、何度でも繰り返されます。今日はペンテコステ礼拝です。しかし、今日だけそうなのではありません。教会の暦では、この後、11月のアドベントに至るまで、三位一体の主日が続きます。それは、わたしたちが、この関係、すなわち、神様とイエス様から遣わされる聖霊なる神様と一緒に歩み続けるということです。わたしたちは何か大きなことを一度体験したらそれで終わり、ではないのです。私たちは、毎週あるいは毎日、このイエス様から与えられる聖霊なる神に励まされて生きていくのです。そして、このような生き方、すなわち、一人ではない生き方、神様と二人三脚で歩むような生き方へと近づいていけるのであれば、それはまさに、あの踊るダビデのような生き方になっていくのです。
神のしらべを携えて
もちろん、ダビデの歩みは紆余曲折があり、具体的な罪に陥ることがあり、神に裁かれて苦境に立たされることも多くありました。しかし、その間、ダビデの人生には、常に変わらず神様がおられました。同じように、私たちの人生には聖霊なる神を通してイエス様がおられます。そして、私たちは、ダビデが神様のリズムで生きたように、イエス様のリズムで生きていくものになるのです。
祈り
主イエス・キリストの父なる神様。あなたは、主イエスによって私たちの心の扉を開いてくださいます。また、私たちを立て上げ、あなたのみ旨に従って遣わしてくださいますから感謝します。私たちのこの週の歩みがあなたの御心にかない、ご栄光を表すものとなりますように。私たちの喜びをますます確かなものとしてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。