5月16日説教原稿

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5月16日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

マルコ16:14-20 「新しい言葉をもって」
その後
今日の聖書の書き出しは「その後」です。この前に何かがあって、その後、このところでのことが起こった、という流れです。そして、このところの前にあったこと、それはイエス様の復活でした。このマルコによる福音書は、全体に切り詰められた語り方が多いのですが、実は復活のところも、あまり詳しく描かれていません。それどころか困ったことに、あの最初の日の朝、婦人たちが墓に行くと、石がわきに転がしてあって、中に若者がいるのを見つけてたいそう驚いたこと、そして、この若者から、イエス様の復活を知らされるのですが、婦人たちはそれどころではなく、震えあがって、誰にも何も言わなかった、というところで終わってしまっているのでした。もっとも、これだけではあんまりですから、その後、イエス様が二つの仕方で現れて下さった、というように続いています。その一回目は、マグダラのマリアに現れたのでした。そして二度目は、エルサレムから田舎へと旅をする二人の無名の弟子に現れた、とあります。この二つのことは、実は、マリアについてはヨハネによる福音書に、また、旅をする二人については、ルカによる福音書の有名なエマオの個所で紹介されていますが、マルコはまさにマルコらしく、淡々と短く出来事を報告しているだけです。そしてこの二つの出来事に共通しているのは、マリアと二人の弟子たちは、イエス様を見て、それを他の弟子たちに知らせたこと、そして、大変残念なことに、弟子たちは、この三人の証言を信じなかったと書かれていることです。

何を信じないのか
そうしますと、ここでは、二重の意味で信じない、ということが起きているのに気づきます。すなわち、そもそも、あの11人、あるいは他にもいたかもしれませんが、ここでは11人と名指しで書いてありますから、ペテロを筆頭にイスカリオテ・ユダを除いた11人が問題になっているのですが、彼らのこの時の状態は、イエス様のご復活を信じていないのは当然として、復活のイエス様を見た、という仲間の言葉をも全く信じていない、ということになります。そして、このところで「不信仰とかたくなな心」とあるのはそのことです。かたくなさ、という言葉を聞いてピンと来た人もあるかもしれませんが、これは、イスラエルの民に対してもしばしば使われた言葉でした。例えば、エゼキエル書には神様ご自身が、預言者エゼキエルに与えた言葉として「まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。」(エゼ3:7)という言葉がありますし、律法の中にも「心の包皮を切り捨てよ。」(申命10:16)と書かれています。体よりはまず心に割礼を受けるべきだ、心が砕かれるべきだ、といいたいようです。はるか昔から、人間は神様の前でかたくなだったようです。そして、あえて言いますと、私たちもまた、そのうちの一人なのかもしれません。いや、私は、信仰を持っている、イエス様のご復活を信じている、そのように告白して洗礼を受けた、そのように言うことはできます。それは全くその通りです。しかし、では、たとえば、このところで描かれている世界観を、私たちは、全くその通り、と受け止めることができるでしょうか。

奇跡はおとぎ話か
それはここで「しるし」と書かれている事柄です。しかも、ここでは、それが、二重に描かれています。先ほど、マルコは言葉を節約するとお話ししました。たしかに、出来事の描写はあっさりしていますが、しかし、ここぞ、ということについては意外としつこく書いてあるのがマルコのもう一つの特徴です。このところでは、イエス様の語られる言葉の中で、しるしについて語られていて、更に、20節のまとめのような言葉においても、イエス様は確かに弟子たちにしるしを与えてくださったんです、とはっきりと書いています。マルコにとっては、これは譲れないことで、イエス様によるしるしはあった、といいたいようです。一方で、ここで書かれていること、すなわち、悪霊追い出し、ですとか、新しい言葉、ですとか、あるいは、手で蛇をつかみ、毒を飲んでも決して害を受けない、病人に手を置けば癒される、といったことについては、はるかな昔の時代の話ではないか、というように感じてしまうかもしれません。初代教会だったらそうだったのかもなー、という見方です。私たちは、頭では、これはイエス様が語って下さった言葉だと理解しています。さらには実際にイエス様の力が現れて、このようなことを弟子たちが体験したということはあるかもしれない、とまでは思えるかもしれません。しかし、この報告を前にして、しかし、それは、まあ、そんな時代だったのだろう、自分たちとは関係ない、自分には起こらないことだ、とどこかしら思ってしまっているのではないでしょうか。

見た人たち
そして、実際のところ、例えば、病人に手を置けば癒される、ということが、現代において、無条件に、いつでも信仰を持ったキリスト者がおこなえば、たちどころに実現するのか、とわれれば、そうではない、というしかありません。それこそ、私が病人に手を置いて、だれであれ、無制限にいやされてしまう、などということになれば、それこそ、逆の意味で大変なことになるかもしれません。冗談ではなく、教祖様、奇跡行者、といったものに祭り上げられてしまうことになりかねません。しかし問題はまさに、このところに描かれた、しるしを言葉通りに捉えて、こんなことは起こらないだろう、こんなことは非科学的だ、こんなことは、自分とは関係ないと、即座に考え始める、その心にあるのではないでしょうか。そもそも、聖書の言葉は、どこからが字義通りで、どこからが比ゆ的なのかについて、はっきりと書かれていません。そして、このところで書かれている言葉が、まさに、科学の実験のように、いつでも同じ結果になるものとして語れているのか、とういことは、はなはだ疑問です。そして、何よりも、このところで伝えたい本質は、イエス様が、また、マルコが本当に言いたいことは、もっと別のところにあるのではないかということです。それでは、このところの中心は何かですが、それはやはり「しるしが伴う」ということです。ただし、その場合のしるしとはこのところで描かれているような派手な奇跡である必要はありません。あるいは、そのようなものよりももっと大切なものです。

新しい言葉
そこで、いくつかあるしるしの中から、一つの言葉に注目します。それは、「新しい言葉を語る」という短い言葉です。この「言葉」という単語は「舌」あるいは「異言」とも訳せるようです。あのペンテコステの日に、炎のような舌が現れた、と使徒言行録にありますが、それを思い出させます。しかし、それがいわゆる異言のようなものであるかどうか、については今は問題にしません。はっきりしていますのは、これは聖霊が語らせる言葉だということです。そして、より重要なのは、「あたらしい」という言葉です。誰も聞いたことがない言葉です。使い古されていないのです。もちろん、言葉自体は、昔から様々に工夫を凝らして語られてきて、日本語にしましても、その意味がすり減っているように感じられなくもありません。今の時代、言葉を信用できなくなってしまっているということすらあるかもしれません。言葉の力が失われているのです。しかし、そこに、意味としては同じ言葉が語れているにもかかわらず、新しい響きが聞き取られる、ということをおそらくこのところは語っています。言葉の意味内容が新しいのではないのです。平凡な言葉が、全く新鮮な言葉として心に響いてくるのです。それが、このところでいわれている「しるし」です。そして、言葉が新しくなるために、どうしても必要なことが一つだけあります。

見ること
それは、イエス様との関係です。そして、イエス様との関係がどこで始まるのかというと、それは「見ること」です。先ほど、11人は、「不信仰とかたくなな心をとがめられた」という言葉を読みました。彼らが信じなかったのは、「イエス様を見た」という仲間の証言でした。では、この三人の仲間たちは、いったい何をどのように「見た」のでしょうか。このところの「見る」という言葉は少々特殊な言葉のようです。たとえばそれは、ルカによる福音書の5章でイエス様が弟子を取られるところで使われています。これは開いてみます。「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。」(ルカ5:27)。このところでは、イエス様が、収税所にすわっている徴税人レビを「見た」とあります。この場合の「見る」は、当然ですが、目で見ている状態です。ただし、イエス様は、ただ漠然とレビを見ているわけではありません。何しろ弟子とりですから、さらにこれは神様の御心にかなう人を見つける大事な場面ですから、そのような視点で、周りを見ていたイエス様の行動です。あの人が弟子にいいだろうか、この人が弟子にいいだろうか、そのような目で、周りを見ていた、そのイエス様の目に、レビが止まったわけですが、まさに、そのように注目して、興味と関心をもって、これからこうしようか、ああしようかと考えながら、じっくりと見ている、そんな意味の「見る」です。

三人の中で
マグダラのマリアも、あの無名の二人の弟子たちも、自分の前にイエス様が現れたときに、このような意味で、はっきりと深く印象に残る見方で、イエス様を「見た」のです。そして、深い印象を与えられた三人はそれぞれに、自分が見たことを、11人の弟子たちに知らせたのでした。ここでもすでに動きが起きています。深い印象を与えられた人は、そのことをそのままにしておけなくなるのです。その人の中で、イエス様の印象が、もっと言えば、イエス様が動き出すのです。しかし、このようにしてイエス様を見た人の言葉を、弟子たたちは受け止められないのです。それが、彼らの不信仰と心のかたくなさだということはすでに見ました。しかし、ここでは、まさに、そのかたくなな人たちに、イエス様が働きかけられています。

不信仰者にこそ
最初に戻りますが、14節ではイエス様が11人の弟子たちに現れて、直接、彼らをとがめておられます。しかし、話はそこで終わりません。とても不思議なことですが、イエス様は、このかたくなな弟子たちを、派遣されるのです。「全世界に行ってすべての作られたものに福音を宣べ伝えなさい」。これは決定的な命令です。そして、大切なのは、これは、弟子たちが、十分に信じたから、心が柔らくなったから、よしよし、では役割を任せよう、というように展開していないことです。そうではなくて、心のかたくなな弟子たちは、それをはっきりと指摘され、そして、まさに、その心がかたくなな人たちに、イエス様が働きかけられ、そして、派遣すらしているのです。なぜでしょうか。それは、11人もまた、この時イエス様を見たからです。イエス様をみたあの三人のように、イエス様を見た人へと変えられているのです。そして、このことに関しては私たちもまた、一緒です。私たちもまた、心のかたくななものかもしれません。しかし、その心を見ているイエス様は、わたしたちにご自身を示してくださるのです。このような聖書の言葉を通して、聖霊のお働きによって、ご自身を示してくださるのです。そしてもし、今日、このところで、あるいは、インターネットを通して、聞いてくださっている方の心の中に、たとえわずかでも、イエス様の姿が見えたのなら、まさに、そこから新しい言葉が生まれてくるのです。

新しい言葉を持って
繰り返しますが、私たちは、信じにくい、かたくなな心の持ち主であるかもしれません。しかし、もし、わたしたちが、聖書の中に、説教の言葉の中に、イエス様を見つけ出すのであれば、イエス様を見つめるのであれば、そして、イエス様の叱責の言葉を聞き取るのであれば、そこから、新しい言葉が響き始めます。そして、私たちの言葉の中で、イエス様が一緒に働いて下さり、言葉が真実であることを示してくださるのです。

祈り
父なる神様。み名をほめたたえます。主イエスは今天のあなたの右におられ、そこからすべてを治めておられますことを私たちは信じております。この主イエスが御霊において、今も私たちに語ってくださいます。わたしたちが、この語り掛けに耳を澄まし、そして、新しい言葉をもってこの週の歩みへと出かけていくことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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