毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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ヨハネ15:9-17
泣き虫ヤコブ
最初に短く聖書を読みます。聞いてください。ホセア書です。「ヤコブは母の胎にいたときから/兄のかかとをつかみ/力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち/泣いて恵みを乞うた。神はベテルで彼を見いだし/そこで彼と語られた」(12:4-5)。今日の説教題は自分でいうのもなんですが、ちょっと変わっています。「泣き虫の友として」。この泣き虫という言葉でイメージしていたのは、じつはヤコブです。今お読みしましたホセア書では「泣いて恵をこうた」とありました(創世記32:23以下、ヤボクでの戦い、35:9以下ベテルの由来も)。実際には、創世記ではヤコブが泣いたとは書いてありません。しかし、預言者ホセアは神様の前で泣いているというのです。想像をたくましくしているのです。そこで私も少し想像してみました。ヤコブという人は、創世記の記事を見ましても、争いの人です。「母の胎にいたときから、兄のかかとをつかみ」とあります通りです。彼は、人と争ったり、だましたり、出し抜いたり、といったことではなかなか抜け目のない人だったようです。一方で、関わる人と良い関係を作る、という意味ではあまり上手ではなかった、むしろ、行く先々でトラブルを起こす、そんなイメージでしょうか。そのようなヤコブをホセアという預言者は、「泣いている」と見たのです。実際のところ、このようなごつごつとしたあゆみ、トラブルの多い生き方はあまり幸せとは言えません。さらに誤解を恐れずに言いますと、私自身、このような意味で人と関わることについて、若いころからいつも悩みを抱えていたような気がします。そして、このこと、すなわち人との関係は思ったよりも人生にとって大きな力を持っているのではないかといまは思うのです。言うまでもないことですが、このヨハネによる福音書で命じられているのは愛しあうことです。それゆえ今日は、特にわたしたちがどのようにしたらこの命令に生きられるのか確認したいのです。
喜び
ところで、今日のヨハネによる福音書は、見ての通り先週読みましたブドウの木のたとえの続きです。そして、このところでは全体の結論ともいえる言葉が語られています。それは、イエス様がこのたとえ話を語った理由、このたとえ話が何を目指しているのかです。そして、答えから言いますとそれは「喜び」です。そも私たちの喜びです。11節はこうなっています。「15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」この喜びが、どのようなものであるのか、細かく考えていくこともできるかもしれません。しかし、ここで使われているギリシャ語は、ごく普通の挨拶にも使われる言葉です。あまり、あれこれとひねり回さなくとも、わたしたちが、生きていて感じる喜び、親しい人と会った時に感じる喜びといったものと考えてもそれほど間違っていないはずです。ただ、このところでは、それが、イエス様との関係で語られています。私たちの喜びと、イエス様の喜びとが関係していく、という形です。さらに言えば、そもそも、イエス様の中に喜びがあって、その喜びが、私たちの中にも入ってきて、そして、私たちの中で、少しずつ、少しずつ、その喜びが、増えていって、そして、喜びでいっぱいになっていくというのです。コップにぽたぽたと水滴が落ちていって、やがてコップの水がいっぱいになるように、喜びもまた一杯になっていくのです。そのことが起きるために、このところの言葉全体を話した、このようにイエス様は言われます。
喜びのため
そしてこれこそが、ブドウの木のたとえが語られた理由です。イエス様がブドウの木で、私たちがその枝で、イエス様につながっていてこそ、私たちは豊かに実を結ぶ、ということが言われているのは、まさに、この喜びがイエス様からしかやってこないからです。その点で、今日の聖書は先週読みましたブドウのたとえの続きですが、実は、このところではもうあまりブドウのたとえは出てきません。せいぜい16節で「実を結び」とあるくらいです。このところを一言でいえば実践編です。相変わらず、このところでもまたイエス様にとどまることという1-8節の間に8回語られたあの言葉については何度も繰り返し語られています。しかし、今日注目したいのは、イエス様にとどまることが、はっきりと命令されていること、私たちの生き方として、実際の人生において、それを行うこと、そして、もう一つ言えば、「わたしの掟」という言葉が語られていることです。それは、例えば10節に「私の掟を守るなら」とありますとおりです。これもまた、掟を守ることに生きる、わたしたちが、このおきてに生きていく、ということです。ですからこの9-10節をまとめてしまいますと、イエス様の愛にとどまるように、という命令に則して、それを実現するために、わたしたちは、イエス様の掟を守って生きる、このようになります。
掟という言葉
そこで勘のいい方は、しかし、と思われたでしょうか。わたしたちが、喜びで満たされるために、わたしたちが何かをせっせと行う、これは、イエス様が批判した律法主義者たちの考え方ではないのか、宗教改革者たちが批判した、行いで救いを得ようとする考え方ではないのか、こんなことが頭をよぎったかたもあるかもしれません。実際のところ、宗教改革のテーマは、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「恩恵のみ」でした。「アブラハムは神を信じた、それが彼の義と認められた」(創世記15:6、ローマ4:3)という言葉は有名です。パウロはローマ書で、行動ではなく、まず信仰だ、という意味でこの言葉を使っています。律法を行ったから、信仰が与えられたのではなく、神様を信じたアブラハムにしるしとして、また生き方の目安として律法が与えられた、という指摘です。では、私たちは、この「掟を守れ」というイエス様の言葉をどのように考えたらよいでしょうか。その場合に、そもそも、このイエス様の掟が、実際のところ、何を求めているのか、を改めて考えたほうがよいでしょう。改めて確認しますとイエス様の掟は、先週もお話ししましたが、このヨハネによる福音書13:34にありました。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」とある通りです。これはまた、今日の個所の12節と17節でも繰り返されています。それほど大切だということです。
友のために
イエス様は、12節で「これが私の掟である」と言われた後、即座に13節で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と続けて語られました。さらに続けて「私が命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」と言われます。さらにその後には、イエス様は、友であるものは、神様の御心を理解していると言い、さらにその根拠として、友には父なる神様から聞いた言葉をすべて語っているからだ、というように続いています。このようなところは、ばらばらに読んではいけないのです。イエス様の友とされるものは、神様が何を望んでおられるか、という点で、イエス様と同じ理解に立っている、ここでいわれているのはそのことです。これが実は大切な点です。そのうえで、この13節の「友のために自分の命を捨てる」という言葉について考えます。これは、しばしば、イエス様の十字架と関連付けて理解されてきました。そして、それ自体は、正しい解釈です。まさに、イエス様は私たちのために、十字架の死を死んでくださった、というのは全く正しい理解ですし、実際に人間の罪を十字架であがなうことができるのはイエス様だけです。そして、そのようにして十字架で死なれることこそが、父なる神様の御心でした。それは、10節で「私の神の掟」とあることの中身です。神様がイエス様に用意した掟があります。それは、罪の贖いとして死に、命のしるしとして復活すること、です。イエス様は、命を捨て、それを再び受けるのは私が父から受けた掟だ、と別のところで言われました(10:18)。そして、まさにイエス様はその掟の通りに歩んで、父なる神様の愛の内にとどまられたのでした。
掟にいきる
それと同じように、あなた方も私の掟を守るなら、私の愛にとどまる、と10節は続いています。イエス様にはイエス様にふさわしく守るべき掟があり、私たちには私たちにふさわしい、守るべき掟がある、ということです。そして、私たちにふさわしい掟は、くどくなりますが、互いに愛し合うこと、でした。そして、実は、私たちにとってこれは、イエス様の十字架に相当することではないかと私は考えています。「友のために命を捨てる」、のです。ただ、イエス様とはその捨て方がすこし、あるいはかなり違うのです。イエス様がしばしば、弟子の覚悟として、自分の十字架を背負って(マタイ16:24)と言われました。では、この自分の十字架とか、命を捨てる、というのはどのようなことでしょうか。それはある意味では、自分を殺す、ということではないでしょうか。それは、どうしたら楽に、永遠の命を得ることができるだろうか、今持っているものにもっと良いものを加えて、もっともっと、人生の勝者になっていくにはどうしたらよいか、というような、若い時のヤコブのような考え方とは全く逆の生き方です。むしろ、隣人のため、友のため、になることをまず第一に考える、そのために自分のためという部分を、場合によっては潔くあきらめていく生き方です。
友として呼ばれる
そして、わたしたちが、このような生き方を、日常のちょっとしたことでも、心がけていくのなら、それこそが、このところで繰り返されている、「実り」ではないでしょうか。さらに言うなら、イエス様は、まさに、わたしたちが、このような実りを結ぶために、私たちを選び出したと、16節ではっきりと語られているのです。「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るように」とある通りです。これは観念的なことではありません。わたしたちが、今この時からでも始められることです。「私が、私が」だけではない、という意識をもって生き始めることは、私たち誰にでもできることです。そして、そのように生きていくときに、私たちは、とても小さいものであったとしても、実りを結ぶと約束されています。そして、この実りは残っていくのです。たまっていくのです。最初に確認しました通り、それを言い換えれば、喜びと言って差し支えないはずです。小さな小さな実りが少しずつ、少しずつ、たまっていって、喜びが、少しずつ、満ちてきて、やがて、私たちの中に、満ちあふれてくるのです。その時には、私たちは、更に、イエス様に似たものとされていくのです。
イエスの選び
イエス様は、私たちをこのような喜びの循環の中に入るようにと選んだ、とこのところでいわれます。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」、「私があなた方を任命した」。この言葉は私たちへの言葉です。この世界の中で、与えられた人生の中で、戸惑い、試行錯誤し、時に思わぬ目にあってこんなはずではない、と思わされてしまう私たち一人ひとりを、イエス様は、この新しい喜びの循環の中へと、選び、そして、新しい生き方に生きるものとして任命してくださっているのです。
泣き虫の友として
今日は最初にヤコブの話をしました。神様に選ばれているはずのヤコブはしかし、争いの多い人生を歩んでいきました。そのヤコブが神様の前で泣いて祝福を願ったときに、神様はイスラエルとしての新しい生き方へと彼を招き入れてくださいました。これは私たちにも当てはまります。私たちもまた、この招きにこたえて、互いに愛し合うという新しい掟を、まずはこの教会で、また私たちが送り出されるそれぞれの日常の中で、実行していきたいのです。
祈り
父なる神様、あなたはイエスによって私たちをご自身の愛の交わりの中へと、招いてくださっています。そして、わたしたちが、互いに愛し合う中で、あなたの御心を生きるようにしてくださいます。またそのために必要なものを何でも願うようにと言われ、また実際に掟に生きる力を与えてくださいますから感謝します。どうぞ、この週遣わされていく先々で、わたしたちがイエスの掟によって生きていけますように新しく力を与えてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。