5月2日説教原稿

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5月2日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ヨハネ15:1-8
弟子であることが前提
今日のところはブドウの木のたとえ話が語られています。もちろん、これはイエス様と私たち人間の関係を語っているところです。そのうえで、このところを読みます場合に気を付けたいのは、これがいつ、どんな状況で語られたのかです。言うまでもありませんが、これは教会の夏季修養会で、いろいろな人が集まって、授業のようにして、例えば、キリスト教入門というようなテーマで語られた言葉ではありません。そうではなく、これは13章から始まりました、イエス様が弟子の足を洗って過ぎ越しの食事を囲んだその場で語られた多くの言葉の一つです。その意味では、これはとても狭い範囲に向かって、この場合では食事の途中で出て行ってしまったユダ(13:30)以外の11人の弟子に向かってごくごく親しい師匠と弟子たちという関係の中で語られています。もちろんそれは、信仰を告白してイエス様の弟子となったキリスト者にとっても他人事ではありません。このイエス様の言葉は、すでに弟子である人たち、はっきりと自分はイエス様の弟子だ、と自覚している人に向かって、これからも弟子であり続けるように、と語り掛けてくる言葉です。

農夫である父
そのうえで、1節を見ますと、まずイエス様ご自身がブドウの木に、そして、父なる神様が農夫に譬えられています。その場合には、神様とその民との関係がブドウ園に譬えられていたイザヤ書5章の世界観が前提になっていると言ってよいでしょう。神様がこの世界全体を管理しておられ、そこで特にご自身のためにブドウ畑を作って一所懸命世話をしておられる、こんなイメージです。そして、そのブドウ畑では実りが期待されていて、実りのない枝は切り取られ、実りのある枝はさらによく実るように手入れをされる、というような見通しが語られておりますのが2節です。この出だしのところでいきなり「取り除かれる」とありますとドキリとします。しかし、ここではっきりとするべきことは、この手入れをする農夫はあくまで父なる神様のたとえであるということです。そして、父なる神様は、弟子たちを愛して愛しぬくために(13:1)イエス様を送ってくださったのでした。これは神様イメージの問題ですが、私たちの神様は、意地悪な顔をして、少しのミスも見逃さず、どこかしら気に入らないところがあれば有無を言わせず、わたしたちをいらない枝のようにチョキンと切り取って捨てる、そのような方ではありません。あるいは、神様はほんとうに公平なのか、優しい方なのか、と疑っているのだとしたら、むしろ私たちは神様は愛の方だと正しく知っていくことへと招かれていると言えます。そして、このところでいわれている「実を結ぶ」とは、まさにそのことだろう、と私は考えているのです。

枝である我々
そこでまず、枝に譬えられている私たちには、もうすでに、かなり下駄をはかせてもらっている、ということを確認します。それは、3節の言葉です。「わたしの話した言葉によって、あなた方はすでに清くなっている」。イエス様は弟子たちに多くの言葉を語ってくださいました。私たちはそのイエス様の言葉を、聖書を通して読むことができますし、また、その言葉を心の中に納めておくことができます。そして、その言葉は、ある時に、力をもって、私たちの心に働きかける力を持っています。例えば、ヨハネ2章にはこんな言葉がありました。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(2:22)。これは、イエス様が宮清めと呼ばれる、神殿で両替証人たちを追い出したときに、ユダヤ人たちにとがめられ、私は神殿を三日で建て直す、と言われた出来事についての言葉です。あの時、弟子たちは、イエス様の言葉を聞いていたのです。しかし、その言葉の意味はあまりよくわからなかったのです。しかし、後になって、それを思い出したときに、今度は「ああ、そういうことだったのだ」、「あれはイエス様ご自身の復活のことを言われたのだ」というように深い納得と確信を与えられたのでした。

イエスの言葉によって清く
そのように、イエス様の言葉が聞かれている、イエス様の言葉が私たちの中に蓄えられている、もっと言えば、イエス様の言葉が、私たちの中に働きを始めているのなら、もうあなた方は清い、というのです。そして、その場合の清いとは神様の前に汚れない、神様の前に堂々と出られる、という意味です。こんなことを言いますと、それはお前だけだろう、と言われてしまうかもしれませんが、私たちは、自分がまあ、いろいろ、恥ずかしい部分があることを自分でもよく知っています。正直に自分を振り返りますと、神様の前で清い、一点の曇りもない、というのはちょっと虫がいいのではないか思うのです。しかし、そのような私たちに向かってイエス様は「もう清い」一点の曇りもなく清い、神様の前に太鼓判を押せる、と言い切ってしまうのです。さきほど、下駄をはいている、というのはこのことです。イエス様の言葉で下駄をはかせてもらっているのです。それで、もう、神様は怖い存在ではないのです。むしろ、神様は私たちにとって、優しい農夫の顔を見せてくださるのです。そして、この関係にあるためには、一つだけ心得ておくことがあると続きます。それが「私につながっていなさい」というイエス様の命令です。しかもこれは、ただ、わたしたちが、イエス様にしがみついている、ということではありません。それに続いて、「私もあなた方につながっている」と続いているからです。イエス様の言葉によって清くされているために必要なただ一つのこと、それはイエス様につながっていることだと、当のイエス様ご自身が言われるのです。そして、実は、この「わたしにつながって」という言葉は、この4節で4回、5節で2回、6節で1回、7節で1回、というように、この短いまとまりの中で、8回も繰り返されています。それは、最も大切なことだからです。

私たちの中に言葉が働く
そして、実は、このこともまた、イエス様は弟子たちに以前話してくださっていました。それは、14章でした。20-21節と読みます。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」ここでは、わたしたちが、イエス様の内にあること、そして、イエス様が私たちの内にあること、がまず基本的な関係として描かれています。そして、かの日とありますから、これは復活後の時代のことでしょう。それは、すでに訪れています。今この時、このところで、もうすでに、わたしたちは、このことがわかるものにされている、というのです。さらに、そのような関係にある人は、私のおきてを受け入れ、守る、と続きますが、このおきては13章で与えられた、新しいおきてとしての「互いに愛し合う」ことです。そして、このおきてに沿って歩む人は、イエス様を愛する人であって、その人は父なる神様から愛される、というように続きます。少々込み入って聞こえますが、イエス様と離れないこと、によってここで示された愛の関係の中に私たちは実際に居続けることになるというのがイエス様の語られた約束です。

愛という実
そして、このところの2節、4節、8節で繰り返されている「実を結ぶ」(その逆の「実を結ばない」をふくめて)という言葉も頻繁に登場しますが、この言葉が表しているのも、まずはこの「愛」の実現のことだろうと私は考えています。もちろん、ガラテヤ書に示されているような御霊の実といったことを否定する必要はないのでしょうけれども、しかし、まずは、イエス様のおきてに従って愛し合うこと、それは全く具体的に、教会の兄弟姉妹同士で、あるいは、わたしたちが出会う隣人、すなわち私たちが具体的にかかわりを持つ人を、愛することとして、現れていくことになるはずです。ただし、その場合に特に気を付けたいのは、これは、いわゆる道徳ではない、ということです。それは、わたしたちが、こうするぞ、愛するぞ、と言って実現するものではありません。そのこともまた、イエス様がこのところではっきりと語っておられます。それは例えば、4節と5節を読むだけで明らかです。もう一度続けて読んでみます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

実りはイエスから
難しいことではありません。最初と最後を覚えておくだけで十分です。イエス様の命令は、「わたしにつながっていなさい」です。愛の出どころは、あるいは、わたしたちが、イエス様の新しい掟に従って歩むためにまず必要なのは、わたしたちがイエス様につながっていることだ、というのです。そして、最後の一言は「私を離れては、あなたがは何もできない」です。もちろん、私たちは、人間として、神様抜きで、イエス様抜きで、様々なことができる、と言い張ることができます。とりあえずイエス様抜きであっても、算数の答えが変わってしまうわけではありませんし、ロケットを宇宙に打ち上げることもできます。しかし、ここでイエス様が語っておられることはその意味ではありません。そんな考えはナンセンスです。この場合の何もできない、ということは、最初から確認した通りですが、何しろこれは、イエス様の弟子への勧めであり、イエス様の新しい掟に歩む人たちのために語っている言葉ですから、そこをわきまえなければならないのですが、「互いに愛し合う」ということがまず明確な目的としてあって、しかし、それについて、あなたたちは、私を離れては何もできない、と言われているのです。どれほど多くのお金を稼ぎ出せても、どれほど技術を発展させることができても、人を愛するというたった一つのことを、あなた方は私抜きでは完全には実現させることができない、あなたたちは、誰一人泣かせず、不満を持たせない、そのような愛を私抜きで実現することはできないと、イエス様は言われているのです。

豊かな実り
そして、そうだからこそ、私と一緒にブドウの木になろう、ブドウの木でい続けよう、と弟子たちを招いておられるのです。そしてそれと同じように私たちを招いておられるのです。そして、わたしたちがイエス様につながっている限り、私たちの中に、いつでもイエス様の言葉があって、そして、その言葉を現実にしていくための力も、与えられるのだ、と約束してくださるのです。そのことにおいて、私たちの見通しは明るいのです。私たちは自分でこの教会を愛のあふれる教会にする力はありません。しかし、わたしたちが、イエス様とつながっている限りにおいて、この教会を愛し合う群れにすることができます。なにしろ「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」という約束があるのですから。私たちはこの実りを目指して進みます。

祈り
父なる神様皆をほめたたえます。あなたは農夫として、いつも私たちを世話して下さり、私たちが主イエスにとどまり続けて実を結ぶことを忍耐をもって待って下さっております。わたしたちがこのあなたの愛に目を開かれて、この地上において豊かに愛の実りを生じるものとなっていけますように。この週の歩みと出会いをあなたからの愛によって生きることができますように。主イエスキリストのみ名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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