4月25日説教原稿

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4月25日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ヨハネ10:11-18「羊飼いのように」
羊飼いとはだれか
今日の聖書の11節と14節で2回もイエス様ご自身が「私は良い羊飼いである」と宣言しておられます。そして、わたしたちが今日確認するべきは、このことです。もっと言うのなら、イエス様こそが、そしてイエス様だけがよい羊飼いだ、という事実を確かめたいのです。そしてイエス様が、良い羊飼いだという場合に、私たち一人一人に何をしてくださっているのかについても確かめたいのです。その際、最初のまとまりとしてまずは11-13節を読むことから始めます。

これは牧師か
先ほどもお話ししました通り、11節と14節はイエス様がよい羊飼いであること、それはなぜなのかが語られています。11節では、羊のために命を捨てること、そして、14節では、羊を知っていること、が示されます。これは、イエス様が、羊、すなわち私たちのために犠牲となって腐ること、そして、人格的に深く知り合ってくださることを示す言葉です。このことについては改めて後で確認しますが、とりあえず、この「良い羊飼い」を示す節に挟まれて、12,13節では、「雇人」が登場していることに注目します。このところは、何が羊飼いでないのか、について語っているところで、ある意味では、イエス様と対照的な存在を示す箇所です。10章の1節や7節で盗人とか強盗、と言われてしまっている人たちです。それが、ここでは雇い人と呼ばれています。そしてこの記事については様々な解釈が生み出されました。例えば、旧約聖書のエゼキエル書には、イスラエルの指導者たちをさして「自分を養っている牧者」(34:2,8)という批判の言葉があります。そのようなところから、この12,13節を現代の教会に当てはめてみて、たとえば、牧師は雇人のようであってはならない、むしろ、本当の牧者のようであるべきだ、イエス様のようであるべきだ、というような説教を聞いた記憶があります。もちろん、言わんとすることはわかります。実際のところ、羊を霊的に養うことを考えない牧師は、すでにして牧師ではないとすらいえます。ですから、もし、皆様が私の説教や日ごろの仕事の仕方や、たちふるまいについて、ご自身の信仰の養いにつながっていない、妨げている、と思われるならはっきりとそのように指摘してくださってよいのです。

雇人とは
そのうえで、このところの聖書を書いてある通りに読む、ということを目指すのであれば、おそらく、ここは牧師論を扱っている箇所ではありません。さらには、牧師に小さいイエス様のようになれ、と言っている箇所でもありません。少なくとも私はそのように読んでいます。なぜなら、最初にお話しした通り、このところでわたしたちがもっとも意識するべきは、イエス様が何者であるのかであり、またイエス様が何者でないのかだからです。その意味では、この雇い人は実はあまり重要な存在ではなく、また、これが誰であるのかを詮索するのもあまり意味がありません。そもそもこの雇い人は、羊飼いですらありません。そのことは12節の最初にはっきりと「羊飼いではなく」と書いてある通りです。さらに、その後には、「自分の羊を持たない」と続きます。そして、自分の羊を持たないとは、イエス様との比較でいいますと、「羊を知らない」ということになります。この場合の羊は、当然ながら、比ゆ的な言い方です。これはもっとはっきりといいますと、私たち人間です。名前も顔もある、心もある、個性もある、一人一人です。その一人一人をよく知っていて、同じように、私たち一人ひとりからもよく知られている、そのような関係に生きておられるのが、羊飼いに例えられる、イエス様ご自身です。そして、このような関係に立つことができるのは、ただイエス様だけです。私が、牧師が問題にならない、といったのは、この意味です。

牧師も羊
そのうえであえて言いますと、そのような意味で、すなわち羊飼いとは、唯一イエス様だけだ、ということからすれば、牧師もまた、羊の一人なのです。この点、よくよく考えていただきたいのですが、例えば、イエス様を基準にして、牧師と、一般信徒が並んでいるとして、牧師の位置は、どのあたりになるでしょうか。イエス様に近い側でしょうか、それとも、一般信徒に近い側でしょうか。私は、全くためらいなく言いますが、限りなく、一般使徒に近いと理解しています。むしろ、一般信徒の一人として、その中で、み言葉と教会運営にほかの人よりもより多くの重荷を持ち、与えられている時間の多くを割くのが牧師です。しかし、たとえ、牧師という職務がどれほど、特殊であり、多くの働きからなっていたとしても、それは、人を超えた業ではありません。むしろ、群れの中の一人としての働きです。そしてこのところを勘違いしてはならないのです。それは本人も、信徒もです。このところを勘違いしますと、牧師を何かとてつもなくえらいものであるかのように、祭り上げてしまったり、あるいは、ちっとも牧師らしくない、と批判したりということになります。もう一度はっきりといいます。牧師は、ある一定の職務を担っている信徒の一人です。そして、私たちの本当の牧者、唯一の羊飼いはイエス様だけです。

イエスと牧師
そもそもイエス様と牧師は決定的に違います。先日もある教会で、長い病の末に自死された方があると聞きました。牧師としてやり切れないのは、病んでいる方のそばにいて、何かできるわけではない、という事実です。もちろん、言葉で励ましたり、お祈りをしたりすることはできます。しかし、病そのものを何とかしてしまうことはできません。ただ、そばにいるだけです。ここに人間の限界があります。しかし、イエス様は、このような意味で、命そのものを、捨てかつ再び手にする権威を、その力を神様から与えられている、とご自身で語っているのがこのところです。ちなみに、17節前半は「命を再び受けるために、それを捨てる」とあります。これは明らかに、あのイエス様の十字架と復活が言われているのですが、それを改めて、18節では「それを捨てることもでき、それを再び受けることもでき」と言われます。このところを文語訳聖書では「これをすつる権あり、またこれをうる権あり」と訳しました。権利があるのです。そして、その権利は神様から来ています。「父から受けたおきて」というところです。イエス様は「命を捨て、再び受ける」権利を神様から受けている、ある意味では、命を捨てることすら、自分の意思ですることができる、というのです。その意味では、イエス様にとって、十字架の死は、逃れられない刑罰や苦難ではありません。もちろん、それは苦しみですが、それを自分から、私たちのために、選び取る、というのです。これがイエス様の力、あるいはイエス様に与えられた神様の力です。そして全く当たり前のことですが、私たち人間は牧師を含めてこのような力を持ちません。これだけでもだれを本当に頼りにすべきなのかははっきりとします。

父とイエスのように
そのうえで、私たちにとって大切なのは、本物の羊飼いであるイエス様と、羊である私たちの関係です。それは先ほどすでにお話ししました通りですが、お互いをよく知っているということです。そのことで15節では、「それは、父が私を知っており、私が父を知っているのと同じである」と書いてあるとおりです。神様とイエス様とは、お互いにお互いを深く知っていて、愛し合っていて、その間に、何の隔たりもない、そういう知り方をしているのです。それと全く同じように、イエス様が私たちを知っていて、私たちもイエス様を知るようになる、知ることができる、とイエス様ご自身が約束しておられるのです。あるいは、その場合に、私自身もそうですが、私はこのようにイエス様を知っているのか、イエス様の声を、言葉を聞き分けているのか問われるかもしれないと思わなくもありません。実はその点につきましては、先ほど、こども説教でお話ししたことを思い出していただきたいのですが、7節では、イエス様がご自身を門だと言われました。その門から入るのだ、と言われました。いわば、イエス様に入門するわけです。このことは実はとても大切なことで、確かにイエス様は、羊飼いとして、私たちを養ってくださるのですが、私たちもまた、この方に、しっかりとついていく、という意味で、入門することが、求められています。そして、例えば「その人は、門を出入りして牧草を見つける」という言葉はイメージ豊かな言葉です。イエス様が私たちの人生の起点です。イエス様から出発する時に、私たちは生きる場所を見つけるのです。

一つの群れへ
大切なのはこのことです。或いはこのことのみです。私たちがまず求めるべきなのは、イエス様との親密な、互いをよく知っている、という関係です。その意味では、牧師もまた、このようなイエス様をよく知っている羊の一人になるように日々努めるものです。そして、そのようにして、イエス様を知る人ように招かれる人は、私たちだけに限定されません。16節では、イエス様ご自身が、「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる」と言われます。これは、当時の状況においては、イスラエル以外、という意味だったでしょうが、重要なのは、この広がりには、限定がないことです。「他の羊」の中に、ヨーロッパも、中東も、アジアも、オセアニアも、どの場所においてもイエス様の羊がいます。そのどこにあっても、羊飼いはただ一人イエス様であって、そのイエス様に牧される群れは、この世界全体で一つの群れになっていく、とここでは語られています。私たちが、新座志木だ、坂戸だ、上福岡だ、川越だ、と言っていたとしても、あるいは、改革派だ、教団だ、ルーテルだ、ホーリネスだ、いや、カトリックだ、といくら言っていたとしても、このイエス様の言葉にある「一つの群れ」にすべて含まれています。

イエスの権威
そして、その群れの牧者は、繰り返しますが、ただ一人イエス様がいるだけです。先週東京教会の牧師就職式で、僭越ながら、野島先生に、牧師への勧告、おすすめの言葉を語りました。エフェソの信徒への手紙4章16節からの短いおすすめです。そこで、強調しましたのは、言葉の順番です。16節の最初は日本語でも、ギリシア語でも「このキリストによって」(ただし、ギリシャ語では代名詞)です。そのあとに「体全体」ときて、さらに「組み合わされ、結び合わされ」と続いています。この「体」は言うまでもなく教会のことです。教会が体として立つも倒れるも、一切はイエス様による、イエス様によって組み合わされ、結び合わされるのが、教会だ、とパウロははっきりと言っているのです。それゆえ、先ほども確認しました通り、イエス様と私たち一人一人が、確かにつながっていることがまずは、最も大切なことになるのです。

羊飼いのように
それゆえ、最初に確認しました通り、私たちにとって羊飼いはイエス様です。イエス様のみがまことの羊飼いです。私たちは、ただ、このイエス様を知ることに集中し、そしてイエス様の声を聴き分け、イエス様の後についていくのです。そして、その時にこそ、本物の羊の群れとしての教会が立ち上がります。

祈り
父なる神様。あなたは主イエスを私たちのまことの牧者、私たちのために、命を捨て、また、命を得るものとして、一切の権威を持つものとしてたててくださいました。私たちは、子の羊飼いであり、門である方を通して、あなたの羊となるように招かれておりますから、感謝します。どうぞ、わたしたちがこの週の歩みにおいても、イエス様から出発してあなたの養いを豊かに受けることができますように。この礼拝を感謝して、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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