4月11日説教原稿

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4月11日説教原稿

家庭礼拝のための説教原稿と祈りです

ヨハネ20章19-31節「ここにある平和」
目的は名を信じること
今日のテーマを一言でいえば、信仰です。イエス様はトマスに語り掛けていっています。「信じないものではなく、信じるものになりなさい」。また、そもそもこの福音書の書かれた目的は「信じてイエスの名により命を受けるため」(31節)とあります。何が目的とってこれ以上の目的はないのです。その場合に、信じるということに「イエスの名」とくっついていることが重要です。信仰はなんとなく信じよう、ということではなく、イエス様を丸ごと信じるという特別な状態のことです。それは、この福音書の最初にある言葉とつながっています。1:12 で「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とある通りです。これは関係なんですね。この場合の「言」とはイエス様ご自身のことです。イエス様の名を信じるとは、イエス様ご自身を受け入れることです。イエス様と一緒にある状態、そこに神の子としての平和な歩みがある、こんな状態です。今日の聖書から、ぜひ、私たちに与えられる平和と信仰の関係を読み取りたいのです。

信じ続ける?
そこで聖書の言葉を読んでいきます。今日は最後のところ、31節の「命を受ける」、というの言葉にまず注目します。これは、厳密には受け続けるという意味です。一回限りではないのです。それはそのまま、私たちの信仰の在り方を示しています。なぜなら私たちは、決してこの地上において完成しないからです。もっと言えば、今日、信じると決心した、今日、信仰を告白した、これで一生大丈夫、というのではないのです。もっと不安定なのです。むしろ、人間というのはふらふらとしてしまうのです。牧師がこんなことを言っては怒られるかもしれませんが、そういう、ぶらぶらしたところがあるのが、人間ではないかと思うのです。いつもカチッとした信仰、変わることのない信念に生きる、というのはかっこよく思えます。けれども、ほんとに私たちはそれほど強いものか、とも思うのです。むしろ、私たちは、目の前の現実に翻弄され、昨日のちょっとした家族の不機嫌、今日、急ぎのこの仕事、そんなものに引っ張られて、いつしか、信仰のことすら忘れかけ、あちらこちらとぶつかりながら生きていく、その中で信仰がある意味では試され、あるいは鍛えられていく、そんなことの方が本当に思えて仕方がないのです。

トマスの場合
そして、少々極端からも知れませんが、そもそも、私たちがどのようなものであるのか、それを端的に表しますのが、今日のところのトマスの存在です。ここでは、12弟子たちの内、トマスだけがイエス様が現れたときに一緒にいなかったために、彼だけがイエス様のご復活について「信じない」と言い張っているように見えます。確かに、そのようにも読めますけれども、しかし、このところでは、復活の日の夕方と、その八日後の、出来事の状況が全く変わっていないことに気が付きます。すなわち、弟子たちは家の中にいて、そして戸は固く閉ざされていたのです。この点において、二つの日曜日の弟子たちの様子はほとんど変わっていないのです。そして、この閉ざされた戸という言葉は、実際的な意味とともに、比ゆ的な意味、弟子たちの心のあり方を示しているようにも見えます。彼らの基本的な態度は、恐れであったかもしれません。そして、自らを守ろうとして、かたくなになっている、という様子がそこで見て取れるのです。そのような弟子たちのあり方の、ある意味では代表として、トマスという人を見ることができるのではないでしょうか。そして、それは何も弟子たちだけではなく、私たち人間一般の代表としての役割も果たしているようにも見えます。もっと言えば、トマスが陥った、とあえて言いますが、そのかたくなさ、その分からなさ、は決して彼だけのものではない、と思えるからです。むしろ、私たち人間の中に、このようなかたくなな思いが潜んでいて、何かの折に声を上げ始める、そのようなものとして、このところを読みたいのです。

トマスの宣言
そこで改めて、トマスの言葉を確認してみます。25節です。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」この釘跡というのは、くぎが打ち込まれて、穴が開いてしまった傷跡のことです。そんな穴の開いた手をしっかりと見て、さらに、その手の釘の跡に指を突っ込んでみるのだ、とトマスは言い張っています。それは、もはやグロテスクといってよいでしょう。それはわき腹の槍の後に手を入れてみる、という主張にしても同じです。ぞっとするような話です。けれども、この時トマスは、ひょっとして、そのようなことが本当にできるとは、まったく思っていなかったのかもしれません。むしろ、このような極端な話はいささか空想的であってもっと言えば勢いて語っているのであって、実は最後の一言をより効果的に響かせるために語られているように見えます。すなわち、トマスが最も言いたかったこと、それは、「私は決して信じない」という一言です。ほかの弟子たちが、何と言おうと、自分は絶対に信じない、イエス様を信じない、と彼は言っているのです。そして、そこにはひょっとして、深い絶望、失望のようなものがあったのかもしれません。とにかく自分が期待していたようにならなかった、自分の夢を実現してくれなかったイエス様を決して認めない、そんな思いです。この思い通りではない、気に入らない、というところで凝り固まっているそんな心こそ、「信じない」という言葉の中身かもしれません。

砕かれるトマス
しかし、そのようなトマスの前に、改めてイエス様が立たれます。イエス様は閉ざされた戸を潜り抜けて、弟子たちの真ん中に立ち、そして平和を告げられます。これは、全く聖書にある意味での平和です。神様と人間の間に何の対立もわだかまりもない、という意味での平和です。このような平和を、イエス様は、人の心の中に入っていって、作り出すことができる、ということをこのところは示しています。また、実際にだれに対してもそのようにしてくださるのです。特にこのところでは、イエス様はトマスに対して、決闘を挑んでいます。それは、トマスが語った言葉を、そのまま実行するように迫る、という言い方によってです。27節のカギ各個の中をもう一度読みます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」君がめちゃくちゃなことを言った、その言葉の通りにしてみたらどうだ、もし、それで納得するのなら、そうしてみるがいい、とイエス様はぐいぐいと迫るのです。そんなことで気が済むのなら、そうすればいいのだ、しかし、君にとって大切なことは信じることだ、このように言われた時に、トマスの心は、砕かれています。それまでかたくなに信じない、と主張していた彼はそれを180度ひっくり返して「私の主、私の神」と告白しています。

イエスの平和
そして、おそらく、私たちにとって、最も必要なことは、この告白です。例えば、今日はあまり詳しく触れませんでしたけれども、復活の日の夕方、弟子たちに向かってイエス様が、与えられた言葉には、派遣の言葉がありました。これは、弟子たちに、ご自身の働きをゆだねる、ということです。とりわけ、人々を罪の状態、それは言い換えれば、神様を信じられないかたくなな心を持った状態ですが、そのような信じられない状態から人を自由にすることが、弟子たちに、ひいては私たち教会に委ねられているのです。このところはそのような意味です。しかし、このような大きな働きは、何よりも、私たち自身が、まずは、不信仰から自由でいなければ実現しません。しかし、わたしたちは、弱いものであり、この世界の現実の中で、絶えず揺れているようなものです。それゆえに、このところで行わている日曜日の出来事が、私たちにとって決定的に大切です。それは、すなわち、私たちの心の中に、イエス様をお迎えすること、そして、平和をいただくこと、そして何よりも、聖霊を受けることです。イエス様の派遣には、聖霊が伴います。この聖霊は、ただイエス様によって与えられ、イエス様を信じ、告白する聖霊です。トマスの告白にある通りです。トマスはイエス様を指して「私の主、私の神」といったのです。これこそが、イエス様によって、あるいはイエス様が与えてくださる聖霊の力によって、私たちの中で起きることです。

何度でも繰り返し-見ないで信じる
そして、このことは、何度でも繰り返されてよいはずです。あるいは、何度でも繰り返されなければならないのです。なぜでしょうか。その答えは、29節です。「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」この最初のイースターとそのあと、弟子たちは復活のイエス様を見ていました。しかし、イエス様は、この後、どうされたでしょうか、ヨハネにはありませんけれども、ルカ福音書と使徒言行録には、この後、天に昇られたと書かれています。私たちがいつも告白している使徒信条でも「三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り」とあるとおりです。そして、「全能の父なる神の右に座して」おられ、そこから私たちに聖霊を送ってくださるのです。そうしますと、この最初の数十日を除いて、弟子たちにしましても、私たちにしましても、イエス様を直接見るのではなく、見ないで信じる、ということがこの後で起きていく、ということになります。そして、そのようにして、地上の歩みの限り、わたしたちであれ、だれであれイエス様に呼ばれた人が、イエス様を信じる信仰へと目が開かれていく、たとえ疑ってもまた、信じる信仰へと目が開かれていく、それをもってイエス様は、「幸いだ」と言ってくださっているのです。

私たちのしるし
更に30節には、書かれていない、多くのしるしがあった、とあります。私たちに信仰が与えられている、この事実もまた、聖書には、書かれていません。しかし、わたしたちが、今こうして、教会に集められている、そしてイエス様を信じようとしている、日々の生活の中にあっても、イエス様の言葉を思い出し、それに励まされ、慰められ、時に正されて生きている、そのようなことそのものが、聖書に書かれていない多くのしるしです。あるいは、私たち一人一人の信仰が、イエス様のなしてくださるしるしそのものです。

ここにある平和
そして、私たちがそのようにしてイエス様によって心を開かれていく限り、たとえ何度も失敗して、また改めて心を開くことの繰り返しであったとしても、そこに間違いなく、神様の平和が実現しています。平和は、どこかで、誰かが実現してくれるものではありません。むしろ、今このところから、教会から、そしてこの礼拝から、イエス様の言葉に触れた私たちから、神様の平和が始まっていきます。


祈り
主イエス・キリストの父なる神様。私たちがなお困難な中にあって、日々あなたに支えられていることを覚えます。そればかりでなく、あなたは御霊において今も私たちを顧み、御子と引き合わせてくださいます。私たちがトマスの叫びに声を合わせ、イエスを我らの主、我らの神とたたえて、この週を過ごし、また、それぞれの所であなたのご栄光をあらわすものとされますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

毎週日曜は礼拝の日

新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。

お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
午前10時30分~11時30分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
日曜夕拝
午前16時30分~17時30分
日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会祷会
毎週火曜日 19時00分から20時00分
毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。

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