毎週日曜は礼拝の日
新座式志木教会では毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。
お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週火曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 午前10時30分~11時30分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 日曜夕拝
- 午前16時30分~17時30分
- 日曜の午後に開かれます。こちら必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会祷会
- 毎週火曜日 19時00分から20時00分
- 毎週火曜日の夜に開かれるお祈りのため集会です。聖書を学び、皆と共に祈りを捧げます。お仕事などの都合で日曜日に教会に来られない方は是非どうぞ。
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「イエスが立つときに」
ロバについて
今日から受難週ということで今日のところは、イエス様のエルサレムでの最初の出来事の様子が描かれています。このところは大きく分けると二つのことが語られています。一つは二人の弟子が派遣されてロバを連れてくる出来事、そして、もう一つは、そのロバに乗ってイエス様がエルサレムに入っていく、という出来事です。ここに登場します少し不思議なロバ、まだ一度も人を乗せたことがないロバ、それが奇跡的に見つけ出されて、イエス様のお役に立つ、という姿はキリスト教会において、私たち信仰者にとっての模範のようにして理解されてきました。それは、それで大切なことなのだと思います。ただ、今日はこのロバについて考える前に、このところ全体をの見通しについて考えたいのです。その場合にポイントとなりますのは、神殿です。神殿にイエス様が入った、というこの出来事です。そもそも、ロバが探しだされたのも、当然と言えば当然ですが、それに乗ってイエス様がエルサレムに入る、そして神殿に立つ、このことのための準備の一つなのでした。その意味では、いつでも主役はイエス様です。そして、イエス様が何をしたのか、それがいったい何のためであるのか、それこそが、私たちにとって最も重要であるはずなのです。
神の意志で
その場合にまず押さえたいのは、イエス様が弟子たちにこのように言いなさい、と教えられた言葉です。3節ではとがめられたときに語る言葉があります。「主がお入り用なのです。」とありますところです。この場合の「主」は、イエス様のことを指しているようにも見えますが、しかし、ここでは、むしろ、神様ご自身と読みたいのです。さらに言いますと、ここに至ること全体、例えば、マルコではすでに、8章(31節)、9章(31節)、そして10章(32節)でそれぞれ、イエス様がエルサレムに登られること、そこで捕らえられ、殺され、しかし復活する、と予告されていましたし、それは神様の御心に沿ったことでした。また、今日のこのところの出来事全体、すなわち弟子たちが、イエス様によって派遣されて、村に出かけていき、イエス様が言われた通りに子ロバを見つけ、そのひもを解いているときに、立っている人たちに言いとがめられ、イエス様に言われた通りの言葉を語ると、ロバを連れていくことが許され、そして、イエス様は、ロバに乗ってエルサレムへと歩んでいく、前後では、この出来事を、詩編の都登りの歌になぞらえて、歓声を上げる人たちが取り囲んでる、といったこの出来事全体が、神様が望まれ、そして、神様のご計画された通りに進行し実現している、とこのように見たいのです。
入城だけが目的
それから、神様のご計画ということの関係では、そもそも、この入場自体に、大きな意味、意義があると言えるのかもしれません。それは特に、このところの終わりの11節を見ますと明らかです。11節は淡々と事実を語っています。すでに時刻が遅かったこと、イエス様は、エルサレムの町と神殿の様子を見られたこと、そして、ただ、それだけで引き上げられたこと、が報告されています。ある意味では、とても貴重ともいえる、エルサレムでの一週の最初の日に起きたのは、ただこの入城行進だけでした。言い換えれば、この日になすべきことは、ただ、この子ロバに乗って入城する、このことだけだった、これ自体が目的だった、とも言えます。そうしますと、私たちは、やはりこの入場そのものの様子をまずは、しっかりと受け止めるべきなのかもしれません。一見のどかにも見えます、このイエス様の入城の様子、このところの言葉こそ、私たちがよく味わいたい言葉であるはずなのです。その際、私たちは、一つの言葉に注目して考えたいのです。それは、イエス様の前後で歓声を上げている人たちが、喜び叫んでいるその言葉そのものです。
詩編との比較-何を見るか
このところマルコでは9,10節です。まずはもう一度読んでみます。11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」、次にこの言葉のもととなった詩編の言葉を読んでみます。詩118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」。このように二つを並べますと、だいぶ違っていることに気づきます。その際、ホサナという言葉に注目してみます。詩編のほうには、この言葉がないように見えますが、これは、もともと、ヘブライ語で「主よ我々を救ってください」という意味で、それは日本語の翻訳でも「私たちに救いを」と正確に訳されていますから問題ありません。むしろ、注目したいのは後ろ半分です。もともとの詩編は、都に上る歌、巡礼の歌です。祭りの時に、エルサレムに多くの人が上ってくる、その人たちを歓迎して歌われる、「祝福があるように」と呼びかける、そんな歌です。ところが、マルコでは全く違った言葉に代わっています。
群衆とイエス
「われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」。細かいことを言いますと、イスラエルでは、ダビデを父と呼ぶ習慣はないようです。しかし、ここでは、あえてダビデを父と呼んでいます。さらに言えば、この言葉の前提は、ダビデに与えられた王国が、新しくまたやってくる、そのような王国に祝福があるように、と叫んでいるというところです。王国が来るのです。イエス様の前後を歩く人たちは、自分たちを解放してくれる、新しい王の登場、新しい王国の訪れ、その新しい王として、イエス様が行進していく、そのようなものとして、この出来事を理解し、興奮して楽しんでいたのでしょう。その場合、周りの人たちが考える王国は、全く現実的な王国です。地上の王国です。しかし、そこで、もう一つ確認したいことがあります。それは、イエス様は、この入城行進において、前後の人たちの声に全く答えていない、あるいは、そもそも、このところでイエス様が何かを語った、ということは、全く書かれていない、という事実です。イエス様は、沈黙しておられるのです。もちろん、イエス様は、語るべき時には激しく語る方です。しかし、このところでは群衆の喜びの声にこたえないのです。それは、イエス様の目的が別のところにあったからではないでしょうか。
神殿とは
では、イエス様の目的とは何だったのでしょうか。おそらく、それは、この行進の到着点そのものです。それは最初にお話ししました通り、神殿そのものです。この行進が目指したのはエルサレム神殿です。では、そもそも、神殿とは何をするところだったでしょうか。もっとも単純に言えば、神様のいるところ、神様とお会いするところです。それは、神様の言葉、律法によって規定されていました。そして、このエルサレム神殿には、律法に従って、神様とお会いするための様々な儀式、しきたりと、それを執り行い、コントロールしている人たち、すなわち祭司長、律法学者、といった人たちがいました。そして、今までもそうでしたが、この最後の一週間の前半において、イエス様は、彼ら指導者たちと言葉を交わし、そして、その在り方の間違いを指摘していくことになります。その意味では、イエス様は、神殿のあり方を変えるために、それも、徹底して神殿のあり方を変える、ためにやってこられた、と言っていいはずです。イエス様の目的、それは、これまでの神殿の在り方、人間が、律法に従って、とにかく、形だけでも、その通りにすれば、人間が正しく行えば、神様は、人間の言うことを聞いてくれる、神様は、神殿にいてくれる、というそのような考え方そのものを、超えるために、神殿に立たれたのです。
ロバのように
それはどうやってでしょうか、それを端的に表しておりますのが、おそらく、このところでのロバの姿です。最初に、このところの主役はいつでもイエス様です、とお話ししました。これは、何も聖書の中だけのことではありません。むしろ、私たちの生き方全般にかかわることです。先ほどの神殿に対する考え方でいえば、私が、これをして、あれをして、こうすれば神様が言うことを聞いてくれる、というように考えるのなら、その場合の人生の主役は私たちです。神様はお客様です。しかし、このところでは、一貫して、物語を進めているのは、神様ご自身であるのは、最初に確認した通りです。「主がお入り用なのです」と会った通りです。神様が、そして神様に従うイエス様が必要としている、そのために、ロバがある、という順番です。私たちも同じです。イエス様が主人であり、イエス様を乗せて歩んでいく、こちらが実は正しいのです。なぜでしょうか。実は、このロバに乗るイエス様の姿において、神殿の新しいあり方が示されているからです。
わたしたちが神殿
なぜなら、イエス様が私たちの主人であるということは、イエス様と私たちとは、一体となっているはずだからです。その場合にはもはや、神様を呼び寄せて、何かしてもらおう、ということにはならないのです。そうではなくて、私たちは、いつも一緒にいる、イエス様を通して、いつも神様と一緒にいることになります。神殿とは神様がいるところでした。しかし、イエス様が私たちと一緒にいるのであれば、もはや神殿という場所はなくても、私たち自身が、神殿そのものになります。そこで、一つの聖書の言葉、パウロの手紙の言葉を読んでみます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(コリント上3:16)。パウロが発見したのもまた、このことです。イエス様の十字架と復活の前と後では、事態は全く変わった、ということです。あの十字架の後では、もはや、私たち自身が、神様のいるところ、神殿のようなものになった、というのです。
イエスが立つときに
イエス様が無言で、神殿に立ってくださった、そこから、世界は変わり始めたのです。そして、その変化は、十字架の死と復活、それに続く昇天によって、完成しています。私たちは、イエス様が完成してくださった時代を生きています。イエス様が変えて下さった世界の中に生きています。新しい世界の始まりのしるしは、神殿に立ったイエス様です。私たちは、この決定的なしるしを、確認して、そして、イエス様が、私たちを探し出してくださり、私たちの主人となってくださっていることを確信して、子の受難の州を過ごしたいのです。
祈り
父なる神様、あなたは、御子を私たちの柔和な王として、力ではなく低さにおいて仕える王として、私たちのそばに送ってくださいました。そして、私たちもまた、このイエス様に従い、自分の十字架を負って従うものとなるように招いてくださいます。私たちが、このイエス様との関係にこそ命があることをはっきりと知ることができますように。この週の歩みにおいてもあなたが私たちを励ましてくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン